第31話

図書館11、

 

 久しぶりに、アルバイト先に顔を出した。何より生活がかかっていて、そうそう休んでばかりいられないのもある。

 朝から夕方までの昼勤シフトに入って作業したが、正直なところ、心ここにあらずな場面が幾つかあった。それに気づいて、何とか集中しようと努める。怪我をしたりさせたりしてクビになっては、元も子もない。

 幸い仕事はルーティン・ワークなので、シフト終りまで何とかこなすことができた。倉庫内を、段ボール箱やプラスチック製の折りたたみコンテナを運んでウロウロしたり、カゴ台車ロールボックスパレットを引っ張ったりすることで、むしろ頭の中は整理されていった気がした。

 任せて依頼した以上、探偵に調査をゆだね、手も口も挟まないのが正しいとはわかっていた。しかし、昨夜のコシロの仮説を聞いて、不安がいや増したのも事実だ。何より、他ならないスウのことについて、手をつかねているのに耐えられそうもなかった。

 たまたま、ぼくの周りがそういう環境だっただけだろうけど、学校の友人や、SNSで知り合った人びとは何故か皆、己れの〈冷静さ〉や〈中立性〉や〈客観性〉や〈合理性〉を競い合うように誇示したがった。そういう人びとが多かった。感情的になることや、イデオロギーに傾倒することや、自分の主張を広く呼びかけることは冷笑の的だった。〈普通の人びと〉はそういうことはしませんよ、と嘲笑さえしていた。

 もちろんぼくにだって、そういう気持ちがないわけではない。自分を、世の中から隔絶した特権的なポジションに置く夢想は、心愉しいものだ。

 だけど同時に、その夢想には虚しさがつきまとった。少なくとも、ぼくにはそうだった。そんな都合の良い場所が存在するとは思えなかったからだ。

 ヒトの認知のバイアスは、脳の機能や心理の機構によってもたらされるという。脳は〈意識〉や〈精神〉をつかさどってはいるが、身体のいち臓器にすぎない。心臓や腎臓を自分の〈意志〉でコントロールできないのに、脳だけコントロールできるとは思えなかった。自分の〈意志〉とは関係なく自律的に動いているのに、自分が〈感情〉ではなく〈客観的〉に判断しているとなぜ自信満々に言い切れるだろうか。その二つは〈同じ場所〉で生まれているのに。

 いや、これもまたひとつの理屈にすぎない。それより何より、愛する人ともう会えないかもしれないという局面ですら、〈分別〉を働かせようとしている自分に、ぼく自身が苛立っていたのだ。

 誰に、どんな遠慮をして、格好つけているのだ、ぼくは? 一度くらい、無様で、アンバランスで、不恰好な己れをさらけ出したって、構わないじゃないのか? それで恥を撒き散らすことになったとして、ぼくに失うものなんてあるだろうか?

 ぼくはアパートに帰らず、図書館へ直行した。昼休みにコシロに連絡して、調査の同道を申し出ていたのだった。

 

 待ち合わせは午後六時半過ぎ、場所はいつものエントランス・ホールだった。この時刻が指定されたのは、ぼくのアルバイトの都合とは関係ない。ひと気が少なくなって、ドロイドの稼働もおとなしくなってからのほうが、やり易いという探偵の判断からだ。

 エントランス・ホールにのっしのっしとやって来たのは母君ではなく、コシロ本人である。巨体をゆらして現れた彼は、ポロシャツにジャケットをはおり、折り目のついたスラックスをはいていた。腰にウェストポーチを巻いていて、足元は動きやすそうなスニーカーだ。思いの外、きちんとした身なりだ。いつもの、パジャマみたいな格好しか見ていないから、そう思うのかもしれない。

「そう不思議そうな顔をしなさんな。館内では、あまり見苦しい格好はしないようにしているんだ。母上にも怒られるしね」

「無理言ってご一緒させてもらって、すみません」

 開口一番に切り出すと、コシロはうるさそうに、手をふった。

「いや、むしろ助かったよ。母上が留守番になったのでね」 

 今日の昼間の調査は、無駄足だったとコシロを述べた。というよりも身動きがとれなかったらしい。

 話をきくつもりだった〈警察署長チーフ〉ことジュウハチロウ・セコウ氏とは、アポイントメントすらとれなかった。〈図書館警察〉に連絡しても取りつぎを断られ、ザロフ警部はいくら携帯端末にメッセージを送ってもなしのつぶて。業を煮やした母上は、〈上町アップ・タウン〉のセコウ氏のアパルトマンを訪ねたが、玄関係に門衛よろしく追い返された。仕方なく母君は、別の聴き込みに回った。

