第39話

図書館15、

 

 部屋じゅうが、ひずんでいた。魚眼レンズを覗いているような、あるいは巨大な水槽ごしに眺めているような、そんな光景だ。扉も壁も彎曲わんきょくし、調度品の輪郭は曖昧で、天井は丸みを帯びている。

 視界のへりは、黄色がかっている。中心部から外縁部に向かって、グラデーションは濃くなっていく。一番外側では、黄ばんだ古書のページのようなありさまになる。

 悪寒がする。ぐらぐらする。三半規管が狂っている。ふわふわとした、とらえどころのない感じ。落下感というより無重力感、無重力感というより酩酊感に似たものに襲われている。

 嗚呼これは、幼いころ、高熱に浮かされたときによく見ていた景色だ。ぼくはそう気づく。するとぼくは今、発熱しているに違いない。でもここは、実家のこども部屋じゃない。はて、どこの部屋だろう?

 すぐさま記憶が蘇り、ぼくはそこがジュウハチロウ・セコウ氏の私室だとわかった。控えめなシャンデリア、ウィリアム・モリス風の上品な青い壁紙、萌黄色の絨毯、重厚なマホガニーのデスク……。

 ぼくは部屋の戸口に立って、奥のデスクに腰かけているセコウ氏を見ていた。他人の私生活をこっそり覗き見しているみたいで、ひどく居心地が悪い。というのもセコウ氏には、透明人間であるかのようにぼくが見えていない様子なのだ。彼はデスク上のラップトップを熱心に眺めており、決まりの悪いぼくは、一刻も早くここから立ち去りたくて仕方がなかった。まだ気がついていない、今のうちに早く早く。なのに、身体が動かない。縫いつけられたみたく、足がその場から剥がれない。というより、自分の意思で自分の身体が動かせない。ぼくは、自分がここいることが、いつバレてしまうのか、焦燥でジリジリとかれはじめた。

 そのときセコウ氏が、つと顔を上げた。ぼくの心臓が、ドキリと跳ね上がる。もう駄目だ。ついに見つかってしまった。どう言い訳をしたらよいのか、まったく案が浮かばない。叫び出したいが、口を開くことができない。表情筋を動かすことすら無理だ。

 だがやはり彼の目は、ぼくを認識してはいないようだった。顔を向けたその先にぼくは立っているのに、まったくの無反応だ。目は虚ろで、何も映していないように思える。それだけでなく、明らかに憔悴しきっていて、凄惨な印象だった。髪は乱れ、眼窩は落ち窪み、唇はカサカサに乾いている。酷いようだがぼくは、内心、胸を撫で下ろす。この様子では、叱責される可能性がなさそうなことに安堵する。

 ぼくの視界が、さらに歪んでいく。古い玄関ドアの覗き穴ピープホールで見ているように、セコウ氏の頭部が膨らんだ。極端に誇張された遠近法めいて頭部が巨大に見え、身体の下部にいくに連れて、ゴルフのティーみたくすぼまっている。いやーー。

 歪んだ視界のせいじゃない。これは〈現実〉だ。ぼくはにわかにそれを識る。

 セコウ氏の前頭葉のあたりは、実際に、大きく肥大化しているのだった。まるで彼自身がゴムで出来ているみたく。内側に、どんどん空気を注入されているように。

 パンパンに空気をみなぎらせた不気味な人間風船は、膨らみ方すらいびつだ。右の側頭葉だけが突出して大きく、顎のあたりはちんまりとしていて、全体に逆三角形になっている。

 今やセコウ氏の両目はぐるりと裏返っており、白目を剥いていた。右耳だけが、馬鹿げたサイズの巨大な蝶のはねに変じている。おでこに血管が浮き出てそれが、ビクビクと脈打っていた。

 傍目はためにも彼が、限界なのが知れた。圧力が高まり、内側から喰い破られようとしている。だが内側のそれは、本当に空気なのだろうか? 何がセコウ氏の中から飛び出てこようとしているのか?

 カタストロフは予告なしに訪れた。セコウ氏が、無音で、ぜた。

 ぼくは不思議な感覚でそのさまを目撃していた。破裂の場面は、スローモーションの中だった。飛び散った血飛沫や体液や肉片が、ゆっくりとした速度で宙を舞い、四方に拡散していった。窓から射し込む外光に浮かび上がった埃のように、それは渦を巻いて、漂った。

 しばしそれに見とれていたぼくは、恐ろしいことに気がついた。セコウ氏の頭の裂け目ーー熟れた石榴めいた形をしているーーが、血の赤ではなかったのだ。それはすずの色に似た金属的な断面で、水銀のように流動的なそれが、不可解に煌めいていた。ぼくはゾッとなった。裂け目から溢れた銀色の液体が、ひとりでにウゴウゴと蠢いている。不定形だったそれが、何かを形作っていく。昆虫のような、魚類のような、それらをすべて混ぜ合わせたような、奇っ怪な形状のモノだ。この宇宙のどんな系統の生物とも違う、まったく異質なモノ。

 それはやがて、ひとつの形に定まっていった。あまたの要素が収斂し、見覚えのある姿を形成してゆく。大きなつば広の帽子は、頭が入る部分がバグパイプそっくりだ。それをかぶっている中年男の首から下は、茹で卵に似た形状の胴で、両脚はとりの脚だった。

 〈木男〉だ。

 セコウ氏から産まれた〈木男〉は、視線をヒタとぼくに向けて、唇を歪めた。いや、はっきりと嗤ったのだった。

 ぼくは恐怖のあまり意識が遠くなった。心がぬるい暗闇に溶暗フェードアウトしそうになる。だが意識は沈み切らなかった。逆に泡のように浮き上がりぼくは、自分が渦巻町のアパートの一室で布団にくるまっていることに気がついたのだった。

 そこが見馴れた自分の部屋だとわかっていても、ぼくの心臓はバクバクと激しく拍動していた。夢の残滓がべっとりとこびりついていて、剥がれてくれない。部屋の隅に積まれたぼくのコレクションーーあちこちで買い求めた紙の書籍たちーーを眺めて、その甘ったるい香りを嗅いでいるうちに動悸がようやくおさまってきた。まるでぼくが起きるタイミングを見計らっていたみたく、携帯端末のアラームが鳴った。

 また、一日が始まる。

 

 最悪の夢見の後のアルバイトをどうにかこうにか乗りきって、ぼくは中通りメインストリートを当て所もなく歩いていた。

 天井から降りそそぐフェイクの日照が、暮色をかもし出し陰が長く伸びる。心なしか、空気に新涼の気配が感じられる。

 つい一週間前にも、こうして町を歩いて疎外感をおぼえたことが、まざまざと思い出された。もう何年も前のことのようだが、明日でスウが失踪して一週間になる。もう一週間、というより、まだ一週間なのか、と暗澹となった。事故や病気にでも遭うか、自分で命を絶つかしないかぎり、〈スウのいない時間〉のほうが人生で確実に長くなっていく、そんな想像がぼくをひどく憂鬱にさせた。

 ただ、小説を書いていられれば、何もいらない。そんなふうにして生きてきた。スウと出会ったことで、すべてが変わってしまった。

 手にしたことで、失くすことの苦しみが生まれるのだとしたら、欲しくなどなかった、そんなふうにすら思える。にぎやかな町並みが、またもや空々しく思えてきた。ここは、ぼくがいるべき世界じゃないのではないか。疎外感に胸が塞がれていく。

「ーーお兄さん、どうぞお試しください!」

 ぼうっと歩いているぼくの前に、何かが差し出された。見ると、派手なハッピを羽織った男性の売り子が、小さな紙のカップを寄越している。断りづらい絶妙な位置だった。つい受け取ってしまう。

