第32話
螺旋【
割り当てられた
長方形の
リナは自分のベッドの下から、古びたスーツケースを引っ張り出して、動きやすいつなぎの仕事着に着替える。ボタンをはずし、ブラウスを思い切りよく脱ぐ。小麦色に焼けた、滑らかな肌が露わになった。彼女の肢体は曲線的だった。肉感的なカーブとカーブの連なりのうちに、どこか力強さを秘めていた。もとよりリナの仕事は、
着替えながらも思考は自然と、自分を訪ねてきたという男のことに移った。
当局者である、という双子の見立ては信じてよいと思った。彼女たちは恐ろしく鼻が利く。問題はどこの手の者かということだ。
いまこの街〈螺旋市〉では、幾つもの勢力がおのおの利を求めて暗躍している。政権に楯突く反体制組織。異国の間諜ども。政権側の動きも一つに統制されているわけではない。陸軍省所属の憲兵隊は、治安維持の名目で市民の動静を監視し、内務省直轄の特別高等警察部は、思想統制で反政府勢力を取り締まろうとしている。自治警察の犯罪捜査部も黙ってはいない。
しかし、リナにとって最も厄介なのは保健省だった。それは現政権の異族隔離政策を主導しているのが、保健省だからだ。そして同内部部局の、人種分類局、異族管理局と連動して、隔離政策の核心を担っているのが衛生局だ。衛生局は独自の捜査権限と逮捕権を持つ強力なセクションであり、俗にいう〈異族狩り〉ーー公式には認められていないーーの主体となっている。衛生局という名称が、その思想を体現していた。つまるところ異族は、
気をつけなくては。
着替えを終えたリナは、ベッドに腰かけて、仕事着のポケットから取り出した紙巻煙草に、
私の役割は、繋ぎ役。それ以上でも、それ以下でもない。
リナをこの
協議会が、どんな意図でどのようにリナを使おうとしているのかは、わからない。当面、彼女が請けたのは、自分が完全無欠な人族として通用するかを確かめることだけだった。いずれは、後ろ暗い任務に就かされるのだろうと漠然とは思っていたが、ともかくも食べ物と寝る場所を与えられれば、それだけで否が応もない。人族と異族の混血児である彼女ーー彼女の面倒を見てくれた男がそう言っていたーーは、どちらの陣営からも煙たがられ、蔑まれてきたのだ。
私は何も知らない。何も知らないのだから、何もしゃべることはできない。
そう自分に言いきかせると、少し落ち着いてきた。
奇妙な符合だが実際、リナには知らないことが多かった。いや、多すぎると言えた。
リナには、一年より以前の記憶がない。
気がついたときリナは、山奥のあばら家にいた。ぎりぎりまで背後に崖が迫った古い建屋で、雨が降るとあちこちで雨漏りがする、そんな家だ。
そこではリナは、ひとりでなかった。ひどく醜い、身体の悪そうな年寄りの男が、一緒に暮らしていた。
男はリナに食事や沐浴など、何くれとなく世話を焼いてくれたが、それはどこか愛玩動物の面倒をみるような空気があった。リナ・ロメイという名前も、人族と異族の混血という素性も、その男が教えてくれたものだ。しかし、男がリナとどういう関係なのかーーどう見ても肉親とは考えられないーーは尋ねても教えてはもらえなかった。しばらくそのあばら家で、生活を共にしていたが、ある日、男はリナに帝都に出て〈協議会〉を頼るように言った。そして連絡方法だけ教えると、居着いた野良猫でも追い払うように、リナをあばら家から追い出したのだった……。
「あら、お帰り」
ふりかえると、
「リハーサル、終わったの?」
「まあね」
アンヌは、気だるげにリナに煙草をねだった。リナは一本差し出してやる。彼女は背中の翼を器用に折りたたんで、上から大きめのスモックのようなふんわりとした上掛けをはおっていた。鳥人族は元来、北の高地に棲む種族だが、おそらくアンヌは奴隷商人によってかどわかされ、連れてこられた口だろう。
「ねえ、リナ」
紫煙をくゆらせながらアンヌが訊く。
「あたし、ワンを誘おうと思うんだけどーー。どう思う?」
「……なんで、私に聞くの」
するとアンヌは憤然として、煙草をもみ消した。
「わかってるくせに! あんたっていつもそう。自分は何にも関係ないって顔して!」
憎々しげにリナをにらみつけ、アンヌは足音も荒く出ていった。うるっさいな、とマヌカンの一人がベッドで唸る。
リナは暗い眼を伏せる。自分が、ワンの気持ちに値する女だとは、どうしても思えなかった。
どころか本当の自分は、誰にも求められていない、求められるべきでないという想いが、ますます強くなる。
ーーわたしはひとりぼっちなのだ。
リナは暗然とベッドに座り続けた。
*
翌日の昼中のこと、螺旋市の街角にキラキラと色とりどりの紙吹雪が舞った。
にぎにぎしい音楽を奏でながら、金管隊、鼓笛隊を先頭に、隊列が中央停車場を出発したのだった。行進のおとずれた先々では、ポンポンと花火が鳴った。踊り子の脚はリズムに乗って高く上がり、そのたび群衆からは拍手が沸き起こる。道化師の配る風船をもらって興奮した坊主たちが、動物の行列の後についていった。
晴れがましい初日を煽るパレードは、街々をねり歩き、そのまま一部の人々を引きつれて、蜃気楼のようににわかに出現した
敷地のなかも大変な騒ぎだった。見世物の呼び込み口上に、蒸気オルガンの演奏やバスドラムが重なる。そこに、焼きたての腸詰の匂いや、甘い飴菓子の匂いや、占い小屋から洩れ出る異国風のお香の薫香が混じりあう。そぞろ歩く客たちは幟をつれて上がる気球や、客寄せの小舞台で演じられる手品や、お土産の
狂騒のこの日、大天幕での番組が終盤にすすむ頃、
電気
終日、頭の端に昼間の男のことが蜘蛛の巣のようにまとわりついていて、ともすれば泡のように浮かんでは弾ける想念に気を取られていた。あるいは客のほうが、そんな商売っ気のなさを敏感に察知して、近寄らなかったのかもしれない。そう思いいたって、やれやれ、と嘆息したのだった。
リナはのろのろと機械を止めようと操作盤のレバ―に手をかけたが、近づく人の気配をさっして、条件反射的に、いらっしゃいませ、と足音に笑顔を向けた。
一瞬、自分の頭の中のイメージが実体化したような錯覚に陥り、リナは凍りついた。
黄ばんだ灯りの中に、一人の男が立っていた。
大きな男だった。
だから男の灰色の髪や、厚みのある胸板や、太い腕に気づいたのは、そのあとだった。実物を目の当たりにすると、ヘッダの言っていたことがまざまざと理解できた。男はたしかに人族の容姿をしていたが、それがかえって違和感を、
「お前を逮捕する」
令状の掲示も、警告もない。宣言ですらなかった。ただひたすらに、事実を述べただけだった。その素っ気なさは、
だが、それはやはり現実だった。
手妻のようにとり出された金属の手錠が、あっという間にリナの両手首に掛けられた。ズシリ、とした重みと冷たさが手首に乗って初めて、自分がいましめられたと知った。手錠からのびた状縄が、男のベルトに固定されていた。もう逃げられない、ぼんやりとそんな風に感じた。
同時に、ギャッという悲鳴が、入場口の方から湧き起こった。にわかづくりの電飾付ゲートをなぎ倒して、異様な一群が雪崩れ込んできた。
それは一見すると、
まったくそれは何という奇怪な生き物であったろう。全身を白くて
「
ひぃぃぃぃっ、と、そこここで息をのむ声がする。それは、人びとを恐怖のどん底に突き落とす、絶望的な指摘だった。
