夢のつづき①
次の土曜日の昼頃、僕はいつもの散歩コースを辿って商店街へと訪れた。今日は散歩が目的というわけではなくて、会いたい人がいたのだ。北口から入って中ほどを過ぎたところで、僕は足を止める。手書きの張り紙と古びた雑居ビルが今日も変わらずそこにあった。
二階まで上がって左手側の扉を開けると、夢野さんはソファでギターを構えていた。
「あ、西田さん」
夢野さんはそう言って、ギターを鳴らす。じゃーん、とCコードが部屋に響いた。
「どうも。ギターの練習ですか?」
「ええ。先週の西田さんの演奏を聴いて、また始めてみようかと思いまして。でもやっぱり難しいですね。指が痛くてなかなか思うように弾けません」
肩を落とす夢野さんに僕は笑いかける。
「初めはみんなそうですよ。やり続けているうちに指が固くなって、いろんなコードを弾けるようになりますから。大事なのは積み重ねですよ。そうでしょう?」
夢野さんは一瞬ハッとしたような表情をして、「そうでしたね」と笑った。
それから立ち上がって鼻歌交じりにギターをケースに仕舞い、僕と向き直った。
「それで、今日も夢をご所望ということですか?」
「いえ、今日は夢野さんにお礼を言いたくて」
「お礼、ですか?」
小首をかしげる夢野さんに僕はお辞儀をした。
「はい、ありがとうございました。ここで夢を見せてもらって、大切なことに気づけました。僕、もう一度ギタリストを目指してみようと思います。どうするかは具体的に決めていないですけど、ギターを手放さないってことは決めました」
夢野さんには伝えておきたかった。僕の大事なファン一号には。
僕の宣言に夢野さんは「そうですか」とうなづく。
「ずいぶんと吹っ切れたご様子ですね」
「ええ。いろいろと決心がつきました」
実はギタリストを目指すことの他にもうひとつ、決めたことがあった。
それは、いまの会社を辞めることだ。
こっちも具体的な時期や転職先を決めているわけではない。ただ、いまの会社に居続けることはしない。コツコツと準備を進めていつか辞める。そう決心するきっかけがあった。
今週の火曜日、僕は生瀬さんという担当者のところへ打合せに行っていた。
もともとは先週に予定されていたものが、小野さんの我儘によって今週にズレ込んでしまったのだ。僕にとっては具体的な契約の説明をするためのとても大事な打合せだったのに、強引に延期させられてしまった。
僕はこの日を迎えるのがずっと不安だった。白髪交じりのとても温和な人である生瀬さんが、電話でリスケの打診をした時にかなり渋い反応をしていたからだ。
なんとか予定を合わせてもらったものの、案件が流れてしまうかもしれないという不安がずっと拭えなかった。
だけど、行ってみたら生瀬さんは温かく迎えてくれて、打合せは拍子抜けするくらいにスムーズに進んだ。内心どきどきしながら一通りの説明を終えると、生瀬さんは僕が用意した資料を手に微笑みながら言った。
「そうですね。一応、正式な回答は社内で検討してからにはなりますが、御社にお願いすることになると思います」
内示だ。僕は思わず安堵のため息をついた。
無理やり延期をしたことで信用を失い、案件を逃してしまうのが一番の不安だったのだ。
「ありがとうございます!」
僕は深く頭を下げた。じんわりと身体が熱くなり、涙が出そうだった。
実は、僕にとってはこれが初めて獲得した新規案件だった。この一件を掴むためにいままで身を粉にして働いてきたのだ。コツコツと続けてきたかいがあった。これまでの苦労が無駄にならなくて、本当に良かった。
0と1は違う。本当にその通りだ。仕事も同じ。
ここから。ここからさらに積み重ねて、つなげていこう。
僕は顔を上げた。視界がいつもよりもパッと明るく開けているように見えた。
この流れで契約について詳しい話をしよう。そう思ったところでポケットのスマホが振動し始めた。誰かから着信が入ったのだ。いまは無視して話を進めようとしたが、バイブレーションの音に気付いた生瀬さんが「どうぞ出てください」と手を向けた。僕は「すみません」と頭を下げながら会議室を出た。
電話は小野さんからだった。いつも通り見積りを作ってくれという内容で急ぎというわけでもなかったので、概要だけ聞いて半ば強引に切った。いまはそれどころじゃない。
急いで会議室に戻ると、生瀬さんは事務員さんが出してくれた湯呑をすすっていた。僕が再び席に着くと、生瀬さんはお茶を一口飲んでから、さらっと言った。
「小野さんの下は大変でしょう」
僕は「え?」と声を漏らした。
生瀬さんはさっきの電話が小野さんからだと見抜いているようだった。声を潜めたつもりだったけど、会話が会議室まで漏れてしまっていたのかもしれない。
「小野さんは我を通す方ですから。もちろん、それは営業にとって大事な要素ではありますけど」
生瀬さんはそう言って、もう一度湯呑に口をつけた。
小野さんのことをよく分かっている。二人は僕が入社するより前に別の案件でやり取りをしていたことがあったと以前に小野さんから聞いた。その時はごく短いやり取りで、結局契約には至らなかったらしいけど、生瀬さんはきっとその短いやり取りで小野さんの人柄を掴んでいたのだ。
「あはは……僕も小野さんのようにできればいいんですけど……」
生瀬さんのいうように小野さんには自分を押し通して人を引っ張っていく力がある。おどおどしている僕とは正反対に、堂々として自信を感じさせる小野さんは確かに契約数が多い。
僕が羨むようにこぼすと、生瀬さんは「無理して小野さんのようにならなくても大丈夫ですよ」と言った。
「小野さんがぐいぐい引っ張っていくタイプだとすれば、西田さんは伴走するタイプだと思うんですよ。日々のやり取りの中に細かい気遣いや優しさがあるというか。そういうところはむしろ西田さんの強みになると思います」
「伴走するのが、僕の強み……」
「そういうスタイルも十分武器になりますよ。いろいろ経験を積めば、納得のいくやり方も見えてくるでしょう」
優しい声音の内に強い説得力があった。もしかしたら自身の体験がもとになっているのかもしれない。さっきの言葉を借りると、生瀬さん自身は伴走するタイプに見える。きっといまのスタイルを手にするために、たくさんのことを積み重ねてきたのだ。
良き理解者を得たような気がして、僕は心が軽くなるのを感じた。
帰り際、わざわざ見送りに来てくれた生瀬さんが言った。
「こんなことを取引先の人に言うのはおかしな話かもしれませんが、いまの環境が合わないと感じるなら転職するのもアリかもしれませんね。かくいう私も、いまの会社は三社目になるんです」
転職か……。本気でそれを考えたことはいままでなかった。
会社を辞めたいと思うことはあっても、実行に移す勇気がなかったからだ。他のところに行っても通用しないんじゃないかという不安がずっとこびりついていた。
「生瀬さんは転職することに不安はなかったですか?」
「多少はありましたよ。ただ、仕事を含め自分の生活を構成するすべてのことを考えた時に、環境を変えることが最良の選択だと思ったんです。先のことは分かりませんから、その時の自分の気持ちに素直に従うことにしたんです」
生瀬さんは宙を見上げて懐かしむように言い、そのあとすぐ、まっすぐに僕を見て微笑んだ。
「西田さんもなにか思うところがあるのなら行動してみるといいかもしれません。西田さんの未来には、まだまだいろんな可能性が広がっていますから」
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