第24話
神殿Ⅷ.
暗闇の底で、うずくまっている。うちひしがれている。
あのとき事態は風雲急を告げており、わたしはあわただしく手立てを打たねばならなかった。そしてこのとき下した幾つもの決断が、さらに別の事態を否応なしに引き寄せていくことになる。わたしたちの選択によって織り上げられた世界の紋様は、わたしたち自身にはわからない。それを見ることができるのはただ、世界の外側に立つ者のみである。たとえば神々であるとかーー。
さて、後のわたしの運命を決定的に変えてしまった出来事は全て、人の形をしてわたしの許に訪れたと言えるかもしれない。それらは、それぞれ異なった相貌、別々の名前をたずさえていた。
喪失と、裏切りと、悔恨である。
*
喪失とは、ゼフィールのことである。
見目の相違にもかかわらず、わたしとゼフィールは半身の片割れ同士であった。姉としてはいうまでもなく、大巫女としても、わたしが妹と離ればなれになったことは、これまでの人生で一度もなかった。妹を失ったことによる、我が身を引き裂かれるような〈痛み〉は、余人には計り知れまい。
だがわたしは、茫然自失してばかりは、いられなかった。ゼフィールは〈ルナルの丘〉の〈表の顔〉であり、大神殿の〈権威〉と〈権能〉の象徴でもあった。それはつまりゼフィールの喪失が、肉親としての心痛にとどまらない、より切迫した問題をはらんでいることの謂いでもあった。
力で人びとを支配することは出来るが、力だけで人びとの敬意を勝ち取ることは難しい。妹の人間離れした美しさと気高さ、英明なる眼差し、そしてなによりその優しさが、人びとをして大巫女を敬わせ、〈ルナルの丘〉に従わせてきた。
ヤン河流域一帯が存亡の
わたしはサルマにあとを託すと、隠し通路を通って〈大巫女の館〉に急いだ。ゼフィールの寝室を覗いたが、むろん寝台はもぬけの殻である。妹がわたしの許から消え去ってしまったのを実感し、あらためて、足下から崩れ落ちていくような虚脱感に見舞われた。今すぐゼフィールの寝台に倒れ込んで、妹の匂いを確かめたかった。
ーーまだ駄目だ。
わたしは歯をくいしばって、己れのやるべきことに集中しようとした。
館の端の納戸に向かった。納戸には、さまざまな物品が押し込んであった。鍋釜などの生活用具や、石臼や農機具、機織り機、古い化粧戸棚などのガラクタ類である。大巫女の館だからといって、魔法の道具や金銀財宝があるわけではない。以前、それを身をもって目の当たりにした盗賊の魂は、今も地下迷宮を彷徨っていることだろう。
それらの中に、麻布を被せられた背の高い品物があった。わたしは麻布を掴んで引っ張り、剥ぎ取った。上に積もっていた埃が盛大に舞って、薄暗い納戸に渦を作った。
それは大理石と象牙で造られた、等身大のゼフィールの彫像であった。いき急ききって館にやって来たのは、これを見つけるためだった。
数年前、熱烈にゼフィールを崇拝していたさる王族が、金に糸目をつけずに遠国の芸術家に彫らせた逸品である。むろん本来の妹の美しさには遠く及ばないが、卓越した技倆によって、髪の毛一本一本や指先、薄衣の襞まで精緻に刻まれたその彫像は、息を呑む芸術品と呼べるものだった。
もっとも捧げられたゼフィール本人は、迷惑気に顔をしかめると、納戸のいちばん目立たない場所に放り込んでしまった。妹にとっては、王族や芸術家の称賛など、何ほどのものでもなかった。
わたしは彫像を、ガラクタの山から前に引き出した。思いのほか重量があり、ひと苦労である。周りを片付けて場所に作ると、準備に取りかかった。
五彩の絲で、
最後に、銀の尖筆で床や部屋の壁に、九芒星と〈呪紋〉を描いてまわる。覚悟を決め、目を閉じて〈名づけえぬ神〉に呼びかけた。
何度も話しかけるうち、暗黒の外宇宙から、恐ろしい神威力がふりそそいできたのが感じられた。暗黒の力はすぐに、現実世界に影響をおよぼした。まるで厳冬の古代山脈のような身を切る冷気が、納戸の中に充満したのだ。
