第42話
図書館16、
「その女はスウさんじゃない! 離れるんだ!」
コシロの声が室内に響いた瞬間、彼女が動いた。バネが弾けたような唐突な勢いで、ぼくめがけて殺到してきた。
思わず抱き留めようとしたぼくの両腕が、間の抜けた形にひらかれたとしても、仕方ないと思ってほしい。
しかしぼくに到達する前に、彼女はもんどりうって転倒することになった。
いつの間にか、ぼくの脇にまで前進してきた警官ーー赤ペンだーーがテーザー銃を彼女に撃ち込んでいたのだ。黒ペンおよびザロフ警部もいっせいに、彼女に飛びかかった。二人がかりで、彼女を押さえつける。男たちをどかそうと彼女はもがくが、もちろんかなわない。乾いた音がした。彼女の指からもぎ取られた大ぶりなカッターナイフが、床に転がった音だ。鏡面に写ったそれは、禍々しい機能美の結晶だった。
「確保!」
黒ペンが大声で宣言した。後ろ手にされた彼女の両手に、黒い手錠がはまっている。
ぼくは耐えきれなくなって、彼女に駆け寄ろうとする。
「動くな!」
ザロフ警部はぼくを牽制すると、うつ伏せになっている彼女の帽子をつかんで、一気にはぎ取った。相貌があらわになった。
「スウ……じゃない……」
帽子の下から現れたのは、あにはからんや、若い白人女性の顔だった。ただし髪色を、ほとんど黒に近い濃いブルネットに染めている。彼女の顔には見覚えがあった。この女性はーー。
「〈
「そのとおり!」
のっしのっしと追いついてきたコシロが、元気よく返事をした。
「〈
「でも、確かにいまスウの声で……」
ああ、それか、とコシロはこともなげに絵解きする。
「おそらく、サンプリングしたスウさんの声を使って、クローン音声を合成したんだろうね。それを超指向性スピーカーで流したんだ」
「超指向性スピーカー?」
「指向角度が狭い……つまり、スピーカーが音を届ける範囲が狭く、サーチライトみたく狙った場所に、ピンポイントで音を届けることのできる機器があるのだよ。その外側には、ほとんど音を届かせないでね」
遅まきながらも、ぼんやりと理解が追いついてきた。
このビルの各所や
「それに、キミ、体調に異常はないかね? 心拍数が上昇してたり、吐き気があったり……」
思い当たるふしがあった。ぼくの顔色で察して、コシロがうなずいた。
「やはりね。幻覚作用がある薬物を摂取させられたんだろう」
「そんなものどこで……」
「思い出してごらん。何かいつもと違うものを口にしなかったかね?」
「とくに何もーーああっ!」
あのジュースだ。商店街で配っていた、清涼飲料の試飲用のカップが奇妙な味わいだったことに、ぼくは卒然と思い至った。
「でもいったい、なんで……」
ぼくは混乱する。たしかにくだんの白人女性は、異様な、不可解な存在ではあった。とはいえ、スウの蒸発事案に関連づけて考えたことは、これまでなかった。
そのとき、押さえつけられていた女が、急に息を吹き返した。凄まじい力で、警官のいましめを脱け出そうと暴れる。警部と黒ペンに赤ペンまで加わって、必死に押さえつける。が、それでもやっとというありさまだ。朱に染まった女の顔が、ぼくめがけて、つき出される。美しかった目はつり上がり裂けよとばかりに見開かれ、口の端には興奮のあまり沫が浮いている。
「おまえの女が! おまえの女が、おとうさまを殺したんだ! おまえたちさえいなければ!」
彼女の絶叫は、ほとんど呪詛のように耳に突き刺さった。その剣幕になびいて、ぼくは後ずさった。
「お……とうさま……?」
そう、とコシロが、よろめいたぼくを後ろで支えながら言った。
「こちらのご婦人の本名を、まだ伝えていなかったね。彼女の名前は、トヱ・セコウという」
「セコウ……ってまさか?!」
「ああ、彼女はジュウハチロウ・セコウ氏の義理の娘だ」
*
後れ馳せながらドタドタと人が現れて、部屋はたちまちいっぱいになった。大勢が入ると、この鏡の部屋は存外に狭いのだとわかる。制服姿の面子が混じっていたことで、彼らが市警の警官だと知れた。
警官たちは、彼女を立ち上がらせると、黙々と連れ出していった。私服警官とおぼしき中年の男が、ザロフ警部と無言で会釈を交わした。最後まで彼女は、ぼくを殺してやる、と喚きちらしていた。その怨嗟が遠ざかる。