 傍らに、キャスターが付いた長方形のスチール・ワゴンがあって、その上にカップがたくさん並んでいる。ワゴンの飾りつけやのぼりからすると、新発売の清涼飲料らしい。ぼくは、カップをぐいっとあおった。今どき珍しいくらい甘ったるい。香料のせいか風味が独特で、後味が少し苦く思える。個性的な味のジュースだ。

 あまり流行りそうにないな、そう思いながら、ゴミ捨て場がわりに置かれていたダンボール箱に、カップを投げ入れる。「ありがとうございましたーー」と気のない反応をした売り子は、とっくに別の通行人に声をかけていた。

 さらに、うろついた。

 夕飯用にと、インド料理屋でテイクアウトのカレーを物色しているうち、身体が妙に熱くなってきた。今朝の悪夢のあとみたく、心臓がドキドキとせわしなく脈打つ。額に、うっすらと汗がにじんできた。涼しくなったと思っていたが、まだまだ残暑が居すわっているとみえる。あるいは、あたりに漂うスパイスのせいか。ぼくはタオル替わりに持ち歩いている手ぬぐいで、汗をふいた。この手ぬぐいも、スウが選んでくれた物だと気づいた。暮らしのなかで、スウを思わせないものなんてないのだ。またしても、胸がしめつけられる。そのときだった。

 

「✕✕✕ーー」

 

 懐かしい声が、耳朶じだに触れた。ぼくは、雷に撃たれたようになった。完全に不意打ちだった。一瞬、周囲の音がすうっと遠のいた気がした。まるでぼくに、たったひとつのその〈声〉を確実に届けようとしているみたいに。

 もちろんそんなのは、ただの気の迷いだ。現実に周囲の音がミュートされたわけじゃない。にもかかわらず〈声〉は、真っ直ぐぼくに到達した。けっして大きなボリュームなわけではないのに。狙いすましたように。

 道端に立ちすくんで、周りを見回した。

 ゆっくりと。

 小刻みに。

 何一つ見逃すまいと。

 ぼくは、それを見つけた。

 妄執に歪んだ精神が、幻を見させたのではないか、そう疑わずにはいられなかった。

 視界の隅、〈左京区〉へと交差点を曲がる後ろ姿に、ぼくの目は引きつけられた。

 その人影は、白くて薄いコートをはおっていたーーようだった。ぼくが目にしたのは、コートの裾と、そこからのぞく足元のスニーカーだけだった。だがぼくの脳内では、コートの下の黒っぽいパンツと、頭にかぶっている青い縞の帽子を、勝手に補完していた。それは、スウがいなくなったときの格好だった。

 反射的に、後を追っていた。

 問題の交差点にたどり着くと、人影が道を渡って右手に向かっているのが分かった。間違いない。その人物は青い縞の帽子をかぶっている。スウがよくそうしていたみたく、髪はキャップにしまわれて見えない。後ろ姿が、建物のあいだの路地に消える。焦ったぼくは、少し駆け足になった。

 奇妙な追跡劇チェイスだった。いや、追いかけっこタグといえようか。スウらしき影は、狭い建物と建物のあいだのすき間みたいな小路を、どんどんと進んでいく。彼女の姿は、陽炎や逃げ水に似ていた。近づいたと思ってもそこにはなく、いつの間にか遠くの物陰を移動している。ぼくは、視界の隅でしか彼女を掴まえられない。

