第8話

神殿Ⅲ.

 

 それが起こったのは雨季に入って最初の大雨のときで、後々わたしたちをみまった一連の運命の鉄槌のはじまりの一撃だとは、当時はまだ知る由もなかった。羚羊れいようの月の廿日、干天を潤した久々の慈雨じうの翌朝に、神人じにんのひとりが〈大神殿〉前の、ヤン河の船着場で溺れ死んでいるのが見つかったのである。

 溺死体で打ち上げられた神人は、前々から素行に問題ありと思われていた壮年の男で、それが重大事を見過ごす理由になってしまったというのは、後理屈にすぎないのかもしれない。とまれ彼奴は呑んだくれであり、お湿りのあとの増水した河辺で足を滑らせたのだろうと、誰もが噂しあった。

 ただちに、欠員の補充が命ぜられたのは言うまでもない。神人は神殿における雑務、力仕事を担う下層職であるが、人数は厳しく制限されていた。終身であり、さらに、職を拝命する際に神殿で秘儀を受けねばならない。この場合の秘儀とは、生殖器に施される去勢術のことである。

 さて、神人を供給するのは、王の特権であった。大酒のみの神人の遺骸が引き取られたのと入れ替わりに、すぐさま新たな神人がやって来た。名をモロクといい、大柄なうえにひどい太鼓腹で、手足の短い、赤ん坊のような体つきの男であった。

 モロクの就任には、当然のごとくゼフィールがあたった。わたしはといえば、〈力〉を用いてゼフィールの眼差しと一体化し、この謁見に参加していた。〈しるし〉と呼ぶこの権能は、見えない紐のようなものでゼフィールとわたしを繋げ、彼女の視点の中に入り込むことができるようになるのだ。もちろん、妹の許しを得てのことである。

 ゼフィールが、面をあげよ、と厳かに宣した。

 片膝をついて畏まっていたモロクが、顔をあげた。すでに俯いていたときから、男の頭頂部にしがみついている和毛にこげがみえていた。よく日に焼けた顔は眉が濃く、鷲鼻だった。全体に男性的なつくりであるが、目元と口許に、そこはかとない愛嬌のようなものがなくもない。

「トレブの国人衆、モロク、と申します」

 モロクの声は、落ちついていてよく通った。

「王命にて誠心誠意、御身おんみにお仕えいたします。以後お見知りおきを」

 神人を供給する権限は王にあったが、選考は大巫女に一任されていた。すなわち拒否権がある。ゼフィールが、じっとモロクを値踏みしているのがわかった。同時にわたしも、モロクの心に耳をすませていた。そうして、その者の持つ波動を〈聞く〉。すると完璧とはいえないまでも、悪意や害意を大まかに察することができるのだった。目前の男からは、そうした邪まな気配は感じられなかった。

 ゼフィールの眼差しが、モロクの相貌から、猪首いくび、肉づきのいい腕にそそがれた。たくましい手に、指先だけがやけに細く伸びている。

なれ、先任はいかがしていた」

禁軍きんぐんに仕えておりました」

 ゼフィールの柳眉が、もちあがったのを感じた。禁軍は王を護衛する近衛兵で、マナン将軍の麾下きかである。

「そなたの指は、武人のものとは違うようだが」

 不審を滲ませ、ゼフィールが問いただす。するどい観察眼だ。

「恐れながら申し上げます。私奴わたくしめは楽師にございます。この指は、キタラを弾くためのものでございます」

 禁軍は、民衆を前にした国家祭祀の際に、王の周囲に侍る。儀礼によっては歌舞音曲を伴うため、禁軍の兵が楽器を弾くことはよくあるのであった。

「ほう、キタラとな」

 なおもじっと見つめたのち、ではひと調べ、奏でてみよ、と命じた。

「しかし……」

 困惑顔でモロクが、周囲を見回す。謁見の間は戸外の音をいれず、じゃくとしている。

「かまわぬ。それともできぬと申すか」

 たちまち神人頭じにんがしらが、古びたキタラを持ってやって来た。されば、とモロクはキタラを膝に乗せ、ひと息ついたのち、静かに爪弾きだした。

 それは物悲しい風情の、耳慣れない異国の調べであった。モロクの指が、信じられないほど巧みにげんの上を移動すると、そのたびごとに、一音一音が粒だったような、妙なる響きが奏でられるのであった。

 やがて腫れぼったい唇から、歌が漏れ出した。それは、むさ苦しい見た目からは想像もつかないような、明澄めいちょうにして心を洗われる、うっとりするような美声であった。部屋の中に、ほろほろと花びらのふりしきる春の園を出現させると、和絃をかき鳴らして、モロクは曲を仕舞にした。

 ほう、とため息をもらした周りの者と同様に、ゼフィールが心を奪われているのが、わたしにはわかった。なぜなら、わたしもまた、かの者の歌声に魅せられていたからだ。

 

 わたしが、モロクの身元を歩き巫女に照会させたのは、言うまでもない。これは特別の理由があったからではなく、通常の手順であった。

 その第一信によれば、禁軍の軍楽隊に所属していたというモロクの申告に、間違いはなかった。入隊は二年前の象の年のことで、流れ者の常として、波止場にある〈自由の家〉ーーつまり雇い場でーー酒場の弾き手の仕事を得た。雇われたのが駐屯地近くの店であったことから、兵士に見染められ軍楽隊に推挙されたという。一連の経緯に不審な箇所はなく、生国しょうごくで発行された紹介状も真正のものとのことだった。

 しかし猜疑心が強く、自身が陰謀家でもあるわたしは、それで追及の手をゆるめはしなかった。はじめの巫女をねぎらうと、代わりに選び抜いた手練れの歩き巫女ムリエラに、さらなる調べを行なわせた。

 ムリエラにもわたしは、〈徴〉をつけていた。

 ムリエラはまず、軍楽師のたむろする〈鯰亭〉に酌婦として潜り込んだ。どのような場にも一員として馴染んでしまうムリエラの業には、毎度驚嘆である。非番ですっかり気がゆるんでいる男たちに、さもいま気づいたように話しかける。

「あれ、おあ兄さん、もうひと方、明るい、とても立派な体格の方がいらしゃいませんでしたかね。キタラの達者な」

 酒席でのモロクの様子は、すでに聞き取り済みである。

「おう、モロクのことか」

 痩せぎすで総髪の喇叭らっぱ吹きが、答えた。

「なんだ、奴が目当てだったのか」

「うふふ、まあ、妬いてるのかい」

 喇叭らっぱ吹きにしなだれかかりながら、ムリエラは酒を注ぎ足す。

「奴は出世したのよ」

 赤ら顔の小太鼓こだいこ叩きが、いう。

「あれを出世というのか。アソコをちょん切られるのだぞ」

 ゲハハ、と銅鑼どら叩きの粗野な笑いがあがる。

「なになに、なんか怖いじゃないか。悪いことでもしたのかい、あの方は」

「なんでえ、なんでえ、本気であの下ぶくれがお目当てだったのかい」

 喇叭らっぱ吹きが、むくれた。

「なんのなんの、奴はなかなかの男振りであった。おなごに心寄せられるのも、宜なるかなであろう」

 割って入ったのは、軍楽隊の隊長である。

「顔は不細工であったがの」

 喇叭らっぱ吹きが、半畳をいれる。

「わしが言っておるのは心根のことじゃ」隊長が言いつのる。「奴はまっこと気持ちの良い男であった。ーーわしのようにな」

 あからさまに何人かが、鼻を鳴らして不同意を示す。

「喧しい」

 隊長が皆を睨みつける。

「む、む。ともかく、モロクを悪くいう者は、わしらのなかにはおらんじゃろうな。それにあの声! まっこと天は二物を与えずじゃ。あの才が辛気臭い神殿に埋もれるのは、まっこと惜しい。まっこと、まっこと……」

 隊長が泣き上戸なのは織り込み済みであったが、何であれ隊の者がモロクを惜しんでいるのは間違いないようであった。

 この報告ののち、わたしはムリエラの探索を仕舞にさせたのだが、それがごく甘い見通しだったのは、のちの経緯が示している。思えば、すでにわたしの眼は、曇りはじめていたのかもしれなかった。

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