「何かが起こっているのは間違いない。母上の〈顔〉を使っても、つなぎが取れないなんて、これまでなかったからね。だが、何が起こっているのかまったくつかめないんだよーー」

 コシロが顔をしかめる。

 仕方がないので、母上には引き続き警察署長との連絡をたのみ、コシロ自身が図書館の探検に乗り出したというわけだった。

 行こうか、とうながされ、例によってカウンターの内側に入る。図書館の奥に向かう。ぼくは部外者なので、自由に〈非公共区域〉に出入りできるわけじゃないのは理解できるのだが、ぼくを迎えるためだけに、コシロがエントランスまでいちいち降りてくるのは、何だか気がひける。

 エレベーターのケージ内でコシロが、〈占い師フォーチュン・テラー〉の〈新しい妹〉についてわかったことを話してくれた。

「母上の聴き込みによれば、彼女の名前はヘッダ・ミュヘレッツェというようだ。ポーランド系フランス人ーー少なくともそう自称している。ただ入国記録は見つからなかった。あとはスウさんのときと同じだ。住民登録、陸運局、税務記録、移民局、社会保険事務所……どの名簿にも見当たらない。フランスの住民登録を確認する伝手は、残念ながらないんだよ。渦巻町にやって来たのは半年ほど前で、はじめは元町オールド・タウンのアパートに住んでいた。最初から日本語は達者だったみたいだ。そのころは、定食屋の店員をしていたのだが、一ヶ月前に職場を退職しアパートも引き払った」

「つまり、あの姉妹の部屋に移った?」

「そういうことになるだろう。ちょうどそのころから、渦巻町を三人で買い物している姿が、目撃されているみたいだから」

 以上は、姉妹がよく利用する商店街の、店主や従業員たちの証言だ。これで少なくとも、〈以前から三姉妹だった〉という二人の主張が胡散臭いことは、間違いなさそうだった。だが、どうすれば赤の他人が、〈元々の家族〉として入り込むことができるのだろう。

「さあてねーー」

 コシロは言葉を濁した。

「そういう不条理な状況を描いた小説を、だいぶ以前に呼んだ気がするがね。方法はわからないけど、過去の特殊詐欺のように、親族に成りすまして金品を騙し盗ろうとしているのかもしれん」

「そんなーー」

 いささか不愉快な人たちだったが、そんな目に遭うのを黙って見過ごすのは、寝覚めが悪い。

「まあ、ボクの方からザロフ警部に注意を促しておくよ。それこそ〈図書館警察〉の領分かもしれないからね。もっとも、そうじゃないと睨んではいるのだけど」

「そういえば、彼女の正体について仮説があるとおっしゃっていましたよね?」

「ああ。その点はまだ、確認がとれてないんだ」

 ちょうどそのとき、くぐもった音がして、ケージが減速した。

 エレベーターで上がった二十五階のフロアも、相も変わらぬ無機質なアイボリー一色の空間だった。

 コシロは手元の携帯端末で位置を確認しながら、ずんずんと先へ進む。エレベーター・ホールの前に横たわる細長い空間を、左に向かう。その空間に直交する通路が、等間隔に列なっている。ここまでは、コシロの家の階層と同じだ。

 通路のうち、左端、つまり一番奥の一本に入った。

 コシロが、通路の半ばで立ち止まった。彼が手をかざすとセンサが反応して、書棚のパネルが、預言者が紅海を割ったように、左右に開いた。前回も思ったのだが、左右にぎっしりと詰めこまれた書籍が壁となってたち並ぶ姿は、下の開架フロアとひと味違う壮観さがある。

 その壁と壁の間にぼくたちは、足を踏み入れた。

 コシロは、携帯端末と棚に記された番号を見比べながら、ゆっくりと歩いた。

「ここだ」

 コシロが指し示した本棚は、以前に覗いてみた棚とはちょっと様子が異なっていた。収納スペースのひと区切りの背が高く、奥行きも他より深い。そして収まっている書籍のサイズも大きいのだ。

 かつてA4サイズーーおよそ三十センチ程度ーーを超える本は「大型本」と呼ばれ、他の書籍とは違う大きな棚に収められていたという。この棚に入っているのはどうやらその「大型本」で、どれもサイズが大きかった。しかも、内容は画集など美術関係の書籍らしい。ざっと眺めると、上下に分かれた棚で二百冊ほどが、そのひと区画に収納されている。

「本当に合ってた……」

 実はコシロは、この場所にある書籍が美術関係のものであるという予想を、昨夜の時点でぼくに述べていた。コシロ的にいうなら、〈姉妹〉のヒントの第二点セカンダスめ。それが見事に的中したわけだ。失礼ながら、ぼくは彼を見直した。

「では、探すとするか」

 ぼくはうなずいて、棚の本を一冊抜き取った。立派な装丁の本はずっしりと重く、慎重に開くと、紙と糊とインキの匂いが、ぷん、と鼻をくすぐった。

 

 ぼくたちは通路にしゃがみこみ、二人がかりで手当たり次第に本を引っ張り出しては、中身を確かめていた。コシロは上の棚で、ぼくの分担は下の棚だった。

 無言が気詰まりなぼくはつい、本を探しながらコシロに訊ねる。

「スウの原稿は読みましたか?」

「ん? ああ、ノートも、キミがプリントアウトしてくれた分も読んだよ」

「何か手がかりになりそうな点は、ありました?」

「そうだなあーー」

 コシロは取り出した本を、物凄い勢いでめくりながら答える。

「あくまでも印象だけど、キミの指摘はおおむね的を得ていると思うよ。確かにあのノートの作品は、他のスウさんの作品とは、ちょっと質が違う。文章がつたないし、筋立ても陳腐だ。あの作品だけが、妙に素人臭いというかーー」

 コシロの感想は、ぼくのそれとほぼ同じだった。ぼくはスウが、二重人格者であったようにすら思える。単純に、別人が書いた作品に思えるのだ。筆跡が一致していなければ、とてもスウの手になるものとは信じられない。

「まあ、技巧的な巧拙もさることながらだ、何て言うかな、あの話だけは、自分の内面から湧き出たモノを表出しているというより、何処かから送られてきたモノを、やむなくそのまま自動書記オートマチック・ライティングしたような気配を感じるのだよーー」

 自動書記オートマチック・ライティングとは言い得て妙だ、とあらためて思う。

 ノートの作品にぼくは、自分の知るスウという女性とは異なる別の人格を感じていたのだが、さらにいえば、〈別世界で他人が経験したこと〉をひたすら聞いて書き写しただけような、いわば実体験から薄いヴェールで隔たった印象を受けているのだった。

 とはいえそれが、何を意味するのかは、さっぱりなのだけれどもーー。

 ふと、二十一冊目に取りかかっていたぼくの手が、止まった。

 その本は、分厚い画集と画集の間に挟まっていたもので、背表紙が一センチくらいしかない。周りの本に比べると格段に薄く、うっかり見落としてしまいそうな本である。

 表側をざっと眺め回し、ペラペラと捲り出した。にわかに、心臓がドキドキしてくる。ぼくはあらためて表紙の素描をまじまじと見つめた。

 画面の真ん中に、一本の樹木が描かれている。樹木の枝には数羽の鳥たちが留まっているが、中心となるのは、その木のうろのような場所に収まっている一羽のフクロウである。が、不気味なのは、そこではない。樹木が生えている地面に無数の見開かれた目があるのだ。しかもよく見ると、メインの樹木の背後に控えている木々の間に、明らかに人間の耳が転がっている。何てことない森の絵のようでいて、どこか不安にさせられるのはそのためである。

「コシロさん、この本ーー」

 声が少し上ずってしまった。

「どれ」

 ぼくの異様な気配に気づいたコシロは、自分の作業を切り上げて、開いている画集を覗き込んだ。やにわに、ぼくの手から画集を奪うと、素早く全ページをめくっていく。薄いので、あっという間にめくり終わった。しまいには、本を閉じて表紙や小口を、ためつすがめつ観察する。彼の細い目が、キラリと光る。

「確かにこれはーー当たりみたいだ」

 コシロは満足したように、ため息をついたのだった。

 〈姉妹〉が教えてくれた〈鍵〉の一番目が〈決して見つかることのない書物〉だった。この言葉をヒントにコシロは、この場所にたどり着いた。しかし当該番号の棚には、二百冊以上の書籍が収まっている。

 では次は、どの本を探せば良いのだろうか? コシロは、ヒントの二番目〈決して読まれることのない書物〉から、次のような予想を立てていた。

 〈決して読まれることのない書物〉とは、〈文章〉ではなく、〈絵〉が載っている書物のことではないか?

 彼の推測は当たった。果たせるかな、当該の棚は画集で埋め尽くされていた。そしてコシロは、さらに推測をすすめていた。〈決して読まれることのない書物〉が〈決して〉と強調されているのは、〈文章がまったく記載されていない〉という意味ではないか。

 当然ながら画集といっても、まったく文字が載っていないというのは稀であろう。絵画のタイトルや制作年代、画家の来歴など、最低限の記述は画集といえども載っている。まあ、画家のサインや、絵そのものに詞書ことばがきが添えられている場合は例外かもしれないが。

 ぼくがいま見つけ出した本は、その条件にピタリと合っていた。

 一見ごくありきたりな画集のようでいて、ぼくの手の中にあるこの本は、文字が一文字たりとも印刷されていない。本の表紙にはモノクロの素描が載っているが、通常あるべきタイトルはおろか、画家の名前すら書かれていない。ページをめくると、カラー印刷された絵が載っているのだが、どの絵にもタイトルはないし、ナンバーもふられていない。最後の奥付ページは白紙で、出版社名も日付もISBNもない。

 これこそまさしく、〈決して《読まれる》ことのない書物〉ではないだろうか。

 しかしーー。

 何と不可思議で、気味の悪い絵ばかり載っている画集であることか。

 一見してどの絵も、色づかいは鮮やかだ。絵画にも宗教にも詳しくないが、幾つかには十字架に掛けられた救世主や聖女とおぼしき女性が描かれていて、全般にキリスト教の宗教画なのだと知れる。だから陰惨な印象はないのだが、なおもよく見ると、幾つかの絵には、奇妙な、生物とも悪魔ともつかぬ怪物が散りばめられているのだった。

 赤い帽子を被った髭面の老爺の首から、獣の脚と尻尾が生えている。甲冑と一体化した船は、胸鰭と尾鰭で空を泳いでいる。カンガルーの下半身に犬の頭だけが着いたモノ。三本首の鳥。ぶつ切りにした人間を調理している、水掻き付きの足を持つ女。人間を案内する嘴のある怪物は松明を掲げ、猛禽に果実と二人分の手足が合体したモノが緑の草原で踊っている……。

 だがそれらの中でも、ぼくがもっとも強烈に惹きつけられ、目が離せなくなっていたのは、ある絵のほぼ中央に位置する奇っ怪な姿の人物(?)であった。

 それは縦長の絵画を掲載しているページで、上の端の(つまり遠景)には建物のシルエットがあり、正確には建物の背後に火事と思われる炎の明かりがあって、それが建物群を浮かび上がらせている。

 反対に絵の下の方(近景)は明るく、色鮮やかですらある。しかし描かれているのは恐ろしげなモノばかりだ。人びとは基本的に裸形で、巨大な楽器に群がっていたり、鳥のような魔物に頭から丸呑みされていたり、犬の群れに襲われていたりする。

 問題の〈人物〉は、中景にいる。

 全身の形状は、鳥に似ている。カモやアヒルの類い。だが頭部は人間のそれであり、おそらくは中年の男性のものだ。そいつが尻をこちらに向けた体勢で、肩ごしに振り返って、微笑んでいる。男の頭の上には、つばの広い帽子が乗っかっているが、帽子の盛り上がった部分がバグパイプのようである。

 胴体はツルンとしていて、卵にも見える。実際、お尻のところが割れていて、中身が見えている。なのに両足は樹幹を思わせる形で、しかも動物に齧られているのか穴がある。

 とにかく情報量が多すぎるし、ぼくの貧弱な表現力では描ききれないのだが、人間と動物が、いや生物と無生物がゴチャ混ぜになった混淆物アマルガムたちの中で、一等、象徴的な存在がそいつだと思われるのだった。

「〈木男〉だ」

 ぼくの視線をたどったコシロが、指摘した。

「え?」

「それが〈木男〉だよ」

 コシロが指しているのは、ぼくの目を惹いた奇怪な人物だった。

「この絵の男ーーあるいは怪物は〈木男〉と名づけられている」

 心臓の鼓動がさらに速まる。それはーー図書館に出没する正体不明の連続犯の名前ではないか?

「この絵は『快楽の園』という絵だ。この本はボスの画集なんだ」

「ボス……」

「オランダの画家だ。中世の終わりごろのね」

 コシロが、簡単に解説してくれた。

 ヒエロニムス・ボスことヒエロニムス・ファン・アーケンは、十五世紀の半ばにオランダで生まれ、十六世紀初頭に没した画家だという。かのレオナルド・ダ・ヴィンチの同時代人で、生年月日を含め人生や人柄などはほとんどわかっていない。没後に宗教改革が巻き起こり、その渦中でいっとき忘れられていたためらしい。しかし生前は画家としてはかなり成功した人物だったようで、フィリップ美公と呼ばれた大貴族をパトロンに持ち、スペイン王フェリペ二世が作品の熱心なコレクターだった。熱心なクリスチャンだったともいわれ、二十を数える真作は基本的に宗教絵画である。

 コシロが他のページを捲って、いろいろ蘊蓄を傾け始めた。

「この、大小五つの円にいろんな場面が描かれている絵のタイトルは《七つの大罪と四終》だったかな。こっちに八角形にカットされた絵があるだろう。籠を背負った男の。これには《旅人》というタイトルがついていて、こっちの《愚者の船》と《快楽と大食の寓意》と《守銭奴の死》ともともとはひとつの祭壇画だったものだ……」

 延々と続きそうなそれを遮って、問題の絵について説明を絞ってもらう。

 コシロによればぼくが惹きつけられたのは、『快楽の園』というボスの代表作で、スペインのプラド美術館に所蔵されている三幅対トリプティーク祭壇画形式の絵画だという。

 開くと220×389センチメートルになるその絵は、内側の左翼パネルにエデンの園が、中央パネルには地上が、右翼パネルには地獄が描かれている。だからぼくが虜になったのは、正確にはその一部分、右翼パネルの地獄を描いた部分であるらしい。

「コシロさん。ひょっとしたら、目当ての本がこのボスって人の画集だって、わかってたんじゃないですか?」

 思いつきで訊いたのだがコシロは、思いの外うろたえた様子になった。そしてしぶしぶといった体で認めた。

「予測はーーしていたよ」

 ありもしない書棚の埃を払う仕草になった。

「とはいえ、確信はなかった。〈仕掛け〉を作ったのは曾祖父で、〈木男〉の名付け親である画家とはまったく接点がない。〈木男〉と呼ばれる不審者が使ったかもしれない〈仕掛け〉が、〈木男〉を描いたボスの画集だなんて、出来すぎだしね」

 確かに暗合コインシデンスーー偶然の一致ーーは、探偵小説でしばしば取り上げられ、また、しばしば蔑まれる要素だ。謎解きを楽しみにしている読者からすれば、「偶然の一致」による強引な「解決」ほどがっかりするものはないだろう。だが一方で、これほど「物語」全般で使われる要素もないのではなかろうか。お話における〈偶然〉は、しばしば「運命」に置き換えられる。運命の恋人との偶然の出会い、宿敵との再会、たまたま持ち得た才能や道具が生きて事態が変わる展開の筋立ては数知れない。してみると、〈探偵の推理〉と〈真相〉の一致も、物語上の「運命」、暗合の一種なのかもしれない……。

 コシロは、ぼくの思惑などお構い無しに〈謎解き〉を進める気であるらしかった。

「ま、それはそうと、次のヒントに移るとしよう。〈決して開かれることのない書物〉に」

「え。もう、わかっているんですか?」

 驚きで声が上ずった。

 ここに至ってぼくは、初めてコシロを頼もしいと思った。

 

 ぼくたちは、その列の行き止まりまでいった。他の階層でも見かけた、ショーケースみたいな壁龕ニッチがある場所である。

 ガラスの奥に〈面陳〉されていた書籍は、やはり大判の画集で、さすがにぼくにも見覚えのある絵柄である。モネの『睡蓮』だ。

 コシロはさっき見つけた画集をぼくに預けると、嵌め込まれたガラスとその周囲を仔細に観察し始めた。

「このガラスは嵌め殺しじゃない。右の端に蝶番があるし、反対側には鍵穴シリンダーもある。つまり片開きに開くはずなんだ。さて、どれかな……」

 コシロは小声でぶつぶつ粒やいて、ウェストポーチのジッパーを開ける。中には小さな鍵が幾つも入っていた。それを引っかき回しては、探っている。コシロが歩くたびにガチャガチャ音がするなと思っていたのだが、これが理由だったのか。