 影は、〈ジッグラット構造〉の螺旋状床版スラブをのぼっており、ぼくもそれに続いた。ある十字路をこえたところでぼくは、なにかに躓いた。地面がせり上がってきた。違う、ぼくが倒れこんでいるんだ。なんであれ、路面がゆっくりと近づいてきて……顔面に衝撃がはしって……まるでなにかが被されたみたく視界が真っ暗になっ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………がつくとぼくは、足下が水平な町並みをヨタヨタと駆け抜けていた。その一帯の〈天井〉は、見馴れた元町オールド・タウンとは明らかに違っていた。元町オールド・タウンの〈天井〉は、建物三分階の高さだ。ここの〈空〉はゆうには五階分はある。すると、いつの間にかぼくは、元町オールド・タウンを通り抜けて、中町ミッド・タウンに足を踏み入れていたようだ。建物は高さだけでなく幅も大きくなって、間隔も元町オールド・タウンよりゆったりとしている。そのぶん、家賃相場も元町オールド・タウンよりグッと上がる。

 オフィスの入ったビルに飲食店が挟まっているが、元町オールド・タウンみたいな香辛料や揚げ油の匂いは漂っていない。空調が下層階よりしっかりしているのと、そもそもの食文化がーー場合によっては人種もーー微妙に違うのだろう。歩いている人びとも、男女ともスーツ姿のオフィスワーカーが多い。

 ぼくの知っているスウは、中町ミッド・タウンにゆかりがあったろうか。ありそうにない。しかし、ぼくはスウの何を知っていたというのだろう。きちんと理解しようと、つとめていただろうか。

 今しも彼女は、ある建物に吸い込まれるみたいに入っていった。彼女のあとを追うことに、ためらいはなかった。追跡をやめるという選択肢は浮かびもしなかった。夢遊病者の足どりでぼくは、ふらふらとそのビルヂングへと近寄った。

 スウが消えていったのそのビルは、背の高い二棟に挟まれた、小ぢんまりとしたビルで、窓を見ると四階建てのようだ。彼女は、短い階段を上がった先に開いている玄関口に、吸い込まれていったのだった。薄闇がただよいはじめた街角のなか、その入り口は、ひと足はやい真っ暗な夜の領域だった。その暗闇に、スウは溶けていった。

 階段を上る。ぽっかりと開いた入り口は、底知れぬ黒暗淵やみわだの縁だった。そこから先は、見知らぬ世界に思えた。

 しかし、階段をのぼって屋内に入ると、そのわけはあっさりとしれた。入ってすぐのスペースが暗幕で小さく区切られていたのだ。ぼくはゴクリと唾を呑み込んで、暗幕をめくる。めくった先はすぐに突き当たり、右方向に廊下が延びている。壁も天井も床もやはり黒色で覆われていて、遠近感がひどくはかりづらい。廊下の先の曲がり角のあたりだけが、ボンヤリと明るい。ぼくはそちらに向かって、通路を進んでいった。

 通路は、直進したあと、ヘアピン状に、やって来た方角にまた戻っていた。不可解な造りの通路だった。ドアはおろか窓もない。あえかな照明が進行方向にだけわずかに灯り、通りすぎると消えてしまう。ぼくは灯りに導かれるままに、奥へ奥へと引きずりこまれていった。

 建物の内部は、ちょっとした立体迷路といえた。すぐに行き止まったり、意味のない突き当たりがあちこちにあった。爪先上がりにのぼる傾斜の向こうに、天井が低く、かがんで歩かされる箇所があり、その先はすべり台状に下る急傾斜だったりした。幅が狭く、横歩きで人ひとりがやっと通れるだけの箇所や、天井が吹き抜けみたく高い箇所もあった。

 入りくねった内部をうろうろするうち、自分がどれだけ歩いたのか、いまどちらの方向を向いているのか、すっかり混乱してしまった。頭はどんよりと重く、冷や汗が背をつたった。どこからか、ブウウウウウウンンンンン……という蜜蜂の唸りのような音がする。いや、音はぼくの頭の中で鳴っているのだろうか。酸欠めいて、肺にうまく空気が入ってこない。意識が朦朧としてくる。

 あらゆる物事に終わりがあるように、この迷い路にも終わりがあった。

 そこは短い行き止まりで、黒く塗られた金属製の螺旋階段が、天井を貫いて上階へ呑み込まれていた。直径がぼくの身長くらいの円柱が、そびえているといえばいいだろうか。階段はかなり急で、歪な三角形の踏み板は歩きづらそうだ。手すりもないので、上の段の踏み板につかまって梯子みたくのぼっていった。一段一段、ぐるぐると上がっていくと、眩暈がして息が切れた。

 頭が上階の床から出ても、明かりが点かなかった。それで、思いきって身体を引き上げ、上の階のフロアに立った。額に、びっしり汗が浮いていた。

 周囲が、ほんの少し明るくなった。

 いつの間にか、屋外に出てしまったのか、と真剣に思った。

 その場所は、巨大な鉄塔の内部だった。少なくとも、そう見えた。足下は滑り止めがボコボコと浮き出た鉄板で埋めつくされ、目の前には、幾何学的文様を描いて斜めに組み合わさった鉄骨が、むき出しになっている。眼下にはクラシカルな形状のビルが林立し、合間を路面電車トラムと無数の自動車が行き交っている。自動車のクラクションやその他の街のさざめきが、潮騒みたく押し寄せてくる。うっすらもやのかかる遠景には、瞬く街の灯が金砂きんしゃをばらまいたように敷き詰められていた。褪赭セピアに色づいた、記憶になんてないはずなのに、どこか昔懐かしいレトロスペクティブ街並みーー。

 ーーだがおかしい。そんなはずはない。このビルからこんな景色が見えるなんてあり得ない。〈渦巻町〉から眺望できる関東平野とは思えないし、過去にタイムスリップしたわけでもない。第一、ずっと遠くの景色が、これほど細部まで視認できるはずがない。屋外にしては風が、そよとも吹いていない。

 ちょっと注意して観察すれば、手品のタネは明らかだった。

 鉄骨は手前のものこそ原寸大だが、奥に連なるものや金網は、縮小サイズだ。展望される風景は、湾曲させた壁面に描かれた巨大なキャンバス画で、ビル群は精巧なミニチュアだった。

 いわゆる〈パノラマ〉というやつだ。

 〈パノラマ〉は近代にできた巨大見世物装置で、遠近法や照明の工夫で目の錯覚を起こさせ、屋内の限られた空間を広大に感じさせる、当時のヴァーチャル・リアリティだった……らしい。らしいというのは、もちろん実物を体験したことなどないからだ。ただその摩訶不思議な様子は、当時の江戸川乱歩の小説などによく登場する。

 だがしかし、いったいなんで、こんなビルのなかに時代錯誤アナクロニズムな装置が再現されているのか。まったく理解できない。何より不可解なのは、この〈パノラマ〉の風景が、ひどく生々しく、ぼくに迫ってくることだ。それは、通常の意味での迫真性リアリティとは少し違った。強いていえば、〈いつか夢で見た景色〉を突きつけられたような、まがまがしいほどの〈現実感〉だ。〈パノラマ〉は、ぼくにこう訴えかけているようだった。《チープなまがい物でしか表せない迫真性トゥルースがこの世にはあるのだ》と。

 するとーー。

 〈パノラマ〉の隅に、明かりが瞬いた。一見すると鉄骨の陰になっている一画に照明が点いて、奥のキャンバス画の遠近法が台無しになった。それは、作り込まれたテーマパーク内で無粋に目を引く、非常口のピクトグラムのように目立っていた。

 今さらのごとく、疑念がさした

 この不気味な場所の、さらに奥深くに突き進んでいいものか。そもそも、このヘンテコな空間を内包するビルは、本当にスウと関係があるのだろうか。しかし、この機会を逃せば、もう二度とスウに会えないかもしれないのだ……。

 ちょっとした板挟み状態イン・ア・キャッチ22シチュエーションのぼくに、夕靄ゆうもやがゆっくりと流れてくる。さっき口にしたジュースの、甘苦い刺激が蘇ってきた。同時にどこからともなく声が響いた。あの懐かしい声が。

