第16話
図書館6、
「変態って、どういう意味ですか?」
赤ペンが、何の説明もしないで帰ってしまったので、ぼくはおずおずと切り出した。
「変態というのは、一般的にはメタモルフォーゼのことだが、ここでは性行動がやや普通の人間とは異なっている倒錯的な嗜好のことを言う」
「いえ、そうではなくて……」
〈卵男〉ーーウオタロウ・コシロは、ちらっとぼくに目をやって、冗談だよ、とソファをすすめた。
ぼくが通されたのは、この家ーーといってよいのか、ここも〈図書館〉内の一室なのだがーーのコシロの私室らしかった。
想像するにこの
コシロの部屋には、特大サイズのベッドと、マグロ解体用のまな板ほどの木製デスクがあり、コシロはデスク前の肘掛け椅子に沈み込んでいる。ぼくがすすめられたのは、来客用に二脚あるソファのひとつだった。
「あの、これ、警察のかたから……」
ぼくは、あらかじめ託されていた紙ファイルを差し出した。捜査調書のハードコピーだ。
法執行機関が、一般市民に内部の捜査資料を開示するなど聞いたことがないが、どうやら〈委託警察〉においては、(あくまで特例かつ臨時的にだが)その職権の一部を、市民に代行させる法的枠組みが認められているらしい。こうなると、ほとんど時代劇の岡っ引きと変わらなく思える。もっとも、さすがに、コピーをコシロの家から持ち出すことは、禁止されているという。
コシロのぞんざいな指示にしたがって、デスクの天板に滑らす。受けとったコシロは、ふん、と鼻を鳴らしながら質問をしてきた。
「ボクのことは、なんと聞いて?」
コシロがかなりのスピードでページをめくっていくのに、あっけにとられて返答が遅れた。しかし、ここでヘソを曲げられてはかなわない。
「たいへんな名探偵だと……」
とりあえず、下出にでてみる。だが、ふん、と不満げに、鼻を鳴らされた。慌てて、言い添える。
「
「自分では、そのつもりなのだがね」
わずかに胸をそらせる。こうして相対してみると、第一印象ほど年齢がいっているようには思えない。
「警察とのかかわりも、元はといえばネタ探しの取材がきっかけでね」
「ふん、穀つぶしの間違いじゃないかね」
辛辣な科白をなげつけてきたのは、コシロの母親だった。
「母上、まだいらしんですか!?」
たしかに、お茶を運んで来てからこの母親は、すっかり気配を消していた。ちんまりとそばに控えていたことに、いま気づいたくらいだ。
「いちゃ悪いかい?」
「仕事の話ですよ。場合によってはプライベートな内容になるかもしれない。申しわけありませんが、出ていってください」
コシロは、きっぱりといった。それでようやく、ブツブツ呟きながら、母親は退室していった。
ドアが閉まってからコシロが、口を開いた。
「まあ、母上の言っていることにも一理ある。知ってのとおり、
「ははあ、するとスパイシーというには……」
「もちろん
「で、お断りになったと」
いや、と決まり悪そうにコシロは、じつは一度だけ書いてやった、と告白した。そのときの相手に、しつこくねだられているので、先ほどの返答にあいなったというわけだ。
「どうしても、自分の筆力のほどが計りたくてね。つまり、他人に劣情をもよおさせるほどの筆力が、自分の文章に備わっているのか知りたかったのさ。おかしいかね?」
「いえ、よく……わかりますよ」
思わず口に出していた。
その気持ちは、一度ならず文章を書いたことのあるぼくには、よく理解できるものだった。小説の、文章の力とは、他者に影響を与える力の言い換えなのかもしれない。ちょうど観客のいないショウが存在しないように、読者のいない小説は存在しない。少なくとも、存在しないのと同義だ。
ほう、とコシロの眼が興味深げに光った。
途端に気恥ずかしくなったぼくは、慌てて否定する。習作めいたものを書き上げたことは何度もあるが、心底納得いく作品を完成させたことは、まだなかった。そんな人間が、物書きの気持ちを代弁するなど、おこがましいにもほどがある。
コシロはそれ以上は踏み込まずに、話題を変えた。
「さて、ではキミの話を聞くとしようか。その前にひとつ、警察の名誉のために言っておこう。キミはひょっとして、警官が何も説明しないで帰ったことに不信感を持っているのかもしれないが、あれは通常の手順なのだ。つまりボクが頼んでいるんだよ。ボクはあくまで作家なんだ。探偵の真似事は行きがかり上だ。だからボクが聞きたいのは客観的なデータじゃない。あくまで個人の、主観的な物語なんだ」
そういってコシロは、肘掛け椅子により深く沈み込んだ。そして分厚い目蓋を下した。
「さあ、話して。そうだな、彼女との出会いから始めよう。彼女の失踪までを、思いつく限りでいいから、細大漏らさずに」
***
ぼくとスウが出会ったのも、やはり図書館だった。
その日、ぼくは、まだ開館していない図書館へ向かっていた。開くと同時に、中に入ろうとしていたからだ。
明け方の、半覚醒状態の曖昧な意識のうちで、とんでもないアイディアが浮かび、矢も楯もたまらず飛び起きてメモを取る。ぼくと同様の、そんな経験をしたことがある者も、いるのではないだろうか。
そしてほとんどの場合、すっかり日が昇ったあと陽光の下でそれを眺めて、一体これは何が言いたかったのか、自分は本当に何かを思いついたのか、ひょっとしたらそう思いたかっただけではないか、と頭を抱えたこともあるのではないか。あるいは、どうしてこんな下らない愚にもつかない思いつきを、〈たった一つの冴えたやり方〉のように思い込めたのか、呆然となったことがある人も、いるのではないだろうか。
取り逃がした魚はとてつもなく大きかったはず、という、自分自身に裏切られたような釈然としない思いにかられ、ぼくは図書館をめざした。走り書きにあったアイディアを掘り下げることで、再びあの素敵な、鐘の鳴りひびくような瞬間が戻ってくるかもしれない、と未練たらたらの気持ちだったと思う。
そのころぼくは、思うように執筆が手につかず、じりじりと焼かれるような焦燥感にかられていた。ひたすらアルバイトに励むだけになっている自分に、忸怩たる思いだった。一文にもならず、どころか誰にも望まれず、評価すらされない作業を粛々と続けるのは、並大抵の神経では無理だ。
ぼくが生まれたのは、関東平野の端っこの、中くらい規模の地方都市だ。両親は公務員で、二つ年下の弟が一人いた。
特段お金持ちではないが、かといってひどく貧しいわけでもない、ごく平均的な家庭だったと思う。大震災で住む家がなくなり、親戚を頼って東北地方に引っ越したこと以外は、なに不自由なく育った。近隣の大学へ進学し、やはり近隣の小さな会社に就職して、独り暮らしを始めた。
両親の意志を汲んだわけではないだろうが弟は、試験を受けて公務員になった。それを見てぼくは、会社を辞めた。執筆の時間を捻出するには、アルバイトの方が都合がよかったからだ。渦巻町に移り住んだのは同じタイミングで、理由はたまたま聞き知った図書館に魅せられたからだった。
本当に身勝手なことだが、両親の暮らしは弟がいれば安心だと思った。自分自身は、育ててくれた親の面倒をみるつもりも、責任感も持ちあわせていなかった。それよりも、作家になりたいという夢が勝っていたのだ。小説家という職業が廃れた世界で、どうすれば作家を名乗れるのかなんて、きちんと詰めてもいなかった。ただ小説を書いて暮したかった。なんの根拠もなく、自分は何かになれると思い込んでいる、どこにでもいる痛い若者、それがぼくだった。
一緒に暮らしだして自分の生い立ちを話したとき、スウが放った一言で、ぼくは冷水を浴びせられたようになった。
「弟さんに夢はなかったの?」
恐ろしいことにぼくは、そんなこと一度だって考えたことなんかなかった。自分以外の人間は、毎日の安穏とした日常に満足しきっている、と決めつけていたのだと思う。それはもちろん自分だけは特別だ、という増上慢の裏返しにすぎないのだった。
ぼくに弟をーー結婚して優しいお嫁さんをもらい、可愛い姪っ子と甥っ子をもうけて、一軒家をたて父親と同居している(母親は数年前に亡くなった。初孫をとても愛していた)ーー下に見る資格なんてない。
とまれその日のぼくは、自分の手にしているもののあまりの小ささに居たたまれなくなっていて、図書館を目指していたのだ。
鬱々とした心持ちで、ぼくが開館前の図書館にたどり着くと、扉の前にしゃがみ込んで、膝に顔を埋めている人影があった。今まで、ぼくより早く図書館にやってくるのは、数人のお年寄りをのぞいて見たことがなかった。だから、明かに若者向けの白いコート姿で、艶やかな黒髪の天使の輪をこちらにむけている女性を目にして、ぼくは少したじろいだ。
気配を感じ取ったのか、女性が膝のあいだに傾けていた顔をあげた。
ロマンチックな物語ならば、互いの瞳を見つめ合った瞬間に二人の間に電流が走った、と表現するかもしれない。
けれども、生憎とぼくたちには、そんな甘ったるい〈運命の瞬間〉の訪れはなかった。彼女は、いくぶん値踏みするような一瞥をくれてから「何か食べるもの持ってない?」といったのだった。掠れた、意地悪な老婆のような声で、口調はとげとげしく、投やりだった。
反射的にぼくは、上着のポケットを探った。中に入っていたのは、ミントガムだけだった。
「上等」
ぼくが、こわごわ餌付けする児童のように差し出したそれを、彼女は、むしゃむしゃとまるでゼリービーンズみたく噛み、おまけに最後に、ゴクン、と飲み込んだ。
「結構いけるね」
そういって笑った彼女に、ぼくは血が逆流するような高ぶりを覚えたのだった。
***
彼女が流民なのは、明らかだった。かつて本邦では「戸籍」などという前近代的な制度がまかり通っていたらしいのだが、それも今は昔。特に行政の行き届いていばいこの関東地方に今あるのは、せいぜいが住民登録くらいだ。
とくに〈渦巻町〉は、元々が行き場を失った被災者たちの町で、他の地域の自治体ほど移住に厳しくはない。もちろんフリーライドが見つかれば、それなりに罰せられはするけど。
彼女のイントネーションから、海外のどこかからやって来たことは想像できたけど、それを根掘り葉掘り聞く勇気が、ぼくにはなかった。
まったく下心がなかった、といえば自分に嘘をつくことになるだろう(したり顔でコシロがうなずく)。事実、そんな境遇の流民や難民を、奴隷のように働かせたり、そのほか口に出しては言えないような奉仕をさせる人間がいることをぼくは知っていた。
ぼくとしてはそんな行為、性的なことを含めた乱暴はもちろん、差別的な言葉も、彼女に投げつけたつもりはない。だが、マジョリティの傲慢は、当人には気づきにくいものだ。彼女が、衣食住と引き換えに、隷属的なポジションをあまんじて得た、と心の中で思っていなかったことを願うばかりだ。
***
小説家としての彼女を意識したのは、彼女と暮らしはじめてから、三か月ほど経った頃のことだった。
ぼくたちは、商店街の中にあるカフェで向かい合っていた。その店が、近隣で一番安くコーヒーが飲めて、電源もあって、かつ長居しても嫌がられないーー店員の本心は分からないけど表面的にはーー店だったからだ。
店内には弱い音量でオールデイズが流れ、客たちはみな思い思いに過ごして腰を落ち着けていた。時折、シューっというエスプレッソマシンの音がして、じわりと薫香がただよってくるのだった。
ぼくはノートを広げて、文章をひねり出そうと、悪戦苦闘していた。これはそのときにはまっていた執筆スタイルで、テキストを打つのではなく、あえて「書く」ようにしていた。いろいろな方法を、模索していたのだ。
そうして書き上げた作品をテキストにおこして、最終的には投稿プラットフォーム(テキスト、画像、音楽etc……)で発表する。
ネットワーク上には今でも、細々と続く投稿プラットフォームがあって、そこに自分の作品をアップすれば、メンバーからの講評がつくことがある。もっともそれが、本当に人の手によるものなのか、優秀なAIによるレヴューなのかは分からない。しかしそれは、ぼくの知ったことではなかった。ただただ誰にも届かない手紙を延々と書き綴るのはしんどいので、たとえ相手が0と1の塊だったとしても、レスポンスがあれば張り合いになった。
スウはといえば、ソファに沈み込んで、図書館で借りた本に読みふけっていた。彼女が読んでいたのは、中央アジアの遊牧民族の毛織物に関する書物で、素朴な図柄とカラフルな色彩の載った写真をゆっくりと眺めていた。その彼女が、ふと目をあげてぼくに話しかけた。
「楽しい?」
「……え?」
「それ、楽しい?」
目で、ぼくの手元のノートを指した。ノートにはミミズののたくったような字で、づらづらと纏まりのない文章が続いていた。
「邪魔してゴメン。でもなんだか、とても苦しそうだったから」
「……そんなことないさ」
ぼくは嘘をついた。強がりでもあった。文章をつづることは、苦しい作業だった。少なくとも、ぼくにとってはそうだった。時々、本当にぼくは小説が好きなのだろうか、文章を書くことが好きなのだろうか、と自問することもあったくらいだ。
働いて、愛して、家族を養って。そういったごくありふれた幸せに対して、どこか斜に構えているだけなのではないか。思春期の、自分が特別な存在だ、他の人間とは違うのだ、という根拠のない恥ずかしい自惚れに、いまだに囚われているだけでないか、と疑ってもいた。
でも同時に、文章を書くことは読むことと合わせて、ほとんど唯一情熱のもてることでもあった。この世界に、自分自身を掛けるに値するものがたった一つあるとすれば、それは自分の生みだしたものだけ、つまり自分が書いたものだけ、そう頑なに言いきかせていた。だからぼくは、嘘をついた。
「楽しいよ。本当さ」
ふうん、と彼女は、気のない返事をした。それから、そんなに楽しいんだったら、わたしも書いてみようかな、と言ったのだった。
「ええっ?」
「おかしい?」とスウ。
そんなことないさ、と答えつつ、ぼくは内心で彼女を見下していたのだと、今ならばわかる。やれるものならやってみろ、と。
彼女の文学や小説についての知識は、ぼくの見立てからすればたいそうお粗末なもので、アウトプットするためにはインプットしなければならない、と意固地に思い込んでいたぼくには、おそろしく無謀な試みに映ったのだった。
その日から彼女は、本を読むのと並行して、ノートを開くようになった。
***
いちばん強い嫉妬は何だろうか。ねたみ、そねみは人の常、決して心から失くすことのできない感情ではないか。
残念ながら、人は生まれつき平等ではない。そして人生は公平でなく、社会は公正でもない。そんなこと分かりきっていても、人は他人と自分を比べずにはいられない。自分が求めて得られないものを手にした相手に対する、曰く言い難い胸のモヤモヤ。愛する人の愛を勝ち取った者に対する妬心。嫉妬の対象は財産、地位、名誉などさまざまで、人間の心には、虚栄心と承認欲求が渦巻いている。
ぼくにとって、もっとも強く大きい嫉妬は、才能についてのものだった。自分には到底書けない文章や物語を書き、それによって評価されていること。その者の立場というより、やはり書く才能そのものに対する強烈な憧憬が、そこにあった。
スウの綴った文章を初めて読んだとき、ぼくの心に芽生えたのはーー白状するならーー間違いなく、嫉妬だった。
その掌編は、幻想的というか、神話的な世界を舞台に、一組の男女の暮らしぶりを淡々と描いた、一筆書きのような物語だったが、語彙の選択から句読点の位置にいたる文章の的確さとリズムのよさ、ゆるぎない構成が一部の隙もなく完璧に思われた。なにより簡潔にもかかわらず、読み手の魂の奥底を揺さぶるような表現の力が、小賢しい理屈など寄せつけない圧倒的な迫力をもって迫ってくる。ぼくは、うちのめされた。
ローレル夫人にスウを紹介したのは、ぼくだ。そこには卑しい企図があった。ネットワーク上で知り合った、ぼくよりも数等すぐれた読み手である夫人の目利きによって、スウの小説が切り刻まれるのを心ひそかに望んでいた。ぼくは、ネットワークにスウの作品を載せた。しかし目論見はあっさりと覆され、作品は夫人らの絶賛を浴び、ぼくが決して呼ばれることのなかった、リアルなサロンへとスウを導いた。
そこから先、スウが蒸発するまでをぼくは、一気にしゃべりとおした。
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