第8話
神殿Ⅲ.
それが起こったのは雨季に入って最初の大雨のときで、後々わたしたちをみまった一連の運命の鉄槌のはじまりの一撃だとは、当時はまだ知る由もなかった。
溺死体で打ち上げられた神人は、前々から素行に問題ありと思われていた壮年の男で、それが重大事を見過ごす理由になってしまったというのは、後理屈にすぎないのかもしれない。とまれ彼奴は呑んだくれであり、お湿りのあとの増水した河辺で足を滑らせたのだろうと、誰もが噂しあった。
ただちに、欠員の補充が命ぜられたのは言うまでもない。神人は神殿における雑務、力仕事を担う下層職であるが、人数は厳しく制限されていた。終身であり、さらに、職を拝命する際に神殿で秘儀を受けねばならない。この場合の秘儀とは、生殖器に施される去勢術のことである。
さて、神人を供給するのは、王の特権であった。大酒のみの神人の遺骸が引き取られたのと入れ替わりに、すぐさま新たな神人がやって来た。名をモロクといい、大柄なうえにひどい太鼓腹で、手足の短い、赤ん坊のような体つきの男であった。
モロクの就任には、当然のごとくゼフィールがあたった。わたしはといえば、〈力〉を用いてゼフィールの眼差しと一体化し、この謁見に参加していた。〈
ゼフィールが、面をあげよ、と厳かに宣した。
片膝をついて畏まっていたモロクが、顔をあげた。すでに俯いていたときから、男の頭頂部にしがみついている
「トレブの国人衆、モロク、と申します」
モロクの声は、落ちついていてよく通った。
「王命にて誠心誠意、
神人を供給する権限は王にあったが、選考は大巫女に一任されていた。すなわち拒否権がある。ゼフィールが、じっとモロクを値踏みしているのがわかった。同時にわたしも、モロクの心に耳をすませていた。そうして、その者の持つ波動を〈聞く〉。すると完璧とはいえないまでも、悪意や害意を大まかに察することができるのだった。目前の男からは、そうした邪まな気配は感じられなかった。
ゼフィールの眼差しが、モロクの相貌から、
「
「
ゼフィールの柳眉が、もちあがったのを感じた。禁軍は王を護衛する近衛兵で、マナン将軍の
「そなたの指は、武人のものとは違うようだが」
不審を滲ませ、ゼフィールが問いただす。するどい観察眼だ。
「恐れながら申し上げます。
禁軍は、民衆を前にした国家祭祀の際に、王の周囲に侍る。儀礼によっては歌舞音曲を伴うため、禁軍の兵が楽器を弾くことはよくあるのであった。
「ほう、キタラとな」
なおもじっと見つめたのち、ではひと調べ、奏でてみよ、と命じた。
「しかし……」
困惑顔でモロクが、周囲を見回す。謁見の間は戸外の音をいれず、
「かまわぬ。それともできぬと申すか」
たちまち
それは物悲しい風情の、耳慣れない異国の調べであった。モロクの指が、信じられないほど巧みに
やがて腫れぼったい唇から、歌が漏れ出した。それは、むさ苦しい見た目からは想像もつかないような、
ほう、とため息をもらした周りの者と同様に、ゼフィールが心を奪われているのが、わたしにはわかった。なぜなら、わたしもまた、かの者の歌声に魅せられていたからだ。
*
わたしが、モロクの身元を歩き巫女に照会させたのは、言うまでもない。これは特別の理由があったからではなく、通常の手順であった。
その第一信によれば、禁軍の軍楽隊に所属していたというモロクの申告に、間違いはなかった。入隊は二年前の象の年のことで、流れ者の常として、波止場にある〈自由の家〉ーーつまり雇い場でーー酒場の弾き手の仕事を得た。雇われたのが駐屯地近くの店であったことから、兵士に見染められ軍楽隊に推挙されたという。一連の経緯に不審な箇所はなく、
しかし猜疑心が強く、自身が陰謀家でもあるわたしは、それで追及の手をゆるめはしなかった。はじめの巫女をねぎらうと、代わりに選び抜いた手練れの歩き巫女ムリエラに、さらなる調べを行なわせた。
ムリエラにもわたしは、〈徴〉をつけていた。
ムリエラはまず、軍楽師のたむろする〈鯰亭〉に酌婦として潜り込んだ。どのような場にも一員として馴染んでしまうムリエラの業には、毎度驚嘆である。非番ですっかり気がゆるんでいる男たちに、さもいま気づいたように話しかける。
「あれ、おあ兄さん、もうひと方、明るい、とても立派な体格の方がいらしゃいませんでしたかね。キタラの達者な」
酒席でのモロクの様子は、すでに聞き取り済みである。
「おう、モロクのことか」
痩せぎすで総髪の
「なんだ、奴が目当てだったのか」
「うふふ、まあ、妬いてるのかい」
「奴は出世したのよ」
赤ら顔の
「あれを出世というのか。アソコをちょん切られるのだぞ」
ゲハハ、と
「なになに、なんか怖いじゃないか。悪いことでもしたのかい、あの方は」
「なんでえ、なんでえ、本気であの下ぶくれがお目当てだったのかい」
「なんのなんの、奴はなかなかの男振りであった。おなごに心寄せられるのも、宜なるかなであろう」
割って入ったのは、軍楽隊の隊長である。
「顔は不細工であったがの」
「わしが言っておるのは心根のことじゃ」隊長が言いつのる。「奴はまっこと気持ちの良い男であった。ーーわしのようにな」
あからさまに何人かが、鼻を鳴らして不同意を示す。
「喧しい」
隊長が皆を睨みつける。
「む、む。ともかく、モロクを悪くいう者は、わしらのなかにはおらんじゃろうな。それにあの声! まっこと天は二物を与えずじゃ。あの才が辛気臭い神殿に埋もれるのは、まっこと惜しい。まっこと、まっこと……」
隊長が泣き上戸なのは織り込み済みであったが、何であれ隊の者がモロクを惜しんでいるのは間違いないようであった。
この報告ののち、わたしはムリエラの探索を仕舞にさせたのだが、それがごく甘い見通しだったのは、のちの経緯が示している。思えば、すでにわたしの眼は、曇りはじめていたのかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます