第一章 ギタリスト 2

玄関から出ると、風がそっと頬を撫でるのを感じた。快晴が作り出す陽気に穏やかな風が混じることで外は不快感がなく過ごしやすい。だからなのか、アパートに面する通りを行き交う人が少しばかり多い気がした。ランニングする人、手を繋いで歩く親子、ジャージ姿の学生。自分の部屋がある二階の通路からは通りを流れる人の様子がよく見える。


階段を下りてからは、その流れに加わるように僕もいつものコースに足を向けた。向かう先は近所の商店街だ。大学卒業後に就職し地元を離れて三年、休日に近所の商店街とその周辺を散歩することが決まり事のようになっていた。少しでも外に出て運動する習慣があった方がいいだろうと軽い気持ちで始めたことだけど、思いのほか気分転換になるため続けている。


特に目的もなく歩いていると、頭に巣食った雑念が少しずつ薄れていき、ざわついた心も鎮まっていくのだ。ネガティブな感情は完全に消えるわけではないけど、散歩した後はいつも少しだけ余裕を持てるようになっている。


このコースの中間地点にあたる川沿いの道に来たところで足を止めた。ここは小さな桜並木となっていて、いまはちょうど満開の時期だった。雲一つない青空の下で淡いピンク色の花びらがそよ風に揺られている。さわさわと音をたてながらなびく桜を見ているとさっそく、家を出るまでモヤがかかっていた心が徐々に晴れていくのが分かった。

僕はひとつ深呼吸をしてから、時折立ち止まりながらもコースの続きへと歩を進めた。



ゆっくり二十分ほど歩いたところで商店街北側の入口が見えてきた。アーケードではないため屋根はないけど、商店街の存在を知らせるようにアーチ状の看板があるため分かりやすい。

ただ商店街に行くだけなら南口の方が近いけど、気分転換の散歩なのであえていつも遠回りして北口に来ている。


中に入るといつもと変わらない景色が広がっていた。

まばらな人通りと古ぼけたシャッター。


正直に言って、この商店街はさびれている。開いている店は数えるほどで、それも酒屋や本屋、肉屋とかで物珍しさもない。そう遠くない距離に商業施設を備えた大きい駅もあるため、買い物客のほとんどはそっちに流れてしまっているのだろう。


それでも需要はあるのか、以前に何回か、酒屋の前を通ったときに中年くらいの男性が大きいビニール袋いっぱいに酒を買って出てくるところを見たことがある。賑わっていなくても存続できているのは、少数でもこの場所を必要としている人がいるからなのかもしれない。


閑静な空間に癒されていると、どこからかラジオの音声が聞こえてきた。音源を探すと、右手側にある本屋で店主と思われる白髪のおじいさんが暇そうにしながらラジオをBGMに新聞を読んでいる。そのラジオから「新社会人」という言葉が聞こえてきて、僕は思わず足を止めた。


「明日から四月なんだよな」


僕は小さくそうつぶやいた。


社会人の僕にとっては四月も年を重ねるタイミングという感覚がある。明日から僕は社会人三年目なので、もう二年が経過する。そう、もう二年経つのだ。だから、結果を出さなければいけない。いつまでもノルマ未達成ではいられない。頭の中で部長や直属の先輩の声が響いてくる。僕はそれをかき消すようにぶんぶんと頭を振り、足を速めた。


すると、視界の左側に一枚の張り紙が入った。

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