第38話

神殿Ⅹ.

 

 今にも消え入りそうな、心細い灯りだった。とはいえ、月影も星明かりもない塗りつぶされたような闇夜のなかでそれは、純白の絹布に滴った血飛沫のように目立っていた。

 突兀とっこつたる山塊の列なる古代山脈、その懐に抱かれた小さな岩棚の下であった。焚き火が照らし出す曖昧な範囲に、ゼフィールの麗しい顔容かんばせと、モロクの巨体が浮かび上がっている。

 わたしの眼を宿した砂漠狼は、音を立てずに灯りに接近していった。

 火勢は弱く、粗朶そだの燃える音も不景気な響きしか立てていなかった。生木を無理やりに燃やした煙が、砂漠狼の敏感な目と鼻を刺激する。

 焚き火を挟んで、片側にゼフィールが横座りでおり、反対側にいるモロクは、せっせと薪をくべている。

 二人の傍の平らな石の上に、干した肉や無花果が並べられている。わたしは我知らず、ゴクリとつばきを呑み込んでいた。いやしいと謗られようとも、喉から手が出るほど食べ物を欲していたのだ。

 だが食糧に手をつけているのは、もっぱらモロクで、ゼフィールが食べている様子はない。モロクにうながされ仕方なく手を延ばしても、小鳥がついばむほどしか口に入れなかった。

 おお、そのときの妹の相貌かおときたら! ゼフィールは、心が抜け落ちたように無表情なおもてをさらしていた。揺れる焔と、二人のわずかな身動ぎで、陰翳が躍るように蠢いたが、妹の表情に変化は認められなかった。彼女のことをよく知らぬ者には、まるで冷たい浮彫のように映るであろう。げんにモロクは、ちらちらと顔色をうかがうように、ゼフィールを盗み見ている。妹の内面が、まったく計り知れぬというように。

 確かに、余人にはうかがい知れぬかもしれぬ。が、長きにわたって寝食をともにしてきたわたしには、傍目には捉えられない彼女の心のうちが、ありありと読みとれた。揺れる焔と同様に、胸中のさまざまな感情が、その眼に、唇に顕れては消えるのが、はっきりとわかった。

 屈辱があり、疲弊があり、後悔があった。無力感がよぎったすぐあとに、反骨心からくる強烈な生命力のほとばしりがあった。運命を従容と受け入れる心と、徹底的に抗って自ら道を切り開かんとする意思が共存していた。

 妹の眸は、熱病にうかされたように潤んでいたがそれは、愛する者に対する情熱の発露であり、また、憎悪と呼んで差し支えない巨大な負の耀きでもあった。

 わたしは、自分とゼフィールの共通項を思わずにはいられなかった。わたしと同じようにゼフィールは、今でも強く強くモロクを愛していた。そして同じくらい強く強く、モロクを憎んでもいた。愛ゆえに赦そうとし、愛しているからこそ決して赦すことができない、それがゼフィールの双眸に、ますます凄絶な煌めきを付与していた。

「もう少し食べてください。身体がもちませぬ」

 モロクが低い声で、妹を諌める。その口調には隠しようもない畏れと思慕がにじみ出ていた。彼はけっしてゼフィールと目を合わせようとはしなかったが、恭しく飲み水の盃をすすめた。妹が無言で横になると、山の夜気で冷やさぬよう、甲斐甲斐しく毛皮の寝具をかけてやるのだった。あらゆる仕草のうちに、妹に対する想いがのぞけた。

 ここに至ってようやく、モロクがどうして仲間の許に還らなかったのか、わたしにもはっきりと察せられた。彼は道に迷ったわけではなかったのだ。

 流域国家に対する大巫女の影響力を排除するためだけならば、モロクはゼフィールを殺すだけでよかった。実際、彼が受けていた密命の中身は、ゼフィール暗殺ではなかろうか。

 なのに彼はそうしなかった。

 わたしはその理由を理解して、胸が締めつけられた。

 モロクは、ゼフィールを愛してしまったのだ。狂おしいほど。祖国を裏切れるほど。それほどまでに、妹を求めてしまった。だから、妹を連れて逃避行に走った。友軍のもとに戻れなかったのではない。戻らなかったのだ。

 彼はわたしたちにとって裏切り者であったが、アグラーヤにとっても裏切り者の謀叛人であった。そしてそのことは、わたしの心をいっそう苦しめた。モロクがたんに、冷徹で悪逆無道な間諜であったなら、どれほど救われたろう。少なくとも、もっと躊躇いなく憎むことができたはずだ。わたしは、〈地下迷宮〉の暗い磐座いわくらの前で、ひとりすすり泣いた。

 

 翌日もふたりの遭難者は、岩がちな斜面を歩き続けた。周囲にはひねこびた矮樹わいじゅと、無気味な色合いの下草、それに赤茶けた石塊いしくれが果てしなく拡がっている。日は陰り、低く垂れ込めた雲を通して、あやふやな朝日を投げかけている。すっかり夜が明けているはずの山中だのに、まるで黄昏時のようなくらさである。