それに呼応して、わたしの口から年ふりた韻律がほとばしった。およそ人間の耳が聞き取ることのできない、そして発音することのできないはずの〈
ぴたり、とすべてが静止した。音も風も香りも。
わたしはーー。
ゆっくりと目を開いた。
水盤の
眼前に、言語を絶する光景があった。
彫像が、見るも厭わしいモノに覆われていた。水銀のようなものが、ゼフィールの似姿の、右胸にぶちまけられている。だがよく見るとその水銀は、わずかに波立っているようだ。いやーーそれは水銀などではなかった。おびただしい数の微細な蟲がーー少なくとも蟲に似た何かがーー
その不快感は、さらに高まることとなった。身の毛もよだつとは、このことだ。まるで、ひとつの不定形の原生動物に見えるそれは、ふるふると蠕動し、ゆっくりと彫像を這っていった。一端は右胸から頭部めがけて這い上り、もう一端は腰を経由して足下まで下っていく。何というおぞましさ。蟲は一個の群体であった。まるで、とろみのある生ある泥濘のごとき銀蟲群は、彫像の地膚をうっすらと透かしながら全体に広がりーーいや、静かに
変化は、蟲どもが呑み込んだ箇所から、すでに始まっていた。
大理石の肌が、血色を帯びる。やがて桃色に耀きだした。
超絶技巧によって彫琢された薄衣の襞が、本物の絹のように豪奢に揺れる。
艶やかな黒髪の下で、妹の魅惑的な双眸が生き生きと動いた。その眸がわたしとあって、ゼフィールの似姿が、にっこりと微笑んだ。
その笑顔は充分に魅力的なものだったが、やはりそこに妹の才気煥発とした知性は見受けられない。とはいえ、遠目にはそれは、まごうことなき大巫女に見えるだろう。ーー当面は。
〈名づけえぬ神〉の神威力が、この虚ろな
影武者によって、どれだけ多くの人びとを、あるいはどれだけの長さの時を誤魔化せるかは未知数だ。だがゼフィールの不在が、ヤン河流域の不安定化をもたらすのは必定であり、背に腹はかえられぬのだった。
*
裏切りとは、モロクのことである。
影武者の
状況から見て、モロクがマナン将軍を殺したことは疑い得なかった。何ゆえ、という問いに明瞭な答えは見出だせないが、おおよその見当をつけることは可能だ。
今のこの時期、国からマナンが居なくなることは何を意味するのか。単純に考えればそれは、
わたしは軍事には明るくないが、指揮官の統率力が、軍隊の実力に与える影響は予想がついた。マナン将軍は、圧倒的な存在感で国軍を掌握していた。それが無くなったいま、ギゼイ国軍の軍事力はかなり殺がれることだろう。そのことで利益を得る対象は一つしか考えられない。ヤン河流域を狙う、帝国アグラーヤである。
モロクは、アグラーヤの放った刺客だったのだ。
おそらくは、かなりの手間と長い時間をかけて、この地域に潜入していたのだろう。そうした活動を行う刺客がいると聞いてはいたが、アグラーヤが、そうまでして領土的野心をつのらせているとは、予測していなかった。
しかし、なぜわたしやゼフィールは、モロクの二心を見破ることができなかったのだろう。単に恋は盲目、といって済ませられることではない。第一、わたしたちが揃って彼の者を愛するなどと、予想できたはずはない。
考え得る可能性はーーと、わたしは独りごちる。
モロク自身もまた、己れの
顔をあわせたとき、密命そのものが、モロクの心や記憶になかったのではないか。あらかじめ記憶を封じ込め、一定の条件下で甦るように仕向ける術があると聞いたことがある。神殿に近づいた初対面の時点で、モロクに二心がないとわかれば、それ以降に詮索されるおそれは、グッと減るだろう。
だがーー。
実のところ、もっともわたしの心を苦しめていたのは、モロクが敵方の刺客であったという事実ではなかった。斯様な推測にもかかわらずわたしはーーモロクに対する恋心を消しさるができなかった。そのことが、もっともわたしを責め苛んでいた。
あの微笑み。
あの眼差し。
あの歌声。
