第一章 ギタリスト 12

「―――西田。おい、西田!」


右肩を叩かれて、僕はビクッと身体を震わせた。


「呼んでんだから返事しろ」


見上げると小野さんが横で仁王立ちしている。僕はすぐさま立ち上がって「す、すみません」と頭を下げた。

壁掛け時計に目をやると、いつのまにか夜の七時を回っており、社内には僕と小野さん以外誰もいなかった。


「ったく、ぼーっとしてんじゃねぇよ。ただでさえ役立たずなのに」


小野さんは僕を横切りながらそう言って、ひとつ隣のデスクに乱暴に鞄を置いた。胸の痛みをこらえながら、僕はもう一度「すみません」と頭を下げた。


「やっておいてって言った見積りはできてるよな?」


「どうぞ……」


頼まれていた見積りの提出先は全部で五社。どこも依頼する部品の種類と数が多く、納期もタイトだったため、社内の在庫確認やメーカーへの問い合わせが大変だった。


「PDFにしてあるよな?」


小野さんは渡した見積書をパラパラと流し見しながらそう言って、デスクに放った。


「……はい。共有のフォルダに入れてあります」


「あっそ。じゃあ、次これ」


「……これは?」


小野さんはデスクの引き出しから資料を取り出して渡してきた。

嫌な予感がする。


「お前の新しい担当先の資料。もともと俺の担当だったけど、お前に引き継ぐから」


「……えっと、会議でそんな話、ありましたっけ?」


「いや、出てない。いま初めて言ったからな」


「…………」


「正直見込みの薄いお客だけど、モノになれば安定して売上が立つし、お前にやるよ。ノルマ増やされたんだし、ネタは少しでも増えた方がいいだろ?」


「い、いや、でも……」


「部長と課長には俺から伝えておくから」


被せるように言われて僕は押し黙る。

きっと部長も課長も反対しない。むしろ、その方がいいよね、と言うだろう。

いつもそうだ。いつもこうやって負担ばかりが大きくなっていく。


「じゃ、俺帰るわ。お先」


「あ、はい……お疲れ様です」


足早に去っていく小野さんを見送り、僕は再び席に着いた。

頼まれた見積り作成で遅れたぶんを取り返さないといけない。もう少しやってから帰ろうと、僕はなけなしの気合を入れた。


夜の八時を回ったところで軽く伸びをした。同じ姿勢で凝り固まった身体がときどき骨を鳴らしながらほぐれる。

もともと進める予定だったところには届いていないものの、だいぶ取り返すことができた。いま手をつけているぶんを仕上げたら帰ろう。そう思ったところで、会社のスマホが鳴った。電話だ。画面を見ると、小野さんからだった。


「もしもし?」


「あ、西田? ちょっと伝えておくことがあるんだけど、いまいい?」


またしても嫌な予感がして、胸がざわつく。

聞きたくないけど、嫌とは言えない。


「……はい、なんでしょう?」


「急なんだけど、お前にやるって言ったお客への引継ぎの挨拶、明後日になったからよろしくな」


「え? 明後日ですか? それはさすがに急すぎますよ。僕すでに別のお客さんのところに行く予定があるんですけど……」


「ちょうどさっき電話かかってきて、予定聞いたら俺もお客も直近で空いているのが明後日しかないんだよ。お前の方が持ってる案件少なくて融通利くんだから調整してくれ」


「そ、そんな……」


「それと、いくつか見積りの依頼も来てるからそれも明後日までにまとめといて」


「は? 見積り? ちょ、ちょっと待ってください」


「じゃ、頼むな」


「ちょ、小野さん――」


ブツッという無機質な音ともに通話が途切れた。

一気に身体の力が抜けて、椅子にもたれかかる。天井を見上げると、今日一番に深いため息が漏れた。


「なんなんだよ……」


思わず舌打ち交じりにひとりごちた。

また、あの疑問が頭をもたげる。

消化しきれない感情やタスクが頭に積もって重くなり、動けない。


天井の照明が眩しくなって目を閉じた。それでも光を完全には遮れず、瞼の裏は白みがかっている。そこにはいまだ、昨日見た夢の光景が色濃く残っていた。

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