第24話

神殿Ⅷ.

 

 暗闇の底で、うずくまっている。うちひしがれている。

 あのとき事態は風雲急を告げており、わたしはあわただしく手立てを打たねばならなかった。そしてこのとき下した幾つもの決断が、さらに別の事態を否応なしに引き寄せていくことになる。わたしたちの選択によって織り上げられた世界の紋様は、わたしたち自身にはわからない。それを見ることができるのはただ、世界の外側に立つ者のみである。たとえば神々であるとかーー。

 さて、後のわたしの運命を決定的に変えてしまった出来事は全て、人の形をしてわたしの許に訪れたと言えるかもしれない。それらは、それぞれ異なった相貌、別々の名前をたずさえていた。

 喪失と、裏切りと、悔恨である。

 

 喪失とは、ゼフィールのことである。

 見目の相違にもかかわらず、わたしとゼフィールは半身の片割れ同士であった。姉としてはいうまでもなく、大巫女としても、わたしが妹と離ればなれになったことは、これまでの人生で一度もなかった。妹を失ったことによる、我が身を引き裂かれるような〈痛み〉は、余人には計り知れまい。

 だがわたしは、茫然自失してばかりは、いられなかった。ゼフィールは〈ルナルの丘〉の〈表の顔〉であり、大神殿の〈権威〉と〈権能〉の象徴でもあった。それはつまりゼフィールの喪失が、肉親としての心痛にとどまらない、より切迫した問題をはらんでいることの謂いでもあった。

 力で人びとを支配することは出来るが、力だけで人びとの敬意を勝ち取ることは難しい。妹の人間離れした美しさと気高さ、英明なる眼差し、そしてなによりその優しさが、人びとをして大巫女を敬わせ、〈ルナルの丘〉に従わせてきた。

 ヤン河流域一帯が存亡のときにあって、人びとをまとめられるのは、大局も見えずに未だいがみ合っている諸国の王たちでなく、ゼフィールだけだと、わたしは確信していた。

 わたしはサルマにあとを託すと、隠し通路を通って〈大巫女の館〉に急いだ。ゼフィールの寝室を覗いたが、むろん寝台はもぬけの殻である。妹がわたしの許から消え去ってしまったのを実感し、あらためて、足下から崩れ落ちていくような虚脱感に見舞われた。今すぐゼフィールの寝台に倒れ込んで、妹の匂いを確かめたかった。

 ーーまだ駄目だ。

 わたしは歯をくいしばって、己れのやるべきことに集中しようとした。

 館の端の納戸に向かった。納戸には、さまざまな物品が押し込んであった。鍋釜などの生活用具や、石臼や農機具、機織り機、古い化粧戸棚などのガラクタ類である。大巫女の館だからといって、魔法の道具や金銀財宝があるわけではない。以前、それを身をもって目の当たりにした盗賊の魂は、今も地下迷宮を彷徨っていることだろう。

 それらの中に、麻布を被せられた背の高い品物があった。わたしは麻布を掴んで引っ張り、剥ぎ取った。上に積もっていた埃が盛大に舞って、薄暗い納戸に渦を作った。

 それは大理石と象牙で造られた、等身大のゼフィールの彫像であった。いき急ききって館にやって来たのは、これを見つけるためだった。

 数年前、熱烈にゼフィールを崇拝していたさる王族が、金に糸目をつけずに遠国の芸術家に彫らせた逸品である。むろん本来の妹の美しさには遠く及ばないが、卓越した技倆によって、髪の毛一本一本や指先、薄衣の襞まで精緻に刻まれたその彫像は、息を呑む芸術品と呼べるものだった。

 もっとも捧げられたゼフィール本人は、迷惑気に顔をしかめると、納戸のいちばん目立たない場所に放り込んでしまった。妹にとっては、王族や芸術家の称賛など、何ほどのものでもなかった。

 わたしは彫像を、ガラクタの山から前に引き出した。思いのほか重量があり、ひと苦労である。周りを片付けて場所に作ると、準備に取りかかった。

 五彩の絲で、まじない紐を手早く、しかし複雑に編んだ。それを彫像の手足に巻きつけたり、引っかけたりした。小さな水盤を用意し、井戸の水を張った。そこに香油を落として、乾燥させた花弁と動物の骨を浮かべた。

 最後に、銀の尖筆で床や部屋の壁に、九芒星と〈呪紋〉を描いてまわる。覚悟を決め、目を閉じて〈名づけえぬ神〉に呼びかけた。

 何度も話しかけるうち、暗黒の外宇宙から、恐ろしい神威力がふりそそいできたのが感じられた。暗黒の力はすぐに、現実世界に影響をおよぼした。まるで厳冬の古代山脈のような身を切る冷気が、納戸の中に充満したのだ。はだえが粟立った。

