つながっている
店を出てから空腹を感じたので、肉屋に寄ることにした。久しぶりに全力で弾き語りしたことでずいぶんと体力を消費していたらしい。今日はコロッケを二つ買って、ひとつは帰り道で食べようと決めた。
近くまで来ると、店の前に見覚えのあるユニフォームを着た子供が数人いるのが見えた。ここに来る前に通りかかった中学校で見かけたサッカー部の子達で、ひとりずつ揚げ物の包みを受け取っている。きっと彼らも部活で消費したエネルギーを補給しようとしているのだ。
彼らと入れ替わるタイミングで僕も店に着き、コロッケを注文しようとしたが、店頭のショーケースを見て目を疑った。ショーケースの中には目当てのコロッケを含め、揚げ物がひとつも残っていなかったのだ。おそらくさっきの中学生たちの分で品切れになってしまったのだろう。
僕がショックで固まっていると、店番をしている奥さんが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「ごめんなさい、いま揚げ物切らしちゃってて。いま揚げてるところだから、十分くらいかかっちゃうんだけど」
それを聞いて、完全に売り切れたわけではないことにひとまず安堵した。
待ち時間も十分程度なら問題ない。むしろ揚げたてを食べられるなんてラッキーだ。
「全然大丈夫です」
「ありがとう。それで、なににする?」
奥さんは安心したように頬を緩ませている。
僕が「コロッケを二つ」と伝えると、奥さんは「いつものやつだね」と楽しそうに笑う。その屈託のない笑顔につられて僕も頬が緩んだ。
注文を受けてから、奥さんは店の奥とカウンターを行き来しながらきれいに切り分けられた生肉を部位ごとにショーケースへ補充していた。店の中からはパチパチと油の跳ねる音がして、覗いてみると旦那さんがフライヤーの前で作業しているのが見えた。
「あ、そうだ。お兄さんにも聞いておこうかな」
作業の途中、奥さんは思いついたように言うと、手を止めてショーケース越しに僕の正面に立った。
「お兄さん、週末によくこの商店街に来てるでしょ?」
突発的な質問に僕は首をかしげた。
意図が分からず、僕は「ええ、まぁ」と曖昧な返事をした。
「今日不思議なことがあったのよ。ほんの数十分前くらいのことなんだけね」
不思議なこと? なにか事故でもあったのだろうか。
数十分前というと、僕は夢野さんの店にいた。その時に外で騒ぎになることがあったのか。だけど、夢野さんの店を出てからこの肉屋に来るまで、商店街の中はいつもと変わらなかったと思う。
心当たりがなくて、僕は「なにかあったんですか?」と訊ねた。
すると奥さんは「実はね……」とやけに溜めを作ってから、おもむろに口を開いた。
「どこからか分からないけど、歌が聞こえてきたのよ」
「……え?」
僕は固まった。
不思議なこと。数十分前。商店街。歌。
まさか……。
「弾き語りっていうのかしらね。誰かがギターを弾きながら歌ってたのよ。でも、外にはそんな目立つことしてる人はいなかったし、なによりハッキリと聞こえるのにどこに音源があるのかまったく分からなかったのよ。だから不思議だなぁって思ってね。そもそも歌が聞こえてくるなんてこと、いままで一度もなかったし」
ギター。弾き語り。その二つで確定だった。
僕だ。
奥さんが言っている誰かは、僕のことだ。確実にあの雑居ビルの二階での弾き語りのことを言っている。
僕は恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
まさか他の人にも聞かれているなんて。夢野さんだけにしか聞こえていないものだと思っていたのに。あの雑居ビル、防音機能が備わっていなかったのか。
奥さんの話ぶりだと、どうやら僕の歌は商店街中に広がってしまっている。これじゃあ路上ライブをしていたのと変わらない。
嫌な想像が頭の中で渦を巻く。
近所迷惑だと思われたかもしれない。下手くそだと思われたかもしれない。ダサい曲だと思われたかもしれない。笑いものにされているかもしれない。
夢野さんがくれた賞賛が、あっという間に底の方へと沈んでいく。
奥さんは「そっか。お兄さんは聞けなかったのねぇ」などと、ぶつぶつ呟いている。
早くこの場を立ち去りたかった。コロッケはまだ揚がらないのか。
僕が
「もったいなかったわねぇ。いい曲だったのよ」
僕はばっと顔を上げた。
いま、なんて言った? いい曲?
