僕の夢②
「さてっ」
夢野さんがパチンと手を叩く。
「説明も済んだことですし、さっそく書いてみましょう! これはもう実際に体験しないと分かりませんから」
そう言われて、僕はとりあえず紙を引き寄せてペンを手に取ってみた。けれど、いざ書こうと思っても見たい夢が思いつかない。そもそも夢の内容なんてその日のうちにほとんど忘れてしまうものだし、記憶に新しいものと言えば仕事で理不尽に怒られる夢でむしろ悪夢だから二度と見たくない。
僕は宙を見上げて目を瞑り、どきどき「うーん」と唸り声を漏らした。
その姿勢のまま、どれくらい経っただろうか。一字も書けず、気がつけば無意識にキャップを被ったままのペンを弄んでいた。
夢野さんはいつのまにか席を立ち、コーヒーを片手に窓の外を眺めている。
待たせてしまっていることのプレッシャーが、さらに思考を停滞させる。
「なにも思いつかないな」
僕がため息交じりにそうこぼすと、夢野さんは「でしたら」と僕に視線を向ける。
「ギタリストになって活躍する夢なんてどうですか?」
ドクン、と心臓が大きく脈打ったのが分かった。夢野さんが続ける。
「西田さんはギタリストになるという夢があったんですよね? もしいまも憧れているなら、見てみてはどうでしょう?」
そう言われてハッとした。古い記憶が徐々に顔を覗かせる。脳が記憶の取り出しに集中しているせいか、白紙に落とされた視界は焦点が合わずぼやけていた。まるでフリーズした機械のように動かない僕に、夢野さんは不安そうに声をかける。
「あ、あれ? 変な提案でしたか?」
「……いえ、そういうわけではなくて。思い出したんです。高校の時に、自分がギタリストになる夢を見たなって。たしか人生初の生のライブを見に行った日で、印象が強かったからそんな夢を見たんだと思うんですけど。そう言えば、ギタリストになりたいって思ったのもその頃からだったな」
それで、大学に入ってから本格的に活動し始めて、でも結局……。
急に喉が乾いた気がして、コーヒーを多めに一口飲んだ。すっかり冷めてしまったコーヒーは苦みが強く感じられ、思わず顔をしかめたのが自分でも分かった。
「もう一度見てみてはどうですか? きっと楽しいですよ」
夢野さんはそう言って笑顔を浮かべている。
僕は再び黙ったまま手の中でペンを弄んだ。そして十分ほど経ってから、これ以上考えても浮かんでくるものはなにもなさそうだと思い、夢野さんの提案に乗っかる形でペンを走らせた。
名前は西田友樹。夢を見る日時は今日の二十三時から明日の六時に設定した。夢の内容は、自分がギタリストになること。
「ギターと言えば、私も一時期ですが触っていたことがあるんですよ」
僕がちょうど書き終えたところで、夢野さんが空になったカップをテーブルに置きながら言った。
「かっこいいなと思って始めたものの、Fコードの壁に当たって、情けない話ですがそれからは弾かなくなってしまったんです」
恥ずかしそうに頭を掻く夢野さんを見て、つい笑みがこぼれた。
「分かります。ギターあるあるですよね」
Fコードは多くの曲で使われる代表的なコードでありながら、押さえるのが特に難しいとされるコードでもある。だからFコードで
「だからギターを弾ける人はすごいなって本当に思うんですよ。西田さんの演奏もぜひ聴いてみたいです」
「いや、僕はそんな、たいしたことないですから……」
面と向かって褒められるのはなんだかむずかゆい。
そろそろ帰ろうと紙を手に立ち上がると、「紙は折り曲げても大丈夫ですよ」と言われ、四つ折りにしてカーディガンのポケットに入れた。
夢野さんは出入り口の扉を開けて送り出す準備をしてくれている。
僕は扉の前まで進んだところで足を止めた。ひとつ、聞きたいことがあった。
「あの、このお店って最近できたばかりですか?」
「いえ、そういうわけでもないですね」
「そうなんですか? 僕、この辺りはよく来るんですけど、いままでこのお店の存在を知らなかったことが不思議で」
「目立たないですからね。それにここは必要としている人の前に現れるものなんですよ」
僕は身体が固まった。なにか、重要なことを言われた気がした。
「それって……」
「あ、ひとつ伝え忘れていました」
僕が口を開くと同時に、夢野さんはかぶせるように言った。
「夢を見た後ですが、紙は消滅するようになっています。無事に夢を見ることができた証ですので、ご安心ください」
「え? 消滅?」
頭が混乱してくる。
わけがわからないことばかりで、ここが夢の中ではないかと疑ってしまう。思えば、ここを見つけてから湧き出た疑問はなにひとつとして解消していない。
「本日はありがとうございました。興味がありましたら、またお越しください」
夢野さんはそう言って恭しく頭を下げた。
きれいな締め方をされてしまい、とやかく訊ける雰囲気ではなくなってしまった。
まぁいいか、と思いつつ、僕も「ありがとうございました」と軽く一礼して部屋をあとにした。
雑居ビルから通りに出ると、そこにはいつもと同じさびれた景色が広がっていた。日常に戻った感覚に安堵しながら、僕は商店街を抜けるために南口の方へと足を向けた。
途中、南口の近くにある肉屋に寄った。六十代半ばの夫婦で営まれているその店は、僕がこの商店街で唯一買い物をする店だ。
いつものようにコロッケをひとつ頼むと、三角巾を巻いた奥さんが「はーい、コロッケひとつね」とハキハキした声を発しながらショーケースからコロッケを取り出した。
週末の散歩は、自分へのちょっとしたご褒美としてこの店でコロッケを買うことまでがセットになっている。実際、ここのコロッケはかなり美味しいので楽しみとしての効果は高い。
代金を支払い、「いつもありがとねぇ」と渡されたコロッケを受け取って、僕は商店街を抜けた。
アパートに着き、鍵を出すためにカーディガンのポケットに手をつっこむと、カサッと柔らかい紙の感触が指に伝わった。部屋の前に着くまでの間、折りたたまれた紙を弄び、その存在を何度も確かめた。それはいつもの日常に突如として紛れ込んだ非日常が夢ではなかったことの証だった。
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