里美と美央
俺には家族がいた。妻の里美と娘の美央の三人家族で、美央は俺が三十歳、里美が三十二歳のときに産まれた。ずっと子供が欲しいと思っていたから、美央が産まれたときは二人して大喜びしていたことをいまでも覚えている。
美央がまだ小さかった頃は家族で過ごす時間が多かったと思う。
里美はもともとデザイン会社に勤めていたが、出産を機に会社を辞めて専業主婦になったし、俺もこの頃はそこまで忙しくなかったから、休日は家族で旅行に行くことも多かった。この頃は、家族三人で過ごすことが当たり前の日常だった。
変わり始めたのは美央が小学三年生に上がってからだった。会社で大きな案件がいくつも動き始め、急に忙しくなったのだ。残業や出張が大幅に増えて家にいられる時間が格段に減ってしまった。ちょうどこの頃から美央がピアノを習い始めたが、美央がせっかく演奏会に出ても、俺はあまり聴きに行くことができなかった。
ただ、忙しくなったのは悪いことばかりでもなかった。
残業が増えた分、毎月の給料は上がり、会社の業績が上向いたことでボーナスも増えた。おかげでもっと広いマンションに引っ越すことができたし、美央のためにピアノも買ってあげられた。一緒に過ごす時間は取れなくても、家族に貢献できていると思っていた。
家族皆でゆっくりするのは山場が落ち着いてからにしよう。そう決めて、気づけば二年が過ぎていた。
そして、いまから五年前、里美から離婚を切り出された。
山場が落ち着き始め、久々の休日を過ごしていたある日の土曜日のことだった。
「私達、別々に暮らしましょう。その方が幸せよ」
テーブルの上に半分埋まった離婚届を広げながら、里美は淡々と告げた。
「どうしたんだよ、急に……。美央は、美央はどうするんだ」
「急じゃないわ。少なくとも去年から考えていたことだもの。それに、これは他でもない美央のためなの」
「美央のため?」
そう訊き返す俺に、里美は憐れむような目を向け、ため息交じりに言った。
「……美央はね、学校でいじめられてるのよ。あなたは知らなかったでしょうけど」
俺は言葉を失った。
まるで嘲笑うかのように放たれた最後の一言が頭の中でこだましていた。
その後の里美の話によれば、美央は去年くらいから特定のグループから無視されたり、陰で悪口を言われたりしていたのだ。直接暴力を振るわれているわけではないにしても、美央は精神的にかなり追い詰められていた。
「美央も私も、あなたに何度も相談しようとしたわ。でも、あなたは取り合おうとしなかった。いつも不機嫌を露にして、私達を寄せ付けようとしなかった」
里美は恨みがましい口調だった。
俺は言い返すことができなかった。たしかに俺は、里美の言う通りずっと機嫌が悪かった。特に去年から今年の一年間はいままでにも類を見ない忙しさに余裕を失っていた。ずっと仕事のことが頭から離れず、家族にかまっていられなかった。
「このまま地元の中学に上がっても美央が辛いだけ。だから、私と美央はここを離れる。あなたは、忙しくて付いてこれないでしょ? だったら、ここで別れるのがお互いにとっていいはずよ」
「い、いや、でも……」
「お願い」
里美がぴしゃりと俺の言葉を遮り、今度は切実な声で言った。
「美央のためよ」
その言葉は重く俺の身体にのしかかった。
俺にできることは、もうなにもないのか。美央のためにできることは、このまま潔く二人を見送ることだけなのか。遠くなっていく二人の背中。それを想像したらひどく情けない気分になった。同時に、行き場のない怒りも覚えた。俺だって遊んでいたわけじゃない。家族を養うために身を粉にして働いていたのだ。それなのに……。
感情が複雑に絡み合い、俺は思わず立ち上がった。ただ、言いたいことがまとまらず、行き場を失ったように視線を動かしていると、廊下から美央が見つめているのが目に映った。
俺は息が止まった。美央の表情が、いままで見たことないものだったからだ。ひどく苦しそうで、俺を恨んで睨みつけているようにも見えた。
その表情を見たらふっと身体の力が抜けて、俺は椅子に座り込んだ。
俺にできることは本当になにもないのだと、ようやく悟った。そして、目の前にある離婚届のもう半分を埋めた。
翌日、里美は美央を連れて出て行った。
「じゃあね、浩一君」
久しぶりに里美から名前を呼ばれた気がした。
かつて俺を喜ばせた甘い響きは、ただただ虚しさを生むだけだった。
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