第28話
螺旋【
奇妙に甲高い、
吊革につかまっていた乗客たちが、勢いを殺しきれずに、いっせいに傾いた。隣の紳士の肩がリナの肩に触れ、リナもまた、板張りの床にしゃがみ込んだ少女に躓いた。
車輛は、咳き込むように断続的に震え、止まった。
横倒しになった乗客たちで、車内は惨憺たる有様だった。分厚い
「やあ、これは失敬した」
リナの上から退いた立派な口髭の紳士が、帽子をあげて謝罪してきた。それにうなずきながら、リナはリナで、赤い
車内のそこここで、お互いを気遣うやり取りが交わされていた。それもこれも、時局のせいだと皆が分かっていたからだ。
外では
それに思い至って、乗客たちは不安そうに顔を見合わせた。機敏な者は、さっさと立ち上がり、車外に出ようとしている。
気がつくと、少女がリナの顔をじっと見つめていた。
(ーーまずいな)
とっさにリナは、少女から顔をそらした。子どもは、時として大人など及びもつかないような洞察を示すことがある。今まで、周囲の人間にリナの正体がバレたことはなかった。洗いざらしのブラウスに、簡素な濃紺のロングスカートのリナは、せいぜいが背伸びした町工場の事務員にしか映るまい。が、少女の眼差しは、明らかにリナに異質なものを感じ取っているようだった。
ーー普通の人間とは違う何かを。
立ちあがって乗降口をめざす。
リナは、そそくさと、路面電車の車輛から離れた。緑色のずんぐりした形の車輛は、〈
夕暮れの街は、残照によって、色褪せた橙に染めあげられていた。まるで、
そこは、ちょうど二つの幹線路の交わる交差点の辺りで、道路には何本もの路面電車の軌道が輻輳していた。
周囲は騒然とした雰囲気につつまれており、夕方の用事をすませようとしていた人々は、みなそれを投げ出して、足早に近くの一時避難シェルターへと急いでいる。人力車の車夫ですら、車を置いて駆け込もうとしていた。
とーー。
薄墨色の東の空から、
【大至急! 大至急! 大至急!】
【聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな!】
【帝国憲法修正第十二条は完全なる権利の凍結を命じます!】
どこからともなく、カーキ色の軍服に黒襟章の
その憲兵のいかめしい
顔をそむける。
歩速が上がる。
心臓がドキドキする。
少女の顔のあった車窓の右下、車体側面に打ちつけてあったひときわ目立つプレートが脳裏にちらつく。そこに書かれている文言を、リナは暗記していた。
《犬と異族おことわり》
路面電車には、基本に人族しか乗車できない規則だ。というより、異族が使える公共交通機関自体が、限られているというべきだろうか。
ギクシャクとした、
今日リナは、
いっさい後ろを振り返らずに、飛び込んだ。ひとけのない方、静かな方へと向かった。幾筋もの路地をまたぎ、旧い煉瓦造りのビルヂングの隙間をぬうように進んでいく。
石造りの護岸に手をついて、動悸が静まるのを待った。ゴクリと唾を呑み込んだ。工場群の煙突が、いがらっぽい煤煙を吐き出していた。
低い護岸越しにのぞく川の水は、黄褐色によどんでいて、ほとんど流れているように思えない。平底の動力船が、滑るように上下していた。
「なあ、あんた」
ふいに間近から声がかかって、飛び上がりそうになった。左手の煉瓦塀の足下にうずくまっていた影が、のそり、と立ち上がった。先ほどの
それはボサボサの髪をした、ひどい臭いのする
「もう、十日も食ってないんだ……」
男の声はしわがれ、弱々しかった。深刻な食糧難が叫ばれて久しく、登録している住民にすら配給は滞りがちだった。汚れた軍服姿から察するに、おそらく男はーーよく見るとそれほどの年寄りでもないーー復員してきたものの、家が焼かれて帰るところがないのだろう。
「なあ……」
差し出された指が真っ黒で、あちこち欠けているのも痛々しい。手提げ鞄からチョコレート一欠けを取り出し、なけなしのそれを男に渡した。男はチョコレートを引ったくると、礼を述べる間も惜しんで、むさぼる。男の眼差しに、ようやっと人らしい光が戻ったそのとき、ぶうううううううん……という羽唸りが頭上から舞い降りてきた。
【存在理由の提示! 存在理由の提示!】
【ガ……ガガッ……不等辺三角形は、不当な参加、矩形と看做されます……】
運河に沿って下ってきた
ひいいいいいいっ、と
リナも急いで、走り出した。ただし男とは反対方向に。
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