コシロが、つけ加える。
「彼女は、セコウ氏の動画を観ることができる立場にいた。あのセコウ氏の告白を見ると、彼の死の原因は、スウさんにあるように思えなくもない。で、スウさんの恋人のキミに、逆恨みしたというわけだ」
怒号が完全に消えた。とたんに部屋はしん、となったようだった。ぼくとコシロと〈図書館警察〉が、そこに残された。
ふと、とんでもないことに気づいた。ここは渦巻町だ。つまり、図書館の外だ。
ぼくの目つきに気づいてコシロは、ちょっと嫌そうに顔をしかめてみせた。
「そんなに驚きなさんな。ボクだってその気になれば、図書館から出ることができる」
横で警部が、ニヤニヤと笑っている。
「ひょっとして、母上からボクが引きこもり状態とでも聞いたんじゃないかな。まあ、母上の懸念は間違いじゃないけど、あってもいない。確かにぼくは十数年以上、図書館の外に出ていなかった。でも、出られなかったわけじゃない。自分の意思でとどまってもいたんだ」
「それはいったいーー?」
「まあ、それはまた別の話、別の機会に語られるべきだろうね。ザロフ警部に、彼女のことを警告しておくと言ったろう? それで〈図書館警察〉を訪問したついでに、ボクが独自で調べた内容を、報告したのさ」
そういえばコシロは、彼女の正体について仮説があるとも述べていた。
「図書館の中の調べものだけで、あの女性の正体にたどり着けたんですか?」
だとすれば、本当に名探偵だ。
「いいや、ちゃんと〈実地〉の調査もしたよ。自分で動いたわけじゃないがね。関西地方にいる探偵会社に依頼したのさ」
「は?」
探偵が探偵に依頼するというのは、それほど珍しくはないらしい。相互に協力関係にある業者は、ままあるという。
「今どきの若い世代は、ボクの時代と違って迂闊にSNSに顔をさらしたりしない。だからむしろ、アナログで古典的な手法が有効な場合もある」
「古典的手法……」
「聴き込みや張り込み、尾行、その他もろもろの探偵術さ」
コシロがニヤリと笑う。
「母上のツテで紹介してもらったんだがーー優秀な探偵だったようだね。今日一日たらずで、いろいろと調べあげてくれたんだ。で、こうしたものが届いた」
コシロが差し出したのは、画像をプリントアウトしたハードコピーだった。制服姿の女生徒が写ったスナップショットで、互いに顔をよせ合った女の子たちの笑顔で埋めつくされている。
そのなかに、明らかにさっき目の前にいた女性の、数年前の姿がまぎれていた。
〈
トヱ嬢は、カツラコ夫人がロシア人の前夫とのあいだにもうけた娘で、父親の遺伝子を濃く受け継ぎ、成長するにつれビスク・ドールめいた容姿になっていった。セコウ氏は、この義理の娘を実の子のように可愛がった。
「セコウ氏とトヱ嬢は、傍から見てもとても仲のよい親子だった。だが二人の絆は、たんに家族として慈しみ合うだけではなかった。セコウ氏とトヱ嬢は、共通の嗜好をもっていたのだよ」
「共通の嗜好?」
「カツラコ夫人とセコウ氏の実娘ナミヱ嬢は、彼らに嗜虐性があることをほのめかす証言をしている。だが二人の心性はどうやら、嗜虐癖にとどまらなかったようだ。それを、専門的にどう表現するのかはわからない。が、海の向こうのさる探偵は、端的にこう言っていたよーー
幼いながらも確固たる快楽殺人傾向を持つ
なぜそこからさらに、黄姉妹に〈加入〉したのかというと、その方が図書館内において、セコウ氏の犯行をサポートしやすいからだ。
「それって、まさかーー」
そうだ、とコシロがうなずいた。
「今回のスウさん蒸発事案には、トヱ嬢が関与していたと思う。彼女が着ていた服装は、スウさんの物なのだろう?」
ぼくはうなずく。
「クローン音声のサンプリングもだが、彼女が実際にスウさんと接触していたからこそ、可能なトリックだと思う。そもそも女性に近づくには、セコウ氏よりも若い同性の彼女の方が容易いからね。彼女は、セコウ氏の共犯者として暗躍していたのだよ」
コシロは、自分の推測の道筋を説明し始めた。
彼は母君とぼくの話を聞いて、末妹を名乗る女性が何者で、どうやって〈
「虚偽記憶?」
「ヒトの記憶というのは、案外とあてにならないのさ。実際には体験していない嘘の記憶が生まれたり、体験した記憶が別の内容に置き換わったりすることがある」
場合によっては、〈幼いころに誘拐された〉というありもしない記憶や、〈前世の出来事〉や、〈宇宙人に出会って拐われたときのこと〉など、荒唐無稽なものを信じこむことがある。そして、あまりに極端なものは、誰かが意図的に介入した可能性が考えられる。
「そんなことが、本当にできるのか?」
ザロフ警部が、半信半疑で訊ねた。ぼくもまったく同じ気持ちだ。
「もちろん、思い通りに記憶を操作するなんて、めったにできることではないだろう。少なくとも、ある種の薬剤を併用したと思う。強力な暗示による催眠現象、あるいは洗脳に近いテクニックを使ったのかもしれない。ま、あのセコウ氏の奇っ怪な動画を視たあとなら、どんな突飛な想像も許されそうだがね。たとえば、〈作者自身による
「は? なんだって? 作者?」
警部が、意味をつかみかねて、で首をひねる。
今のは忘れてくれていいよ、とコシロは構わず、話を続けた。
「いずれにせよボクは、こう考えた。もし仮にそんな〈記憶の操作〉が可能で、黄姉妹が虚偽記憶を植えつけられたのだとするなら、薬剤や洗脳技術などに加えて、〈記憶を操作されやすい要因〉があったのではないだろうか、とね……」
虚偽記憶が生まれる原因のひとつに、〈権威効果〉というのがある。幼い子どもは、親や上の兄姉や教師など年長者の言うことを絶対ととらえて、それに沿ったように言動してしまう。そうした言動を繰り返していくうちに、やがて年長者の言葉にしたがったとおりの記憶が植えつけられる。
「では、姉妹に影響を与えるほどの〈権威〉とは何か? ボクの頭に真っ先に浮かんだのは、セコウ氏だ。姉妹のかつての愛人で、かつ〈図書館〉のオーナー、つまりは
コシロは推論を進めた。あの末妹を姉妹に〈加入〉させたのがセコウ氏ならば、末妹に成りすましている女性は、セコウ氏の周囲で見つかるのではないか?
「それで、くだんの探偵に調査を依頼すると、すぐさまトヱ嬢が浮かんできたというわけさ。どうやらトヱ嬢は、関西エリアで独自に幾つか〈犯行〉を重ねていて、事件との関与が疑われはじめていたみたいだね」
だからこそ、身許を偽って、関東エリアーー渦巻町に潜伏しにきた。姉妹にまぎれたのは、官憲の目をのがれるためでもあったというわけだ。
「それにしても、どうやってこの場所がわかったんです?」
コシロと〈図書館警察〉がやって来なければ、ぼくは確実に、首をくくっていたか、さもなくば、カッターナイフの餌食になっていたろう。
初歩的なことだよ、とコシロが首をすくめる。
コシロから通報を受けた〈図書館警察〉の双子警官は、さっそく姉妹のもとを訪ねた。すると、問題の末妹はすでに、姿を消していた。その報告を警部とともに聞いていたコシロは、すぐに行政に問い合わせ、渦巻町でセコウ氏が所有している不動産を検索させた。
「自宅として使っている例の高級アパルトマンをはじめ、彼が持っているのはほとんどが
それで、ヘッダ・ミュヘレッツェこと、トヱ・セコウが潜伏しているか確かめにきたのだという。
「じゃあ、ぼくが助かったのはたまたま……?」
急に実感がこもり、足がガクガクしてきた。
コシロと警部が、この地所に急行してこなければ、そして、偶然にも本当にここがトヱ嬢の潜伏場所だったのでなければ、ぼくの命が助かることはなかったかもしれない。
「ふん。どうやらコシロは、君の危険を察知していたようだぞ」
ザロフ警部がフォローする。
本来の
「まあ、探偵の勘ってやつさ。キミの携帯端末に連絡を入れてみたのだが反応がなかった。それで、嫌な予感がしたのでね」
警部そろそろ、と赤ペンが声をかけた。ザロフ警部は市警で、経緯の説明や今後についてブリーフィングがあるという。
「今後?」
ぼくの疑問には誰も答えなかった。警部とコシロの視線が交錯した。〈図書館警察〉の面々が、先にたって、退出した。
さあ、ボクたちも帰ろう、と取ってつけたように明るく言うと、コシロはぼくの背中をどやしつけたのだった。
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