第40話

螺旋【れい

 手記だ。まことに遺憾ながら。

 

 世間の無知蒙昧な奴ばらはサンテツ・フリヤギを鬼神学デモノロジイの権威などと呼んでいたが、此は端的に云って間違いである。大間違いのコンコンチキである。吾は鬼神学デモノロジイだけでなく、百学を修めた万能の博士ドクトル・ウニウエルサリスである。世を震撼させたの異端的な大冊『迷宮の神』及び『四月・三月』『秘密の鏡』を一度でもひもといた者ならばそれが、鬼神学デモノロジイなどという狭い領域に留まらない、森羅万象を相手に大宇宙の神秘を解き明かした絶対無二の書物と解するであろう。

 しかしながら、浮世と隔絶した天才の多くがそうであるように、もまた孤高であって、正当な評価を得ているとは云い難い。現に今、困窮の極みにあって、この小さな黒革の手帳に、ちびた鉛筆で、おそらくは人生最後の文章をしたためている。まっこと人類の損失である。

 

 顧みればが一統は、やんごとなき代々の、悪魔憑きの血脈ちすじであった。

 父母もそのまた父母も、古えより連綿と続く漂泊民の出身で、山野を廻り、国境を跨いで暮らしてきた。国籍を持たず、あらゆる領域国家の庇護をうけられぬ代わりに、通行税以外の徴収を免れたものだ、と父はわらっていた。里や都邑まちの者たちは、父祖らを畏れ、忌み嫌い、迫害しながらも、父祖らの供する伎芸などの娯楽や、医術の知識、聞いたこともない異国とつくにの風聞を楽しんできたのだという。

 さて、漂泊民の中でもが父母の縁者は、表向きの活計たつきとは別の顔、隠された生業なりわいを持っており、それが先に触れた高貴な血筋に纏わるものであった。すなわち悪魔憑きである。

 この血統の者が行うまじないは、悪魔の力を借りて成されるものとされ、定住民のみならず同族の中からも、一目置かれていたのだった。尤も大方はよくあるインチキ占いや、目眩ましの類いであったろうと推察する。かててくわえて、無知蒙昧なる民びとの偏見は凄まじく、常にまして迫害の度合いも甚だしかった。つまり悪魔憑きを名乗る利点など、実際上はなかったのである。にも拘らず、と云うか、不幸中の幸い、と云うかは分からないが、確かなことが一つあって、それは、が母の持つ千里眼の力は、正真正銘、本物であったということであ×××(このあと数枚の手稿が脱落している。)

 

 ×××こうして、母の千里眼でようよう、世に云う〈ギュイエの虐殺〉の難を逃れたたち親子は、落ち延びた先でなんとか屋根のある居場所を確保することができたのだった。その山麓のあばら家は、真後ろにすぐ懸崖けんがいが迫っていて、雨の多い土地柄を鑑みれば山崩れの恐れのある危険極まりない位置にあったが、贅沢は云っていられなかった。一つよいこともあって、それは水が潤沢なことであった。真後ろの崖に、子どもが屈まないで入って行ける位の横孔が、水平方向に深く穿たれていた。所謂、横井戸というやつである。水を透さない地層から漏れ伝ってきた地下水を横孔の奥深くに溜めて、そこから側溝を伝って手前に流し、入り口付近に掘った四角い窪みに張るのだ。通常はその水溜で水を汲んだり、野菜を洗ったりする。また、地下水路のように崖の奥に伸びた孔は、気温の変化が少ないので、貯蔵庫として利用されていた。

 五つか六つの頃だったと思う。夏のある日、水汲みにやらされたは、木桶いっぱいに汲んだあと、辺りを見回してから横孔の内部に入り込んだ。

 横孔は、暑い外気を内に入れず、ひんやりとしていた。は手掘りの跡の残る壁に背中を預け、水際にしゃがみこんだ。そして、大人の身幅ほどの側溝に流れる澄んだ水面に、しばし見いった。それから常のように目を閉じ、物思いに耽りだした。それはお馴染みの空想だった。

