第27話

神殿Ⅸ.

 

 大巫女であるわたしを含め、地下迷宮の奥底に〈何〉があるのか、本当のところを知る者はいない。そのことを、まざまざと思い知らされていた。

 わたしはいま、〈ルナルの丘〉の地下深くに潜んでいた。正しくは、閉じ込められている、と言うべきであろうが。

 

 アグラーヤ帝国の侵攻は、考えていたよりもずっと神速であった。わたしたちの、いや、わたしの見立ては、かなり甘かったと言わざるを得なかった。

 マナンの死が王宮に伝えられた翌日には、早くもヤン河流域は、混沌の渦に突き落とされていた。帝国と密かに通じていた幾つかの都市国家が、隣国や同盟国や友好国に、予告無しに一斉に襲いかかったのである。

 この時点で、流域諸国のうち、実に四分の一にあたる都市国家が、アグラーヤの〈獅子の旗〉の下に集っていることが明らかになった。機を見るに敏な国は、周章てて帝国に恭順の意を示したが、時すでに遅し。泰平のうちに胡座をかいていたヤン河流域は、ひとたまりもなく崩壊していった。

 アグラーヤに従っていない国々の内部にも、敵の手は深く深く、浸透していた。それらの勢力もまた一斉に鬨の声を上げた。あらゆる国で、あらゆる階層の人びとが、干戈かんかを交えることとなった。王族は信頼していた臣下に弑逆しいぎゃくされ、神官たちは一般信徒に邸をうち壊され、大商人は奴婢に追われ財産を抱えて逃げ出した。民草は守ってくれるはずの軍に襲われ、虐殺されるか、ことごとく奴隷に落とされた。

 都市国家から独立した勢力である〈ルナルの丘〉も当然、無縁ではいられなかった。いや、独自の軍事力を持たぬこと、にもかかわらず至上の権威を保持していたことが、格好の標的となったと言える。聖なる巫女を崇めぬ者どもにとってそこは、ただの埃まみれの古い伽藍にすぎなかった。〈ルナルの丘〉は瞬く間に、三都市からなる反逆者どもの連合軍と、やおら姿を現したアグラーヤ正規軍にとり囲まれた。

 わたしは神殿正面に人びとを集めると、ゼフィールの彫像を表に立てて、傀儡の口から聴衆に語りかけさせた。大勢の神殿娼婦や神人、あるいは門前町の人びとに投降や逃散ちょうさんを促したのである。決して命を無駄にしてはならない、と言い聞かせたのだった。

 それが正しいことだったのかは、今もってわからない。中には最後まで抵抗することを主張する者もいた。確かに直ちには殺されなくても、奴隷や隷属民に落とされれば、どんな苦痛、苦難、屈辱が待っているか知れたものではない。それはその通りだった。だが、兵士ならばともかく、ふつうの民びとにあたら助かる命を捨てさせることは、わたしには、どうしてもできなかった。その覚悟がなかった。

 彼らを残らず神域外へ出すと、わたしは数日分の食糧を麻袋に詰め、木偶の手を引いて隠し通路に入った。そして、覚悟を決め地下迷宮へと踏み入ったのだった。

 

 むろん、わたしの後(というよりゼフィール像の後)を、大勢の兵が追いすがった。裏切り者の流域国家の兵たちは、断固として地下迷宮に赴くことを拒否したようだが、帝国兵どもは意に介さなかった。

 だがしかし、だれ一人として、わたしについてこられる者はいなかった。

 途中までの隠し通路はともかく、地下迷宮では、灯りを点すことが禁じられている。それを、信心ゆえと思いなしてもらっては困る。事実として、灯りが使えないのだ。たとえ、壺にいっぱいの油を注いで持ち込んだとしても、いつの間にか灯りは消えてしまうだろう。何者かがーーつまりは地下迷宮の主たる〈名付けえぬ神〉がーーそれを許さないのだ。彼あるいは彼らは、日の光を嫌い、闇を好む。ましてや、人の手が作り出した光などもってのほかであった。

 わたしは、無明の暗闇を進んだ。最奥部にたどり着くことができたのは、母のおかげである。内部は文字通りの迷宮で入り組んでおり、しかも明白な地図など作られてはいなかった。そんな中をわたしは、先代の大巫女である母に教え込まれた口伝を反芻しながら、歩いていったのだった。

 最奥部に至るまでには、地獄の底まで続いているような深い亀裂や、いずこからか押し寄せる血も凍るおぞましい咆哮のもとを、通りすぎねばならない。また、手順を知る者しか開けることの出来ない抜け道も途中にある。何人死んでもかまわず、しらみ潰しに探索するというなら別であろうが、敵がここまでやって来ることは、かなりの難事であろう。

 だが迷宮の真の恐ろしさは、斯様な身体的な、ある意味わかりやすい物理的な危機にあるのではなかった。むしろ、それ以外の脅威のほうが兵どもを怯ませた。

 というのも、喚声とともに攻め入った兵たちは、わたしを探索する間もあらばこそ、ことごとく不調を訴えたのだった。わたしですら、足が鉛のように重くなり、一歩前進するごとに苦悶のため息をつく羽目になるのだ。他の者は、それ以上であったろう。

 兵のうち、ある者は悪寒に震え、ある者は圧迫する見えない力を感じ倒れ伏した。歴戦の勇士が「ああ、いる。やっぱり、いる!」と叫ぶなり逃げ出し、中にはその場で発狂する男もいた。ゆえにさすがの帝国軍も、地下迷宮を蹂躙しかねたのだった。

 潜伏中にわたしは、何度かゼフィールの行方を探ろうと四苦八苦したが、うまくはいかなかった。もはや頼れるものは〈徵〉をつけた動物しかないかったが、動乱の中、それらも四散し、わたしの〈呼びかけ〉にも反応しなかった。じわり、とわたしの裡で絶望が拡がった。

 そうして、数日のあいだ息を殺して潜伏したわたしは、ある日決意して、迷宮を引き返してみることにした。もちろん、慎重に侵入者の気配を探りながらだったのは言うまでもない。

 彼奴らが諦めて退散したのならば、首尾よく〈丘〉を脱出できるかもしれない、とわたしはまだ高を括っていたのだと思う。外へ出たなら、ふたたび木偶をゼフィールの身代わりに立てて、民びとや諸国を糾合する。ヤン河流域を、わたしたちの手に取り戻すのだーー。

 これといった妨害もなく、隠し通路の入り口にまで戻ることができた。が、神殿へ抜ける扉は、押せども引けども、びくともしなかった。

 おそらく、重石おもしなりを持ち込んで、扉を塞いだのであろう、とわたしは見当をつけた。畏れ多くも彼奴らは、太古より格別の敬意を表されてきた地下迷宮に、封印をほどこしたのだ。

 わたしは、北叟笑ほくそえんで、すぐさまとって返した。この程度の事態で、動揺するわたしではない。地下迷宮には、外へと抜ける余人の知らぬ出入り口がまだ数ヶ所あり、その中には〈ルナルの丘〉の麓に通じている通路もあった。

 だが、ここでもわたしの見通しは、たいそう甘かった。大巫女として生きてきたわたしは、無意識のうちに敬意を払われることに馴れてしまっていた。神殿や、まして地下迷宮が不可侵であることを前提に考えてしまい、帝国が〈ルナルの丘〉にひと欠片の価値も見出だしていないことから、目を反らしてしまっていた。

 迷宮の一角にあるその出入り口でわたしは、隠し扉を開く操作をしたが、仕掛けは動かなかった。がっかりはしたが、重くはとらえなかった。これらの仕掛けには、かなりの時をけみしたものがあり、仕掛けが故障していたとしても不思議はない。わたしはその場所をさっさと放棄し、別の出入り口を目指した。

 しかしーー。

 やはりそこも扉は開かなかった。遅まきながら、胸裏に焦りが芽生えてきた。

 次の口も、そのまた次の口も。

 案の定、仕掛けはいっかな動かなかった。

 わたしは狭隘な通路に寄りかかって、己れの肩を抱いた。

 頭の中に、恐ろしい推測が浮上していた。

 アグラーヤは、優れた建築土木技術を持った帝国だった。彼の国では、膠灰こうかいなど強力な結合剤に砂や砂利を混ぜて固めた建築資材を使用しているという。

 全身から力が抜けて、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。

 何をされたのかが、わかった。

 彼奴らは、大がかりで罰当たりな乱暴狼藉を〈ルナルの丘〉にはたらいたのだ。すなわち、〈ルナルの丘〉の地面全体にその資材を敷いて、丘のすべてを固めてしまった。

 わたしは生きながらにして、この地下に埋葬されたのだ。

 

 わたしはすごすごと、地下迷宮の最奥部に引き返し、暗闇でさらに幾日かを過ごした。もっとも、鼻をつままれてもわからないような世界では、時間の流れはいびつで、実際にどれだけの時が過ぎたのか確証はもてなかった。

 最奥部は、高い天井を持ついわやである。高さだけで言えば、地上の〈大巫女の館〉がすっぽり収まるほどある。いわやの端に、地下水が滴り出ている箇所があって、飲み水だけは確保できたが、持ち込んだ食糧はすでに尽きてしまっていた。そして、二度と外へ出ることはかなわない。

 もとより、敵の手が及ばなくても最奥部が安全な場所ということにはならなかった。大巫女にとってもそこは、油断のならない場所に他ならない。

 一番恐ろしいのは、飢えや渇きではなかった。

 絶え間ない地震の揺れのように、頭の中に始終語りかけてくる〈囁き〉が、体力の落ちたわたしの心を蝕みはじめた。彼あるいは彼らは、気づいている。半覚醒の状態でぼんやりとだろうが、彼らの安眠を侵している異質な存在を認識している。そして、半ば無意識にその存在を憎悪している。

 憎悪の対象は、地上を覆っている人工物だけではない。たとえそれが彼らを崇める人間ーーつまりわたしーーであったとしても、〈異物〉であることに変わりはなく、眠りを妨げる〈異物〉を彼らが赦すはずはない。〈名付けえぬ神〉が真実どのような存在であるのか、だれも知りはしない。飢餓を待つまでもなくわたしは、彼らに狂い死にさせられるだろう。ここがわたしの墓所となるべき終の棲家なのは、もはや疑い得なかった。

 

 たとえ死すべき運命であったとしても、何も手をつかねているのは性にあわない。どのみち、死ぬのは一度だけなのだ。やれるだけのことはやってから死にたかった。

 北の壁に巨大な磐座いわくらがあって、そこがいわやの中でも、特に恐ろしい気配の濃厚な一帯であった。そちらを向くだけで、身体中の血が震え、骨が響いた。その磐座いわくらが地下迷宮の本体、〈神の座〉であると思われた。

 これまで目も向けないように避けていたその場所で、わたしはひとつの思いつきを実行することにした。

 磐座いわくらに向かって居ずまいを正し、胸の内でかつて〈徴〉をつけた動物を呼び出した。この場所が〈神の座〉であるのならば、わたしはつねよりも、神に近い位置にはべっていることになる。そんな場所では、神威力もまたいつもよりも強い影響を及ぼすのではないだろうか、わたしはそう推測していた。そしてそれは正しかったことが、すぐに証明された。

 捕まえたのは、猛禽であった。彼の者は、〈ルナルの丘〉から北に離れた上空を、のんびりと飛翔していた。神威力の増したわたしの〈呼びかけ〉は、丘から遠い猛禽をも確実に捉えたのだ。

 わたしの〈意識〉に捕まえられたとき猛禽は、はじめ酷く抵抗した。彼の者の原始的な意識が、わたしを外へ弾き出そうとする苦闘が、ひしひしと伝わってきた。それは、これまで彼の者に感じたことのない、強烈な違和感であった。

 だがわたしは、その抵抗を力ずくで押さえつけた。わたしも必死だったのだ。無理やり〈意識〉をじ込み、猛禽の体を奪った。そして舟の舵を取るように猛禽を操り、針路を東南へとった。

 

 二人の痕跡を発見できたのは、本当に僥倖だった。わたしの求めに応じて猛禽は、猛烈に宙を翔った。まず〈ルナルの丘〉まで南下し、そこから素晴らしい速度で東進した。わずか一日で、それを見つけたのだった。

 東を目指したのには、理由がある。

 ヤン河流域の北は、アグラーヤと激しく対立するアスカランテの版図であり、そちらにアグラーヤの間諜であるモロクが向かうとは、思われなかった。西には、オアシスの一つとてない、果てしない砂漠が広がるばかりである。南は、戦で大混乱していた。ある程度安全に逃げようと思うならば、取るべき針路は東しかない。

 わたしの読みは中った。猛禽の鋭い視野は、砂漠で目立つ砂ぼこりを捉えたのだった。砂ぼこりの源は、巨大な爬虫類ーーアスカランテの騎獣である。モロクが、馴らしていた騎獣を駆って逃避行に使用したのに間違いなかった。

 ただし、爬虫類の背にはいま、何者も乗っていなかった。モロクたちはすでに、騎獣とはぐれてしまったようだ。それでも追うべき方角がわかっただけでも果報である。

 だが同時に、その方角の先にひかえているものが、わたしを怯ませたのも事実であった。東方の、砂漠を越えた先にそびえているもの、それは、口にするのも憚られる、忌まわしき古代山脈なのであった。

 

 古代山脈のいわれは、遥かな太古むかしに遡り、もはやこの時代に正確なところは伝わっていなかった。かつて神々の領域であったその場所には、当世では姿かたちも忘れられた古き種族が住まいしていたという。

 神々と交感する術を識っていたその種族は、神威力を自在に引き出すことで周囲の諸民族を圧倒し、栄耀栄華を欲しいままにしていた。だが、自らを地上の支配者と思いなす傲り高ぶりが、神々の忌諱ききに触れた。ついには恐ろしい神罰を下されたのだった。

 その結果、彼らの都のあった場所や広大な版図は、大地も大気も川もすべてが汚染された。動物はおろか、草木や蟲螻蛄むしけらに至るあらゆる生き物すら死に絶えた。そして誰ひとりとして足を踏み入れることのない、渺漠びょうばくたる曠野こうやとなったのだった。

 当然のこととてモロクは、古代山脈に向かうつもりなどなかったはずである。どこかあらかじめ決められた場所で、友軍と合流する腹づもりであったろう。

 だが侵攻直後のヤン河流域は、予想以上に混乱しきっていた。思いのほか激烈な騒乱によって、かなりの広範囲に、しかも危険な状況が生まれていたのである。

 騎獣を乗り捨てざるを得なかったのは、目立ちすぎるからだと思われる。しかし足を捨て、争いを避けて迂回するうちに、古代山脈の山中に迷い込んでしまったのだろう。かの忌まわしき土地の、特異な磁場に絡め取られてしまったといえる。かの地は、魔所であった。これまで数多くの隊商や軍勢、あるいは鳥獣の類いですら、似たような目に遭ってきていた。

 だがわたしは、二人を完全に捕捉できないまま、いったん追跡を中断せねばならなくなった。猛禽がふいに墜落し、そのまま息絶えてしまったからである。

 思い起こせば、わたしが〈意識〉を乗っ取ったときすでに、猛禽は何かしらの病に罹っていたのだと思う。はじめに感じた違和感の正体が、それだった。だが追跡にばかり気をとられていたわたしは、宿主のことなどお構い無しに、酷使してしまった。惨い仕打ちを悔やんでも、命は戻ってこない。

 

 〈徴〉を付けたもうひとつの動物である砂漠狼をわたしの意識が捉えたのは、二日後のことである。この間わたしは、暗闇で水しか口にしておらず、急速に衰弱していった。手間取った要因は、そこにあったやもしれない。集中力が続かず、意識が朦朧となる瞬間が生まれていた。

 何であれわたしは、猛禽の失敗を活かさずにはおれなかった。時おり砂漠狼への〈縛り〉を緩め、気ままに捕食させたり、休ませたりした。そして調子が万全になるのを確認してまた、追跡に当たらせた。

 坂道を転がるように弱る身体と闘うこと三日。夜のことであった。砂漠狼が、古代山脈の山中をさ迷う二人をついに見つけた。

 そこでわたしは、悲劇の目撃者となった。

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