「とりあえず、どれが正解かわからなかったから、事務室の箱にあったのを全部持ってきたんだよ」

 ちょっとだけ言い訳がましく、コシロが言う。

「ここの中の陳列物は、普段、交換したりしないんですか?」

「少なくとも、今はやっていないはずだよ。だからどの鍵かわからなくなってしまったのさ」

 コシロはサイズ的に近い鍵を取り出しては、片っ端から試した。が、どうにも上手くいかない。どれも当てはまらないようだった。

「その中に、ない、ってことはありませんかーー」

「そんなはずはないんだがーー割ってしまうか?」

 コシロは、拳でガラスを、コンコンと軽く叩いた。実力行使に出かねない雰囲気だ。場所が狭いから遠慮していたのぼくは、自分もよく見ようと身を乗り出した。画集を抱えたまま、壁龕ニッチに近寄った。

 するとーー意外なことが起こった。

 ちっ……こちっ……

 というかすかな異音が、どこかから聞こえた。やがて、

 ……かたっ……かたっ……

 という音がそれに続く。

「この音はーー?」

 ぼくの疑問に、コシロが、しっと唇に指をあてる。

「……壁の中だ。壁の中から音がする……おっ!」

 最後の驚きの声は、ぼくも一緒に発していた。壁龕ニッチに嵌められていたガラスーー150センチほど、高さは100センチほどーーが、動いた。いや、片開きに開いたのである。

「解錠してないのに、どうして? ーーそうか! その本のどこかにある、ICチップに反応したんだ!」

 ぼくは手元の画集を、まじまじと眺めた。どうやらまたも、コシロの推測は正しかったらしい。この本は間違いなく、〈決して読まれることのない書物〉だ。

 コシロがガラス戸の中から、置型の書見台ブックスタンドに飾られていたモネの『睡蓮』を取り出す。それは以前、赤ペンが言っていた通り本物の書籍ではなくダミーで、プラスチックで組み立てられた平べったい形状の箱に、プリントされた表紙の絵柄が貼られている物だった。

「これがーー?」

 ああ、とコシロがうなずく。

「これが〈決して開かれることのない書物〉だろう」

 それはそうだ。ダミーなのだから〈開かれること〉はない。すなわち、ヒントの第三点ターシャスめ。

 取り出した『睡蓮』の代わりに、コシロがボスの画集ーー〈決して読まれることのない書物〉ーーを書見台ブックスタンドに立てかけた。そして、ガラス戸を、キチンと閉め直した。

 今度は何も起こらなかった。

 十秒。

 二十秒。

 間違った道筋をたどったのだろうか、とぼくがいぶかしんでいると、またもや異音がしてきた。

 今度の音は、ブウウウウウウン……という機械的な唸りだった。どこからかーーやはり壁の中からだろうーー響いてくる音は、さっきよりもずっと長いあいだ鳴り続けていた。ぼくは不安で、尻がもぞもぞとなった。

「どうやらかなり大がかりみたいだな……おやっ? 終わったのか?」

 コシロのいう通りだった。

 唸りは唐突に消えた。

 そしてーー。

 かちっ……

 と、また鳴って、次なる〈扉〉が開いたのだった。

 これまでまったく気がつかなかったのだが、壁龕ニッチの左横に右開きの扉があって、それがロックが外れたことにより、手前にポップアップしてきたのだった。

「こんなところにーー」

 図書館が生まれ育ったコシロが、絶句している。無理もない。問題の〈扉〉は、巧妙なカムフラージュが施してあって、その気になって調べなければ、まわりの壁面と境目が目立たないようにされている。

 ぼくは浮き出てきた〈扉〉に指を引っかけて、手前に引いた。〈扉〉はスムーズに動き、やがて人間が一人通れるくらいの入り口が、そこに出現した。

 ぼくは無意識で、唾を呑み込んだ。

 この通路の向こうに、スウがいるのだろうか?

不可能犯罪インポッシブル・クライムの解答が〈秘密の抜け道〉だなんて知れたら、百年前の探偵小説ロマン・ポリシエでも袋叩きだな。いや、少年少女向けジュヴェニールなら別かーー」

 何やらぶつぶつ呟いていたコシロが、ぼくの肩に手を置いて促した。

「鬼が出るか蛇が出るか。ーー行ってみよう」

 こうしてぼくたちは、図書館の抜け道に足を踏み入れたのだった。

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