裏切り者を憎み切れないわたしは、大巫女失格に違いなかった。いや、わたしこそが裏切り者といえた。だが、恋に落ちるとはそういうことではないのだろうか。
とまれ、そのこととモロクを見逃すことは、もちろん別の話だった。何より、ゼフィールを取り戻さねばならない。人びとのため、というよりも、わたし自身のために。
皮肉なことだが、迫り来る敵襲を察知するための実験を、すぐさま実地に移行することになるだろう。〈徴〉付きの猛禽と砂漠狼を、モロクの追跡に利用するのだ。しかしそのためにわたしは、集中する必要がある。
魂のない木偶は、その時間稼ぎに是非とも必要なのだった。
*
悔恨とは、サルマのことである。
神殿にたどり着いたわたしは、謁見の間に入る前から、不審に気づいた。
隠し通路に横たえたはずの、将軍の死体が見当たらない。
「サルマ?」
警備隊長には、わたしの考えた筋書きで、近習らに告げるように申し渡してあった。だが、実際に彼女が行ったのは、まったく別のことだと、直後に知った。血相を変えて、古参の神殿娼婦が、謁見の間に飛び込んできたのだ。
「嗚呼、
隠し通路に置き去りにした木偶を、ちらりと見やったが、断念する。まだ分からぬが、異様な事態が起きているらしい。影武者では対応できないかもしれぬ。
「ゼフィールは〈大巫女の館〉じゃ。いかがした?」
平静を装い応えると、神殿娼婦は答える間もあらば、わたしの手を引いて、外へ向かう通路に導いた。
神殿内はどこもかしこも、騒然となっていた。道すがら、青ざめた顔の神聖娼婦が逃げ惑い、参詣者が呆然と立ち尽くしているのに出会した。そこここで叫喚が飛び交い、それに悲鳴が混じった。
「この
神殿の前面にある、石造りの
泡をくって叫んでいたのは、将軍の近習たちだった。皆一様に白刃を抜き払っている。切っ先が向けられているのは、血走った双眸を見開いたサルマであった。
「サルマ!」
わたしの声に、警備隊長が冷笑で返した。片手で握った抜き身の刃が、ギラリと太陽を跳ね返した。刃は血塗れで、ぬらぬらと耀いている。
「お出ましか、淫売め!」
彼女は唇の端から涎を伝わらせ、唸り声を上げた。サルマは、大剣とは反対の手にした物体を高々と掲げて見せた。
それは、切断されたマナン将軍の
「ザシュトゥール神よ、ご照覧あれ! これでヤン河もお仕舞いだ!」
サルマは叫ぶと、マナンの生首を近習たちに投げつけた。ザシュトゥール神とは、アグラーヤ帝国が信奉する異教の神である。
わっ、と近習が怯んだ。その隙にサルマは、大剣をめったやたらに振り回して、暴れだした。不意をつかれた近習の一人が、血刃の餌食になった。
サルマは大暴れしながら、わたしに殺到してきた。
「そこを動くな、淫売!」
サルマが咆哮したとき、わたしは彼女の狙いが瞬時にして読み取れた。わたしは身を堅くして、微動だにしないようにした。
振りかぶった大剣が、わたしをかすめた。あとで分かったことだが、サルマの剣はわたしの着ていた衣一枚と、わたしの皮膚の表面だけを切り裂いていた。神聖娼婦も近習たちもそれを、非常な幸運と呼んだが、わたしだけは知っていた。サルマの腕前は手練れのものだった。
間近に迫ったサルマの眸と、わたしの眸が交差した。サルマの眸が、ほんの少し和らいだ。わたしは目顔でうなずき返した。彼女の意志をしっかりと守ることを。
サルマが、口から血塊を吐き出した。
態勢を立て直した近習たちが、よってたかって、サルマに剣を突き立てていた。がくり、とサルマの身体が前に傾いだ。その場で崩折れ、倒れ伏した。
近習たちが執拗にサルマを害する光景から、わたしは目を背けた。
わたしには彼女の企みがわかっていた。サルマはアグラーヤ帝国の刺客を装い、マナン殺害の罪を被ろうとしているのだ。それが彼女の、責任の取り方だった。
わたしは妹だけでなく、友をも失ってしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます