第32話

螺旋【さん

 

 割り当てられた天幕テントの幕扉を開けて、中に入った。

 長方形の天幕テントは、垂直の壁が途中から斜めになって、三角屋根になっている。中には仮設ベッドが四つ。つまり四人部屋だ。二つのベッドが埋まっていた。横になっている女たちはポーズ・ショウーーきわどい恰好でなまめかしい姿勢をとるーーの人形役マヌカンで、出番が晩からのために昼間は休んでいることが多い。昼夜逆転の生活サイクルになっているのだ。空いているのは、鞦韆ブランコ乗りの娘のベッドだった。

 巡業見世物一座カーニヴァルの面々には、街中の安宿に泊まる者も多いが、金のない者やものぐさたちは、敷地内に寝所をこしらえて、そこで寝泊りする。

 リナは自分のベッドの下から、古びたスーツケースを引っ張り出して、動きやすいつなぎの仕事着に着替える。ボタンをはずし、ブラウスを思い切りよく脱ぐ。小麦色に焼けた、滑らかな肌が露わになった。彼女の肢体は曲線的だった。肉感的なカーブとカーブの連なりのうちに、どこか力強さを秘めていた。もとよりリナの仕事は、廻転木馬メリーゴーランドの呼び込み兼操作係だ。人形役マヌカンのように、なまめかしい見目である必要はない。設営は道具係が済ませているし、操作は単純で特別に練習するようなこともない。だからこそ今日は、暇をもらって外出したのだけど……。

 着替えながらも思考は自然と、自分を訪ねてきたという男のことに移った。

 当局者である、という双子の見立ては信じてよいと思った。彼女たちは恐ろしく鼻が利く。問題はどこの手の者かということだ。

 いまこの街〈螺旋市〉では、幾つもの勢力がおのおの利を求めて暗躍している。政権に楯突く反体制組織。異国の間諜ども。政権側の動きも一つに統制されているわけではない。陸軍省所属の憲兵隊は、治安維持の名目で市民の動静を監視し、内務省直轄の特別高等警察部は、思想統制で反政府勢力を取り締まろうとしている。自治警察の犯罪捜査部も黙ってはいない。

 しかし、リナにとって最も厄介なのは保健省だった。それは現政権の異族隔離政策を主導しているのが、保健省だからだ。そして同内部部局の、人種分類局、異族管理局と連動して、隔離政策の核心を担っているのが衛生局だ。衛生局は独自の捜査権限と逮捕権を持つ強力なセクションであり、俗にいう〈異族狩り〉ーー公式には認められていないーーの主体となっている。衛生局という名称が、その思想を体現していた。つまるところ異族は、黴菌ばいきんと同じ扱いなのだ。

 気をつけなくては。

 着替えを終えたリナは、ベッドに腰かけて、仕事着のポケットから取り出した紙巻煙草に、燐寸マッチで火を点けた。甘苦い煙を吸い込んで、吐き出した。

 私の役割は、繋ぎ役。それ以上でも、それ以下でもない。

 リナをこの巡業見世物一座カーニヴァルに送り込んだのは、尊者アーユシュマットだ。あるいは、その命を受けたと称している〈異族自由連絡協議会〉の議長だ。異族は一定期間以上、螺旋市に留まることが出来ないが、あらゆるものに例外があるように、〈名誉人類〉の称号を得た裏切り者や旅興行一座の者は、例外とされていた。そして迫害されている者たちは、常に独自のネットワークをつくる。その地下情報網グレープ・ヴァインの末端が、リナだった。

 協議会が、どんな意図でどのようにリナを使おうとしているのかは、わからない。当面、彼女が請けたのは、自分が完全無欠な人族として通用するかを確かめることだけだった。いずれは、後ろ暗い任務に就かされるのだろうと漠然とは思っていたが、ともかくも食べ物と寝る場所を与えられれば、それだけで否が応もない。人族と異族の混血児である彼女ーー彼女の面倒を見てくれた男がそう言っていたーーは、どちらの陣営からも煙たがられ、蔑まれてきたのだ。

 私は何も知らない。何も知らないのだから、何もしゃべることはできない。

 そう自分に言いきかせると、少し落ち着いてきた。

 奇妙な符合だが実際、リナには知らないことが多かった。いや、多すぎると言えた。

 リナには、一年より以前の記憶がない。

 気がついたときリナは、山奥のあばら家にいた。ぎりぎりまで背後に崖が迫った古い建屋で、雨が降るとあちこちで雨漏りがする、そんな家だ。

 そこではリナは、ひとりでなかった。ひどく醜い、身体の悪そうな年寄りの男が、一緒に暮らしていた。

 男はリナに食事や沐浴など、何くれとなく世話を焼いてくれたが、それはどこか愛玩動物の面倒をみるような空気があった。リナ・ロメイという名前も、人族と異族の混血という素性も、その男が教えてくれたものだ。しかし、男がリナとどういう関係なのかーーどう見ても肉親とは考えられないーーは尋ねても教えてはもらえなかった。しばらくそのあばら家で、生活を共にしていたが、ある日、男はリナに帝都に出て〈協議会〉を頼るように言った。そして連絡方法だけ教えると、居着いた野良猫でも追い払うように、リナをあばら家から追い出したのだった……。

「あら、お帰り」

 ふりかえると、鞦韆ブランコ乗りのアンヌが戻ってきたところだった。

「リハーサル、終わったの?」

「まあね」

 アンヌは、気だるげにリナに煙草をねだった。リナは一本差し出してやる。彼女は背中の翼を器用に折りたたんで、上から大きめのスモックのようなふんわりとした上掛けをはおっていた。鳥人族は元来、北の高地に棲む種族だが、おそらくアンヌは奴隷商人によってかどわかされ、連れてこられた口だろう。

「ねえ、リナ」

 紫煙をくゆらせながらアンヌが訊く。

「あたし、ワンを誘おうと思うんだけどーー。どう思う?」

「……なんで、私に聞くの」

 するとアンヌは憤然として、煙草をもみ消した。

「わかってるくせに! あんたっていつもそう。自分は何にも関係ないって顔して!」

 憎々しげにリナをにらみつけ、アンヌは足音も荒く出ていった。うるっさいな、とマヌカンの一人がベッドで唸る。

 リナは暗い眼を伏せる。自分が、ワンの気持ちに値する女だとは、どうしても思えなかった。

 どころか本当の自分は、誰にも求められていない、求められるべきでないという想いが、ますます強くなる。

 ーーわたしはひとりぼっちなのだ。

 リナは暗然とベッドに座り続けた。


 翌日の昼中のこと、螺旋市の街角にキラキラと色とりどりの紙吹雪が舞った。

 にぎにぎしい音楽を奏でながら、金管隊、鼓笛隊を先頭に、隊列が中央停車場を出発したのだった。行進のおとずれた先々では、ポンポンと花火が鳴った。踊り子の脚はリズムに乗って高く上がり、そのたび群衆からは拍手が沸き起こる。道化師の配る風船をもらって興奮した坊主たちが、動物の行列の後についていった。

 晴れがましい初日を煽るパレードは、街々をねり歩き、そのまま一部の人々を引きつれて、蜃気楼のようににわかに出現した円戯場アレエヌへと吸い込まれていった。

 敷地のなかも大変な騒ぎだった。見世物の呼び込み口上に、蒸気オルガンの演奏やバスドラムが重なる。そこに、焼きたての腸詰の匂いや、甘い飴菓子の匂いや、占い小屋から洩れ出る異国風のお香の薫香が混じりあう。そぞろ歩く客たちは幟をつれて上がる気球や、客寄せの小舞台で演じられる手品や、お土産の指人形ギニョルを売り歩く売り子を、物珍しげに眺めている。

 狂騒のこの日、大天幕での番組が終盤にすすむ頃、廻転木馬メリーゴーランド係のリナは手が空いてきた。夜が更け、出歩く子どもが少なくなったこともあるが、やはり不景気なのだ。それに、何とはなしに自粛を求める忖度が追い打ちをかける。初日の今日こそ盛況だが、二日目、三日目と客足も続いていかないことが予想された。

 電気提燈ランタンの、安っぽく、それでいて夢幻的な光を眺めて愚図愚図と粘っていたリナは、ようやっと店じまいをすることにした。この時間まで粘ったならば、支配人に怒られることもあるまい。黒ズボンに白シャツに、鮮血色のジャケットというお仕着せも、窮屈に感じられた。

 終日、頭の端に昼間の男のことが蜘蛛の巣のようにまとわりついていて、ともすれば泡のように浮かんでは弾ける想念に気を取られていた。あるいは客のほうが、そんな商売っ気のなさを敏感に察知して、近寄らなかったのかもしれない。そう思いいたって、やれやれ、と嘆息したのだった。

 リナはのろのろと機械を止めようと操作盤のレバ―に手をかけたが、近づく人の気配をさっして、条件反射的に、いらっしゃいませ、と足音に笑顔を向けた。

 一瞬、自分の頭の中のイメージが実体化したような錯覚に陥り、リナは凍りついた。

 黄ばんだ灯りの中に、一人の男が立っていた。

 大きな男だった。いわおのようだ、というのが第一印象だった。いわおを連想したのは、特大サイズのグレーの背広の所為などではなかった。眼だ。くらい、虚ろな孔めいた、それでいてそこから放たれたものが相手を射すくめずにはいられない、そんな双眸の威力に、或いはその無機質さにリナは、峻厳ないわおをみたのだった。

 だから男の灰色の髪や、厚みのある胸板や、太い腕に気づいたのは、そのあとだった。実物を目の当たりにすると、ヘッダの言っていたことがまざまざと理解できた。男はたしかに人族の容姿をしていたが、それがかえって違和感を、人外にんがいであることを際立たせるのだ。男が口を開いた。容赦のない、淡々とした口調だった。

「お前を逮捕する」

 令状の掲示も、警告もない。宣言ですらなかった。ただひたすらに、事実を述べただけだった。その素っ気なさは、廻転木馬メリーゴーランドの機械が奏でる、間延びしたオルガン演奏にまったくそぐわなかった。どこか非現実的で、たちの悪い冗談めいている。

 だが、それはやはり現実だった。

 手妻のようにとり出された金属の手錠が、あっという間にリナの両手首に掛けられた。ズシリ、とした重みと冷たさが手首に乗って初めて、自分がいましめられたと知った。手錠からのびた状縄が、男のベルトに固定されていた。もう逃げられない、ぼんやりとそんな風に感じた。

 同時に、ギャッという悲鳴が、入場口の方から湧き起こった。にわかづくりの電飾付ゲートをなぎ倒して、異様な一群が雪崩れ込んできた。

 それは一見すると、狒狒ひひの群れのようだった。おそらく立ちあがっても大人の胸ほどの高さにしかならないであろう異形の躯体が、四足で駆け、跳びあがり、奇声を発しながら何十と殺到してきたのだ。

 まったくそれは何という奇怪な生き物であったろう。全身を白くてこわい毛で覆われたそいつらは、前肢が後肢よりはるかに長く、しかもよく見れば第三の肢とも腕ともつかぬ器官が、個体ごとにてんでバラバラに、背中や肩や脇腹や尻や鼠蹊部から、にょっきりと生えているのだ。首はなく、頭部はほとんど体幹に埋もれているが、顔にあたる部分には盾形の面が張りついていた。しかし面に目鼻はなく、ただ三角や円や波線といった幾何学文様があるばかりである。誰かが、この世の終わりだ、というのとまったく同じ調子で叫んだ。

権天使アルケーだぁぁぁぁぁぁ!」

 ひぃぃぃぃっ、と、そこここで息をのむ声がする。それは、人びとを恐怖のどん底に突き落とす、絶望的な指摘だった。権天使アルケーが、螺旋市このまちの支配者の仮借ないしもべであることは、子どもでも知っていた。

 

【聖なるかな! 聖なるかな!】

【完全なる無抵抗主義は健全なる市民の義務です!】

 

 いつの間にか頭上に飛来した智天使どもヘルヴィムが、群体めいて渦巻きながら、がなり立てた。人びとがわっと一斉に、無秩序に、遁走しだした。

 それからの構内は、阿鼻叫喚の巷となった。

 権天使アルケーたちは、次々と客に襲いかかり、取りつき、拘束していった。太い両手で押さえつけ、〈第三の腕〉が縛めの上から突き立てられた。〈第三の腕〉は個々に形状が異なり、植物の枝のようにねじくれて細長いものや、陰茎に似たもの、昆虫の触手めいたものなど色々だったが、一様なのは腕の先に毒針のような禍々まがまがしい突起があるのだった。

 掛け小屋も、屋台も、スピーカーの支柱も、あらゆるものが、なぎ倒された。少しでも抵抗する者には、容赦がなかった。もっとも抵抗しない者にも容赦はなかったが。ある者はしたたかに叩きのめされ、またある者は引き裂かれて、〈第三の腕〉の餌食になるまでもなく、虫の息になった。

「いったい何の騒動だい!」

「おやめったら!」

 呆然と立ち尽くすリナが気づくと、金切り声の主、キンモクセイとギンモクセイの両支配人が現れていた。昨日と同様お揃いのドレスで、両人とも同じデザインの樫の杖をついて、中通りメインストリートを怒り心頭で歩いてくる。

「いい加減におし!」

「弁償してもらうよ!」

 二人が、おそろしい剣幕で巨漢につめ寄った。この期に及んでまだ、したたかな科白が出てくることに、リナは場違いな感動に近いものすら感じた。

背徳法インモラリティ・アクト及び政令三二九にもとづき、混血児及びそれに汚染した事物はことごとく消却される」

 男が答えた。

「混血児?」

「誰のこったい!」

 難詰を無視し、男が状縄を引っ張った。金属が手首に喰い込む。薄い肉が悲鳴をあげた。足が浮きあがった。持ち上げられ、リナは屠殺場の肉のように吊るされた。

「リナ・ロメイ!」

「やっぱりお前だったね!」

「この疫病神が!」

「弁償おし!」

 二人はもはや男など目もくれず、憎悪むき出しの形相でリナを罵倒した。キンモクセイが杖をふりあげ、はっしとリナを打ち据える。灼熱にも似た痛みが走った。たまらず、うめき声が漏れた。当然のごとくギンモクセイも、相似形の行動を取った。二人が代わる代わる杖を振り、リナを打ちのめす。痛みの雨に、気が遠くなった。巡業見世物一座カーニヴァルの仲間は家族ファミリアと呼ばれることもある。だが自分は、彼女たちの身内ではなかったのだ。おびただしい打擲に見舞われ受けながらリナは、先日、支配人が《善き異族は死んだ異族だけだ》と高笑いしていた場面を想起していた。そして、どうして自分が混血児であると知れたのだろう、という思いが渦巻いた。

「それくらいにしておけ」

 興味なさそうに男が言う。

「どうせお前たちも同じ道を辿るのだ」

 その無機質な物言いに老嬢たちは、怯んだようだった。打擲が止んだ。男の合図で権天使アルケーが老嬢に襲いかかった。混濁した意識の中、男がリナの顎をつかんで無理やり顔をあげさせた。はやくも腫れてふさがれた視界のすみでリナは、ただ一人、権天使アルケーに自由を奪われていない人物を捉えた。それは昂然と頬をあげた少女ーーヘッダの姿だった。ヘッダが高揚した口調で叫んだ。

「健全なる市民の義務です!」

 リナの意識はすでに朦朧として、何も考えられなかった。あらゆる感情が削ぎ落とされていた。

 いまや構内には、荷台を幌で覆った、犬のように鼻面の長い軍用トラックが、続々と押し寄せていた。

 毒針によって意識を失い昏倒している観客や、巡業見世物一座カーニヴァル曲馬団サーカスのメンバーたちが、権天使アルケーたちの手によって丸太マルタのように、無造作に荷台に放りこまれていく。その傍らでは、運転助手がポータブルのタイプライターを広げて雷音のような打鍵をみせ、次々に書類を吐きだしている。書類は略式の逮捕令状で、名目の項にはひとこと、万能の呪文〈保護拘禁〉とだけ記されている。

 灰色の男が、邪慳に状縄を引いた。引っ立てれられたリナが、最後のトラックに積まれるのだ。

 そのときーー。

 横合いのテントから、巨大な影が飛びだしてきた。唸り声。がちっ、という重い打撃音。

 一撃を食らい、灰色の男が横ざまに倒れた。リナも道づれになったが、彼女は力強く引き起こされた。縄がちぎれ、手錠から離れている。

「逃げて!」

 叫んだのは、一つ目族の好漢ワンだ。このまま隠れおおせることもできたやもしれないのに、リナを助けるために姿を見せたのだ。何という献身と勇気!

 うおおおおおおおおお、と雄叫びをあげ、ワンが走り出した。暴走する機関車のように軍用トラックに突撃した。ワンの太い両腕が荷台の下にかかり、縄のような力瘤ちからこぶが盛り上がる。

「ぬうっ!!」

 トラックの片側が、嘘のようにあっさりと浮き上がり、あっという間に傾いだ。さらに力をこめる。大きく揺れたトラックが、横転する。

 異変を察知して、ようやく権天使アルケーたちが、ワンに襲いかかった。ワンの体が暴風のように旋廻し、奇怪なけだものたちを蹴散らす。

「早く! 逃げるんだ!」

 ワンの叱咤で、ようやくリナの意識の焦点があった。よろよろと起きあがると、方角も定めずに、がむしゃらに駆け出す。繋がれた両手が邪魔だが、どうにもできない。二三の権天使アルケーが、それを追おうとするが、ワンがそいつらをつかんで乱暴にほうり投げた。ぎゃあ、という悲鳴が上がった。投擲された権天使アルケーが、ヘッダにぶつかったのだ。

 恐怖しかなかった。

 涙が溢れた。

 狂騒を背後に、ただひとり彼女を慮ってくれた巨人を置き去りにして、リナはひたすら駆け続けた。

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