 

「✕✕✕ーー」

 

 今朝の夢が再現されたように、ぐらりと視界が歪む。身体がカッと熱くなり、脈拍がさらに急上昇した。

 間違いない。彼女の声だ。

 ぼくは、明かりの方へーースウの声がした方へ、足を踏み出す。

 戸口を抜けた次の間は、砂漠だった。

 波濤のように重なる砂山の向こうに赤茶けた丘陵があり、麓に神さびた石造りの神殿がみえた。神殿の前には目映い衣姿の女性(巫女?)が立ち、両手をあげて祷りを捧げている。だがそれらも当然、巧妙に造られたまがい物だ。ギラギラと煜く白日に熱はなく、どころか部屋はひんやりとすらしている。砂丘が描かれた空間の一部が切り取られて、戸口になっている。ルネ・マグリットの絵画のようにシュールな光景だ。ぼくは、さらに奥へと赴く。

 そこからぼくは、幾つもの世界を、へめぐった。

 ある部屋は、まるで地下の鍾乳洞のようにしつらえてあり、ちょろちょろと本物の水さえ流れていた。大都市をびっしりと埋めつくす奇っ怪な怪物(生物と機械の混淆物アマルガムみたいだ)の群れを眺め、深海生物とマリンスノー漂う海底を歩き、突兀とっこつたる太古の山塊を踏破した。世界は目まぐるし変転し、ぼくは呆けたようにそれらの世界を逍遥し続けた。パノラマ島を練り歩く、人見廣介のように。

 サーカスの大天幕を過ぎたあとの、熱帯の植生が立ち並ぶ区画であった。そこは水族館の熱帯エリアのように密林を模していて、水溜まりには毒々しくも色鮮やかなカエルが泳いでいた。青々と繁る大型の羊歯類をかき分けた先に、周囲に不釣り合いな金属製の扉が唐突に現れた。グレーに塗られた素っ気ないやつで、建物で見かける防火扉に似ている。

 ここが終着点だ。

 何とはなしに、ぼくはそう直感した。

 銀色のノブをつかむ。L字型の金属がついているレバーハンドルというやつだ。レバーを下に下げると、ガチャッ、と予想通りの音がした。手前に引くと、少し重たいがスムーズに開いた。

 扉の向こうはーーこれまでとはまた別の意味で、異様な空間だった。

 その部屋には調度品がひとつもなかった。しかし、むやみやたらと広く思えるのは、物がないせいばかりとは言えない。壁も天井も床も、全部が鏡張りになっているのだ。

 その真ん中に、彼女がしゃがみこんでいる。正座の姿勢からペタンとおしりをついて、足を左右に出している。女性がよくやる座り方だ。うつ向いて前に頭頂部を見せている。青い縞模様の帽子がこちらにてっぺんを向けている。

 スウだ。

 顔は見えないけど、着ているものは間違いなく彼女のものだった。

「スウ……」

 ぼくは部屋の中央に踏み出す。

 左右に、天井に、床に、突き当たりに、いっぺんにぼくが増殖した。

「スウ……ぼくだ」

 一歩。

 もう一歩。

 歩み寄るごとに、ぼくの似姿もいっせいに動く。

 ほんの少しの距離なのに、永遠みたく感じられる。

 あと少し。

 もう少しで。

「来ないで」

 ようやく聞かせてくれた彼女の声はしかし、手酷い拒絶だった。ぼくはその場に凍りついた。声は目の前の彼女ではなく、右の鏡面のもうひとりのスウがしゃべったように思えた。

「スウーー」

「あなたは、わたしを助けてくれなかった」

 今度は、左のスウがなじった。

 ぼくは絶句することしか、できない。

「やっときてくれたけど、もう手遅れ」

 天井のスウの声は冷たく、どこか機械を思わせた。

「あなたとーー」奥のスウの声はナイフのようだった。「あなたとなんて、出会わなければよかった」

 その一撃は、ぼくの心に決定的な亀裂をもたらした。どうしてぼくは、彼女がぼくを待っているなんて、自惚れていたのだろう。ぼくのもとを去っていったひとだと言うのに。そもそもぼくは、スウに相応しい人間だろうか。自分のことばかりで、彼女の心のうちをおしはかることすらしてこなかったのに。むしろ、もっとずっとはやく、辛辣な科白を投げつけられて、しかるべきだったんじゃないのか。

 ローレル夫人の言葉は、正しかった。スウの心を占めているのは、ぼくじゃない。

 スウは、左右から、上下から、前後から容赦のない言葉を浴びせてきた。あらゆる方位から押し寄せる言葉のひとつひとつが、ぼくを切り刻む。

「わたしはあなたを愛してなんていなかった」「あなただってわたしを欲望のはけ口にしただけでしょ」「それともただの金づる?」「もっとはやく逃げ出せばよかった」「あなたといっしょにいたって、ひとつもいいことなんてなかった」「本当に苦痛だったの」「何も実らなかった」「わたしの時間を返して」「あなたのせいでわたしはこんな目にあったのよ」「償って」「死んでよ」「わたしを愛しているなら最後にまごころをみせて」

 耳をふさぎたいのに、できない。それらの言葉は、いちいち、然もありなんというものばかりだったからだ。

 その音は、はっきりと聞こえた。心の亀裂が拡がって決壊した音が、まざまざと感じられた。しまった! と思った。必死に押さえつけていた感情のフタを、不用意に開けてしまったのがわかった。身内から溢れ出した情動が、歯止めが利かない濁流となって荒れ狂った。決定的な過ちだ。哀しみと、切なさと、このまま消え去ってしまいたいという自己破壊的な衝動がいっぺんに押し寄せてきた。頭の片隅の醒めた一部が、それは狂気に至る門だと囁く。ぶるぶると手が震える。膝が笑う。全身が萎えていく。頭が割れるように痛い。息が入ってこない。立っていられない。喉元にせりあがってきた酸っぱいものにえずいたぼくは、たまらず上半身を折った。痙攣しただけで、口からは唾液しか出てこなかった。また激しくえずく。涙だけが、にじんだ。

 彼女の口調が、変化する。甘やかな、心地好い響きになる。

「わたしのところにきて」「それを使って」「ひとりぼっちにしておくつもり?」

 ぼくはのろのろと、顔をあげる。

 いつの間に出現したのだろう。歪んだ視界に、何かが揺れている。魔術めいた鮮やかさで、縄が現れていた。上方から垂れ下がったそれは、白くて太い縄で、一番下に輪っかが作られている。輪っかの根元はぐるぐる巻きに結わえられ、補強されていた。ハングマンズノットだ、と惚けた頭が、律儀に知識をはじき出した。絞首刑用の縄ーー絞縄こうじょうというやつだ。

「わかるでしょう」「あとちょっと少しで、わたしに会える」「さあ、はやく。はやく。はやくはやくはやくはやくはやくはやくーー」

 ふらふらと立ち上がる。言われたとおり、少しだけ前に進む。輪っかは、ちょうど良い高さにあった。ぼくはここに首を通すだけでいい。そうすれば、スウにもう一度会える。罪を償える。

 両手で縄を掴み。

 輪っかを広げ。

 半歩進んで。

 首を入れ。

 スウに。

 会い。

 に。

 ーーそのとき、けたたましい音が、背後でわき起こった。

 思わずふりかえる。ドアが乱暴に開かれて、戸口に男が現れていた。ゼイゼイと息を荒げ、仁王立ちに立ち尽くしている。ぼくはあんぐりと口をあけて、固まってしまう。

「そこまでだ! 縄から手を離したまえ!」

 鋭い警告を発したのは、ウオタロウ・コシロだった。

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