「いい曲だったんですか?」
僕は思わず訊ねる。
「ええ。すごくよかったのよ。優しくて、でも誰かの力になりたいっていう強い想いが感じられてね。ジーンときちゃった」
奥さんは宙を見上げてしみじみと語った。
思い出に浸るようなその様子を見て、僕は頭の中に生まれた渦が静かに消えていくのを感じた。さっきまで血の気が引いたような気分だったのが一転、いまは身体に熱を帯びている。
奥さんは正面に顔を戻すと、今度はなにかに気づいたように視線を横に向けた。釣られて僕も同じ方向に目を向けると、さっき揚げ物を買っていたユニフォーム姿の中学生の一人がこちらに駆けてきていた。ずっと走ってきたのだろう。店の前に着く頃にはだいぶ息を切らしていた。
「あれ? 良介君、どうしたの?」
奥さんが訊ねる。
遠目では分からなかったけど、良介君と呼ばれたその中学生は、髪が短く日焼けもしていて、いかにも好青年という感じの子だった。インドアで運動嫌いだった自分とは正反対だなと、思わず当時を振り返ってしまう。
彼は乱れた呼吸を整えながら、ハーフパンツの右ポケットに手を入れ、やがてなにかを取り出した。
「これ、さっき貰ったお釣りで余分に多かったから」
彼の手に握られていたのは五十円玉で、彼はそれを奥さんの方へと差し出す。
すごいな。わざわざそれを走って届けに来たのか。僕はいたく感心してしまった。
それは奥さんも同じのようで「ごめんね! わざわざありがとう!」と声を上げている。
「でも、良介君さえ良かったら、そのまま持って帰ってもいいよ?」
奥さんの提案に良介君は首を振った。
「それだと届けに来た意味がないですから」
彼は笑ってそう言うと、レジカウンターの上に五十円玉を置いた。
「それもそっか。じゃあ、代わりに次の買い物の時に五十円分割引するね。おばさん、覚えておくから」
「分かりました。ありがとうございます」
奥さんの
僕は二人のやりとりをついじっと見つめてしまっていた。やがて僕の視線に気づいた良介君と目が合い、彼は僕に向かって丁寧にお辞儀をした。
「すいません。買い物の邪魔をしてしまって」
立派なものだ。礼儀の正しさにまたもや感心してしまう。
僕は「気にしないで」と軽く手を振った。
「僕もコロッケが揚がるのを待ってるだけだから」
そう言うと、良介君は「あっ」と声を漏らして気まずそうに僕を見上げた。
「すいません……。さっき僕らが買い占めちゃったからですよね……」
申し訳なさそうにする彼を見て、しまった、と思った。一回りも年下の子に気を遣わせてしまって恥ずかしくなる。
どことなく気まずい空気が流れると、それを断ち切るように奥さんが割り込んできた。
「いやいや、悪いのはこっちよ。切らしちゃったのがいけないんだから。ごめんね、二人とも」
奥さんは良介君が渡した五十円玉をレジに入れながら言った。
そして話の流れを変えようとしたのか、さっきの話題を良介君へと振った
「そう言えば、良介君もあの歌を聞いたって言ってたわよね?」
「ああ、少し前に聞こえてきたやつですか。知らない曲でしたけど、いい曲でしたよね」
良介君が迷いもなくさらっと言うので、思わず二度見してしまった。
再び目が合って、良介君は微笑む。
「お兄さんは聞きましたか?」
「い、いや……」
さすがに自分が弾き語りしていたとは言えなかった。ただ、もう少しだけ曲の感想が聞きたくなって、僕は訊いた。
「どういう曲だったの?」
「一言でいうと元気が出る曲でしたね。励まされるっていうか。明日も頑張ろうって、そう思える曲でした」
良介君は笑顔でそう言った。
その笑顔を見て、僕はいっそう身体が熱くなるのを感じた。思わず涙がこぼれそうになり、それを悟られないように素早く目をこする。
こんなところにも届いていた。奥さんと良介君の二人。夢野さんだけじゃなかった。
全部、つながっている。これからも、つながっていく。
夢野さんの言葉が頭の中で反芻された。
ピピピピッとタイマーの鳴る音がして、奥さんが振り返る。コロッケが揚がったのだ。それを区切りに良介君は切り出した。
「じゃあ俺、そろそろ戻ります」
「ああ、良介君、わざわざありがとうね。気をつけて帰ってね」
奥さんは手を振りながらそう言って、店の中へと入っていく。
僕も「気を付けて」と軽く手を振ると、良介君は小さくお辞儀をして去っていった。
「ありがとう」
小さくなっていく背中に向けて僕は呟いた。
奥さんが揚げたてのコロッケが乗った網付きのバットをショーケースに入れる。そこからコロッケを二つ取り出して紙袋に入れ、さらに持ち帰りやすいようにビニール袋をつけてくれた。
「はい、お待たせ」
「どうも……」
渡された袋を受け取り、代金を支払う。
「ありがとうございます」
僕は軽く頭を下げながら、はっきりとそう告げた。
帰り道にコロッケをひとつ食べた。いままでで一番美味しく感じられたのはきっと、揚げたてだからというだけではなかった。
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