【聖なるかな! 聖なるかな!】
【完全なる無抵抗主義は健全なる市民の義務です!】
いつの間にか頭上に飛来した
それからの構内は、阿鼻叫喚の巷となった。
掛け小屋も、屋台も、スピーカーの支柱も、あらゆるものが、なぎ倒された。少しでも抵抗する者には、容赦がなかった。もっとも抵抗しない者にも容赦はなかったが。ある者はしたたかに叩きのめされ、またある者は引き裂かれて、〈第三の腕〉の餌食になるまでもなく、虫の息になった。
「いったい何の騒動だい!」
「おやめったら!」
呆然と立ち尽くすリナが気づくと、金切り声の主、キンモクセイとギンモクセイの両支配人が現れていた。昨日と同様お揃いのドレスで、両人とも同じデザインの樫の杖をついて、
「いい加減におし!」
「弁償してもらうよ!」
二人が、おそろしい剣幕で巨漢につめ寄った。この期に及んでまだ、したたかな科白が出てくることに、リナは場違いな感動に近いものすら感じた。
「
男が答えた。
「混血児?」
「誰のこったい!」
難詰を無視し、男が状縄を引っ張った。金属が手首に喰い込む。薄い肉が悲鳴をあげた。足が浮きあがった。持ち上げられ、リナは屠殺場の肉のように吊るされた。
「リナ・ロメイ!」
「やっぱりお前だったね!」
「この疫病神が!」
「弁償おし!」
二人はもはや男など目もくれず、憎悪むき出しの形相でリナを罵倒した。キンモクセイが杖をふりあげ、はっしとリナを打ち据える。灼熱にも似た痛みが走った。たまらず、うめき声が漏れた。当然のごとくギンモクセイも、相似形の行動を取った。二人が代わる代わる杖を振り、リナを打ちのめす。痛みの雨に、気が遠くなった。
「それくらいにしておけ」
興味なさそうに男が言う。
「どうせお前たちも同じ道を辿るのだ」
その無機質な物言いに老嬢たちは、怯んだようだった。打擲が止んだ。男の合図で
「健全なる市民の義務です!」
リナの意識はすでに朦朧として、何も考えられなかった。あらゆる感情が削ぎ落とされていた。
いまや構内には、荷台を幌で覆った、犬のように鼻面の長い軍用トラックが、続々と押し寄せていた。
毒針によって意識を失い昏倒している観客や、
灰色の男が、邪慳に状縄を引いた。引っ立てれられたリナが、最後のトラックに積まれるのだ。
そのときーー。
横合いのテントから、巨大な影が飛びだしてきた。唸り声。がちっ、という重い打撃音。
一撃を食らい、灰色の男が横ざまに倒れた。リナも道づれになったが、彼女は力強く引き起こされた。縄がちぎれ、手錠から離れている。
「逃げて!」
叫んだのは、一つ目族の好漢ワンだ。このまま隠れおおせることもできたやもしれないのに、リナを助けるために姿を見せたのだ。何という献身と勇気!
うおおおおおおおおお、と雄叫びをあげ、ワンが走り出した。暴走する機関車のように軍用トラックに突撃した。ワンの太い両腕が荷台の下にかかり、縄のような
「ぬうっ!!」
トラックの片側が、嘘のようにあっさりと浮き上がり、あっという間に傾いだ。さらに力をこめる。大きく揺れたトラックが、横転する。
異変を察知して、ようやく
「早く! 逃げるんだ!」
ワンの叱咤で、ようやくリナの意識の焦点があった。よろよろと起きあがると、方角も定めずに、がむしゃらに駆け出す。繋がれた両手が邪魔だが、どうにもできない。二三の
恐怖しかなかった。
涙が溢れた。
狂騒を背後に、ただひとり彼女を慮ってくれた巨人を置き去りにして、リナはひたすら駆け続けた。
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