 清水を掻き分けて、見目麗しい人魚が現れる。真珠色の髪と、螺鈿の輝きを宿した瞳の彼女が、水底に広がる大宮殿へと誘ってくれるーー。

 むろんそれが、他愛のない夢想なのは承知の上だった。そもそも横孔は数フィート先で行き止まり、其処にあるのは地下水がじくじくと滲み出す陰気な岩壁でしかなかった。しかし入り口から覗き込むと、横孔の奥は暗闇に溶け、異界への入り口としていかにも相応しいように思えた。も幼き時分は、凡庸な男児おのこであった。貧しく、ひもじく、辛い日々を、そのようにして慰めていたのだった。

 ボチャン、という水音が耳朶を打ったのは、脳髄の中でたおやかな乙女が顔貌かんばせをのぞかせたときだった。水滴が落ちたのとは違う、明らかに重たい何かが水面を乱した音がして、目を開けると、側溝の水は波紋で揺れ、小波が打ち寄せられた際が、泡立つほどの衝撃だった。

 石でも剥がれ落ちたのだろうか、と崖崩れを警戒し、慌てて立ち上がりかけたそのとき、信じられないものを目にした。横孔の奥から、何かがゆっくりと流れてきたのだった。

 奇っ怪な物体であった。

 薄いピンクに色づいたそれは、市場に吊るされている、羽をむしられた鶏に似ていなくもなかった。が、よくみればずっと奇怪なモノである。前肢は短く、ほとんど有って無きが如くだった。後ろ足はねじくれ、植物の根に見える。頭にあたる場所は肉に埋もれて、目も鼻も口も分かれていないように思えた。

 無気味極まりない、おぞましき姿のそれに、しかし何故かは、魅入られたように手を伸ばしていた。そして、産まれたての仔猫ほどの大きさのそれを掬い上げたのだった。

 民族の伝承を、一統の語り部でもあった亡き祖母に聞かされて育ったは、斯様なモノに覚えがあった。

 それは、あわれな水蛭子ひるこであった。

 

 裏山の、荒れ果て打ち捨てられた堂宇どううでこっそりと餌付けしていた、木之子ピルツと名付けた、あの生き物を見られてしまったのは、まったく不注意だったが、その相手が、常日頃、を虐め苛んでいた悪童どもでなく、と同様、いやそれ以上に標的にされていたグラウフであったのは不幸中の幸いであった。少なくともそのときはそう思った。

 グラウフは異族であった。小人族である。当時すでに、異族は受難の時期に差し掛かりつつあった。シドッチ博士が、かの石の性質を発見したのは、わずか十年程前であった。

 元来、彼らはヒトより遥か以前から地上に住まっていた先住者であったが、残忍で繁殖力旺盛なヒトとの共生は困難であった。異族という呼称からして、彼らの多様性を無視し十把一からげにする蔑称である。かててくわえて、シドッチ石の存在である。

 古くから護符として珍重されていたこのなんの変哲もない紅い石が、偶然によって異族に多大な影響を及ぼすことが判明したのである。

 石に、とある周波数の音波を当てる(実はこれは、さる古代密儀宗教の祈祷でうたわれていた音律と同じであることが後に分かる)、すると石が一定の振動数で震えるのだ。そして共鳴した石の発する固有振動数が、異族の脳に共通する器官に作用して、彼らの思考能力を著しく減退させる。さらに研究の結果、幾つかの音律を組み合わせることで彼らの行動まで制御できることがわかった。有り体に云えば、異族を一方的に、奴隷のように使役することが出きるのだ。 

 この発見ののち、ヒトが行った施策は、邪悪の一言に尽きる。ヒトは、一見彼らの権利を尊重しているように見せながら、たくみに石を使い、また場合によっては繁殖力の弱い彼らにつけこんで多数者の専制を行使し、「合理的」な隔離政策を推し進めていったのだった。個々の能力ではヒトを凌駕していても、なまじ理知的で温和であるゆえ、異族はこれらの悪辣な施策を寛恕してしまった。

 さて、小人族らしくのんびりとした性格たちのグラウフだったが、知的好奇心に富んでもいた。たちまち学究上の同士となった我らは、木之子ピルツの研究に夢中になった。果たして此は生物なのか? 生物だとすれば如何なる系統の生物なのか? 何をエネルギーとし、どう成長するのか? 議論の種は尽きなかった。

 たちの探究は、幾つかの結果を出していった。いや、正しくはグラウフは、というべきであろ。当時はグラウフの方が学識に富んでいたことは認めねばなるまい。グラウフは、木之子ピルツに言葉を覚えさせるのに成功したのだった。彼の試みののち、木之子ピルツの知的能力は加速度的に上昇××××(大幅な手稿の脱落。以降は手稿の体をなさずに、断章が残るのみとなる。)

 

 ×××によるグラウフの死と木之子ピルツの逸失は、を意気沮喪させた。何よりも、己れの不用意な発言が、住民によるグラウフへの加害行為の引き金になったのでは、という後悔はを苛んだ。この罪悪感が、後年、異族自由連絡協議会の前身となる、異族解放会議を立ち上げた動機であった。しかし筆が先走りすぎたようだ。話を当時にもどそう。

 螺旋市へと移り住んでも、心は晴れなかった。父母とは、身を粉にして働いた。当然、も皿洗いから靴磨きから屑拾いから、あらゆることをして稼ぎを得ようとした。それでも稼げないときは、かっぱらいから筋ものの使い走りまで、何にでも手を出した。学問に関わるなど、夢のまた夢だった。工場での父の死が、無情にも父の過失による事故死として幕引きされ、当然、補償金などはびた一文出ずに、長屋を追われたと母の暮しは、さらなる困窮を極めた。糊口をしのぐため母は、封印していた千里眼の力を辻占に使うことを余儀なくされた。母のまじないの噂がやがてとある人物の耳に入ることとなる×××

 

 ×××研究室に出入りするようになったのは、ロメイ教授の隠秘学及び超心理学の被検体となった母に付き添ったとき以降のことである。自身も、ときに非人道的な実験にすら従順な被検体として過ごしたが、その代わりに、大学図書館の閲覧を認められた。このとき、ロメイ研究室に所属していた学徒のなかに、ジュウハチロウ・セコウがいた。当時はまだ男爵家の冷飯ぐらいの四男坊にすぎなかったが、その身を焼く野心は×××

 

 ×××ロメイ教授の持つ、母の死に対する負い目を吾は何とか利用できたようだった。尤もそれはにしてみれば正当な要求にすぎなかったが。あの実験によって母が死に至ったのは明白であった。このころ、独学であったがの知識と思考は、研究室の学徒をすでに凌駕していた。教授の親類筋の養子としては、あらためて正式に大学の門を潜ったのだった×××

 

 ×××教授の一粒だねリナに、父親の陋劣ろうれつな血が流れているとは信じられなかった。それほど彼女は、無垢で、純真で、眩しい存在だった。

 文学好きの彼女は、自分でも手遊てすさびに筆をとって物語を綴っており、にも幾分気恥ずかしげに見せてくれたものだった。彼女のイマヂネエションの奔放さと無垢さと云ったら! 塔のように積層に積み上げられた巨大構造体の内部に、魅惑的な図書館が、鎮座ましましているその物語は、の心を激しく打っ×××

 

 ×××当時のは、『脳髄論』などの意欲的な論文に加え、大衆啓蒙の為に『胎児の夢』、『堂廻目眩』を執筆し、八面六臂に執筆活動に勤しんでいたが、その合間にリナと語らう時間はなんと素晴らしく愛しかっただろう。いやしい出自のゆえ、到底、彼女と結ばれることは叶わないと知ってはいた。ゆえにと云うべきか、それでもと云うべきか吾は、リナの幸せを心より望んでいたのだ。だがよりにもよって教授が決めた娘の伴侶が、あのジュウハチロウ・セコウであったとは×××

 

 ×××久方ぶりに再会したリナは、あまり幸福そうではなかった。嗚呼、あのとき思いきって彼女をあやつの手から奪いとっておれば! やつれたリナの顔を見た数日後、彼女は帰らぬ人となってしまった。産まれたばかりの幼子を残して×××

 

 ×××彼女を失った哀しみからは、よりいっそう研究及び異族解放協議会の活動に粉骨砕身するようになった×××その結果、が感得するに至った知見の一端を披瀝するならば×××

 

 ×××試論の骨子は以下の通りである。 

一、われわれはことごとく物語の登場人物である。

一、自分のいる物語世界(吾はこれを《物語軸》と名付けた)から抜け出すことは通常できない。

一、しかし物語の中で物語ることで、《物語る力》の密度が集積し、物語空間がひずみ、亀裂が生じることがある。

一、ゆえに物語る者は、物語軸を越える可能性を秘める。

一、物語る力のない者が物語軸を越えようとするならば、物語る者の魂を圧搾あっさくし《物語る力》を集めなめればならない。

 

 ×××さらにこのころは、母ゆずりの第二視力者セカンド・サイターとして覚醒しつつあった。これもまた日々の研鑽の賜物である。にとって知識は、実践的であることと同義であった。云うまでもなく、〈透視力セカンド・サイト〉とは〈透視クレアボヤンス〉にとどまらず、世界の秘密に肉薄する能力のことであ×××

 

 ×××なんとしきえにしであろうか。まさか再び木之子ピルツと廻り合うことになろうとは! 人の運命とはまこと思いもよらぬもの。しかもそれが、父君ふくんの事業を継ぎ、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いとなったジュウハチロウ・セコウの邸でとは! 一瞬の合間であったが間違いない。彼奴きゃつは実験用のガラスケースに容れられ×××

 

 ×××邸で出会ったリナの忘れ形見は、彼女に瓜二つであった。まさに天使と呼ぶべき愛らしさで×××

 

 ×××悪魔の囁きだった。リナの仇を討ちたい渇望するは、木之子ピルツの依頼どおりに《物語軸》を移動するための術と、そのために招魂すべき邪神を研究し×××

 

 ×××しかしそれは彼奴らーージュウハチロウ・セコウと木之子ピルツーーの悪辣な計略であった。が彼奴らの狙いに気づいたときは、すでに手遅れで×××

 

 ×××あの娘は、邪悪だ。リナと同じ顔、同じ無垢な瞳は偽りだった×××

 

 ×××木之子ピルツもまた、もはやが幼きみぎりに拾った形状ですらなく×××その相貌には奇妙な老成が×××〈木男〉とでも呼ぶべきであ×××帝都に跳梁跋扈する殺人鬼はの正体は、彼奴×××

 

 ×××はそこにまぎれもない滅びのあしおとを聞いた。はっきりと【メネ、メネ、テケル、ウパルシン数えたり、数えたり、量りたり、分かたれたり】の文字を見た×××

 

 ×××の膨大なる研究結果は、すべてセコウのものに、否、木之子ピルツのものになった。それは家屋敷を失うことよりも、を苦しめ、失意のどん底へと突き落とした。もはや螺旋市にの居場所はなく、何をすることもできない。は異族解放協議会を、書記長の女史に委ねた。異族解放協議会はのちに異族自由連絡協議会と看板を付け替え、先鋭化して危険な組織に生まれ変わったと聞くが×××

 

 ×××こうして全てを失ったは、絶望し、死に場所を求め、かつて幼年期を過ごした山麓のあばら家へたどり着いたのだった。自然に足は例の横井戸に向かった。ここで入水できるだろうかと×××ボチャッ、という水音×××奥からバシャバシャと水を掻き分ける音が×××それは女だった×××

 

 ×××記憶のない女に、リナ・ロメイと名付けたのは、に感傷が残っていた証左だろう。いまとなっては馬鹿馬鹿しい限りだが。女には、螺旋市へ向かうよう言い含めた。そこで異族自由連絡協議会に接触しろと。が〈尊者アーユシュマット〉と名乗ってはじめた組織はいま、頭デッカチの理想主義者に乗っ取られてはいるがそれでも×××

 

 ×××いずれ、此処も彼奴らに知られるにちがいない。何となれば、〈木男〉にとって此処は、故郷にも似た場所であるのだから。願わくば、彼奴らの手に落ちておぞましい境遇に陥る前に安楽に死ぬることだけが唯一ののぞみ×××(手稿はここで途絶している)

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