 梔子くちなしのようなを嗅いだ。何者かの忌まわしい哄笑を耳にしたようだった。

 それに呼応して、わたしの口から年ふりた韻律がほとばしった。およそ人間の耳が聞き取ることのできない、そして発音することのできないはずの〈ことば〉だ。

 ごうと、瞬間的につむじかぜめいた圧を身体に受けた。

 ぴたり、とすべてが静止した。音も風も香りも。

 わたしはーー。

 ゆっくりと目を開いた。

 水盤の水面みなもに、幾重にも波紋が生まれていた。

 眼前に、言語を絶する光景があった。

 彫像が、見るも厭わしいモノに覆われていた。水銀のようなものが、ゼフィールの似姿の、右胸にぶちまけられている。だがよく見るとその水銀は、わずかに波立っているようだ。いやーーそれは水銀などではなかった。おびただしい数の微細な蟲がーー少なくとも蟲に似た何かがーー蝟集いしゅうして蠢いているのだ。ゾッとする光景にわたしは、妹をよごされたような心持ちで、ひどく不快になった。

 その不快感は、さらに高まることとなった。身の毛もよだつとは、このことだ。まるで、ひとつの不定形の原生動物に見えるそれは、ふるふると蠕動し、ゆっくりと彫像を這っていった。一端は右胸から頭部めがけて這い上り、もう一端は腰を経由して足下まで下っていく。何というおぞましさ。蟲は一個の群体であった。まるで、とろみのある生ある泥濘のごとき銀蟲群は、彫像の地膚をうっすらと透かしながら全体に広がりーーいや、静かにくらっていった。

 変化は、蟲どもが呑み込んだ箇所から、すでに始まっていた。

 大理石の肌が、血色を帯びる。やがて桃色に耀きだした。

 超絶技巧によって彫琢された薄衣の襞が、本物の絹のように豪奢に揺れる。

 艶やかな黒髪の下で、妹の魅惑的な双眸が生き生きと動いた。その眸がわたしとあって、ゼフィールの似姿が、にっこりと微笑んだ。

 その笑顔は充分に魅力的なものだったが、やはりそこに妹の才気煥発とした知性は見受けられない。とはいえ、遠目にはそれは、まごうことなき大巫女に見えるだろう。ーー当面は。

 〈名づけえぬ神〉の神威力が、この虚ろな形代かたしろに、精気を吹き込んだ。わたしの目論みは、この彫像をゼフィールの影武者に仕立てて、急場しのぎに使うことだった。

 影武者によって、どれだけ多くの人びとを、あるいはどれだけの長さの時を誤魔化せるかは未知数だ。だがゼフィールの不在が、ヤン河流域の不安定化をもたらすのは必定であり、背に腹はかえられぬのだった。

  

 裏切りとは、モロクのことである。

 影武者の木偶でくの手を引いて、〈大巫女の館〉からとって返す道すがら、わたしは考えをまとめていた。歩き馴れた道を自動的にたどりながら、思考はぐるぐると回っていた。

 状況から見て、モロクがマナン将軍を殺したことは疑い得なかった。何ゆえ、という問いに明瞭な答えは見出だせないが、おおよその見当をつけることは可能だ。

 今のこの時期、国からマナンが居なくなることは何を意味するのか。単純に考えればそれは、いくさの司令官を失うことに他ならない。

 わたしは軍事には明るくないが、指揮官の統率力が、軍隊の実力に与える影響は予想がついた。マナン将軍は、圧倒的な存在感で国軍を掌握していた。それが無くなったいま、ギゼイ国軍の軍事力はかなり殺がれることだろう。そのことで利益を得る対象は一つしか考えられない。ヤン河流域を狙う、帝国アグラーヤである。

 モロクは、アグラーヤの放った刺客だったのだ。

 おそらくは、かなりの手間と長い時間をかけて、この地域に潜入していたのだろう。そうした活動を行う刺客がいると聞いてはいたが、アグラーヤが、そうまでして領土的野心をつのらせているとは、予測していなかった。

 しかし、なぜわたしやゼフィールは、モロクの二心を見破ることができなかったのだろう。単に恋は盲目、といって済ませられることではない。第一、わたしたちが揃って彼の者を愛するなどと、予想できたはずはない。

 考え得る可能性はーーと、わたしは独りごちる。

 モロク自身もまた、己れの心底しんていに気づいていなかったかもしれない。

 顔をあわせたとき、密命そのものが、モロクの心や記憶になかったのではないか。あらかじめ記憶を封じ込め、一定の条件下で甦るように仕向ける術があると聞いたことがある。神殿に近づいた初対面の時点で、モロクに二心がないとわかれば、それ以降に詮索されるおそれは、グッと減るだろう。

 だがーー。

 実のところ、もっともわたしの心を苦しめていたのは、モロクが敵方の刺客であったという事実ではなかった。斯様な推測にもかかわらずわたしはーーモロクに対する恋心を消しさるができなかった。そのことが、もっともわたしを責め苛んでいた。

 あの微笑み。

 あの眼差し。

 あの歌声。

 裏切り者を憎み切れないわたしは、大巫女失格に違いなかった。いや、わたしこそが裏切り者といえた。だが、恋に落ちるとはそういうことではないのだろうか。

 とまれ、そのこととモロクを見逃すことは、もちろん別の話だった。何より、ゼフィールを取り戻さねばならない。人びとのため、というよりも、わたし自身のために。

 皮肉なことだが、迫り来る敵襲を察知するための実験を、すぐさま実地に移行することになるだろう。〈徴〉付きの猛禽と砂漠狼を、モロクの追跡に利用するのだ。しかしそのためにわたしは、集中する必要がある。

 魂のない木偶は、その時間稼ぎに是非とも必要なのだった。

 

 悔恨とは、サルマのことである。

 神殿にたどり着いたわたしは、謁見の間に入る前から、不審に気づいた。

 隠し通路に横たえたはずの、将軍の死体が見当たらない。

「サルマ?」

 警備隊長には、わたしの考えた筋書きで、近習らに告げるように申し渡してあった。だが、実際に彼女が行ったのは、まったく別のことだと、直後に知った。血相を変えて、古参の神殿娼婦が、謁見の間に飛び込んできたのだ。

「嗚呼、何処いずこへおわしたのでございます、ゾラ様! 大変な事態が出来しゅったいいたしました! ゼフィール様は?」

 隠し通路に置き去りにした木偶を、ちらりと見やったが、断念する。まだ分からぬが、異様な事態が起きているらしい。影武者では対応できないかもしれぬ。

「ゼフィールは〈大巫女の館〉じゃ。いかがした?」

 平静を装い応えると、神殿娼婦は答える間もあらば、わたしの手を引いて、外へ向かう通路に導いた。

 神殿内はどこもかしこも、騒然となっていた。道すがら、青ざめた顔の神聖娼婦が逃げ惑い、参詣者が呆然と立ち尽くしているのに出会した。そこここで叫喚が飛び交い、それに悲鳴が混じった。

「この慮外者りょがいものめ!」

 神殿の前面にある、石造りのきざはしにたどり着いたとき、怒号が聞こえてきた。

 泡をくって叫んでいたのは、将軍の近習たちだった。皆一様に白刃を抜き払っている。切っ先が向けられているのは、血走った双眸を見開いたサルマであった。

「サルマ!」

 わたしの声に、警備隊長が冷笑で返した。片手で握った抜き身の刃が、ギラリと太陽を跳ね返した。刃は血塗れで、ぬらぬらと耀いている。

「お出ましか、淫売め!」

 彼女は唇の端から涎を伝わらせ、唸り声を上げた。サルマは、大剣とは反対の手にした物体を高々と掲げて見せた。

 それは、切断されたマナン将軍の御首級みしるしだった。

「ザシュトゥール神よ、ご照覧あれ! これでヤン河もお仕舞いだ!」

 サルマは叫ぶと、マナンの生首を近習たちに投げつけた。ザシュトゥール神とは、アグラーヤ帝国が信奉する異教の神である。

 わっ、と近習が怯んだ。その隙にサルマは、大剣をめったやたらに振り回して、暴れだした。不意をつかれた近習の一人が、血刃の餌食になった。

 サルマは大暴れしながら、わたしに殺到してきた。

「そこを動くな、淫売!」

 サルマが咆哮したとき、わたしは彼女の狙いが瞬時にして読み取れた。わたしは身を堅くして、微動だにしないようにした。

 振りかぶった大剣が、わたしをかすめた。あとで分かったことだが、サルマの剣はわたしの着ていた衣一枚と、わたしの皮膚の表面だけを切り裂いていた。神聖娼婦も近習たちもそれを、非常な幸運と呼んだが、わたしだけは知っていた。サルマの腕前は手練れのものだった。

 間近に迫ったサルマの眸と、わたしの眸が交差した。サルマの眸が、ほんの少し和らいだ。わたしは目顔でうなずき返した。彼女の意志をしっかりと守ることを。

 サルマが、口から血塊を吐き出した。

 態勢を立て直した近習たちが、よってたかって、サルマに剣を突き立てていた。がくり、とサルマの身体が前に傾いだ。その場で崩折れ、倒れ伏した。

 近習たちが執拗にサルマを害する光景から、わたしは目を背けた。

 わたしには彼女の企みがわかっていた。サルマはアグラーヤ帝国の刺客を装い、マナン殺害の罪を被ろうとしているのだ。それが彼女の、責任の取り方だった。

 わたしは妹だけでなく、友をも失ってしまったのだった。

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