 もちろんモロクは、麓を目指して歩いていた。ゼフィールにも、そうはっきりと宣言し出発したのだった。人目を避けて古代山脈に足を踏み入れたとしても、深山にわけいる必要はない。適当なところで裾野に向かえばよいと考えていたようだ。

 だが、古代山脈の不可解に捩れた空間では、モロクの思惑どおりには、いかなかった。

 爪先下がりに足を進めていても、いつの間にか気がつけば斜面を登っている。特徴ある形の山嶺さんれいを目印に方角を見定めて進んでも、いつの間にか出発した場所に舞い戻ってしまっている。それこそが、この山塊が魔の領域と呼ばれる所以なのだった。

 はじめそのことに気づいたモロクは、それを疲労のせいにした。逃避行の疲れが方向感覚の混乱を招き、翻弄しているだけだと。だが、何度太陽を仰いで方角を調整しても、同じ結果が待っていた。眩惑的な道行きに囚われているのは、砂漠狼ーーつまりわたしーーも例外ではなかった。本能に優れたこの生き物ももはや、この魔界から離脱することは、かなわない。猛禽に続いて、わたしはこの生き物の命を奪うことになるだろう。

 やがて霧が出てきた。

 どこから湧いてくるのかと思うほど、濃く、大量の霧がたちまちのうちに立ち込めて、視界をふさいだのだった。乳白色の、やわらかい、しかし逆に、さればこそそら恐ろしい壁が、速やかに二人を押し包んでいったのだった。白い白い迷宮。

 もはや二人は、進めば進むほど古代山脈の奥深くへ、いただきへと近づいていった。高度が増していくのが、膚でひしひしと感じられる。気温は下がっていき、ほんのわずかづつ息が苦しくなっていく。モロクもわたしもそんな高みなど目指していないのに、吸い寄せられるみたく、そこに向かっているのだった。

 次第にモロクは、半狂乱になった。がむしゃらに、山を離れようともがき出した。やみくもに走り出したり、急激に方向に変えたりした。一度など思いきってゼフィールを目立つ岩の下に座らせ、悲愴な決意で別れてもみた。だが、良い悪いはともかく彼はぐるりと一回りしただけでまた、ゼフィールの前に帰ってきてしまった。つまり、さまざまな試みも虚しく二人は、ひたすら奥へ奥へと引きずり込まれていくだけであった。

 わたしは従容とモロクについて歩くゼフィールが、口許にヒヤリとするような暗鬱な笑みを浮かべたのを見逃さなかった。古代山脈の恐ろしさは、大巫女ならば先刻承知であった。ここに至ってわたしは、ゼフィールが、謀ってモロクを山中に誘い込んだのを確信した。

 

「なんだこれは……」

 モロクが、茫然と立ち尽くしている。

 そこは天空まで続くかのような、頂き付近の山道の半ばであった。その場所にさしかかったとき、ふいにあたりを覆い隠していた濃霧の障壁が、溶けるように消えていったのだった。風に吹き散らされたのとは違う。すうっと、存在自体が背景にまぎれていったのだった。

 だが、豁然かつぜんとして開けた眺望は、その場の誰もが想像しているものとは、かけ離れていた。

 山道が、少し行った先の半ばで、途切れていた。崩れて、崖のように落ち込んでいるのとは違う。そんなことで驚くわたしたちではない。

 行く手の道は、文字どおり〈無くなって〉いたのだった。強いて例えるならば、書きかけの絵画に近いだろうか。わたしたちの背後から続く道が、というより、世界が、前方のある地点から、白紙状態になってかき消えているのだ。

 その先では、世界そのものが〈無くなって〉いた。

 当然そこには、見えてしかるべき遠くの山並みはない。大地そのものも、空さえも消えてなくなっている。

 そこに〈ある〉のはーーこの表現が正しいかはわからないけどーーただただ灰色の虚空であった。〈灰色〉と言っても、岩のようなそれとは違い、色のない世界という意味だ。色ではなく、色の墓場だ。そこから先には、あらゆる物質が存在せず、したがって空気もない。ゆえに、音もない。光さえ射さない、ただの虚無なのだっだ。

 わたしもゼフィールも、己れの見ているものを受け入れるのに、手間がかかった。超自然のことどもに親しんでいるわたしたち姉妹でさえそうなのだから、モロクはもっとだったであろう。先ずは己れの認識を疑い、次に正気を疑い、しかしその場にいる他者が己れと同じ光景を見ていることに気づいて、しぶしぶながら認めたねばならなくなったのだ。

 これが、〈現実〉の光景であると。

 その〈虚無〉と〈こちら側〉には、はっきりと互いを分かつ〈境界線〉があった。波打ち際の汀線ていせんのように、ぎざぎざの白い線が二つのあいだを、行ったり来たりしていた。白線が手前に寄せるとそのぶん道が、つまりこちら側の〈世界〉が消え、白線が遠退くとそこを境に、〈世界〉が産まれた。

 信じがたい光景に凍りついていたのは、モロクだけではなかった。意図して怨敵を誘導したゼフィールでさえ、こんなものを目撃するつもりだったはずはない。

 もちろん、わたしも同じだった。

 万物の尽きる果てーーあるいは産まれくる最前線が、そこにあった。

 モロクはわたしたちの中で、最もこの不気味な光景に畏れを抱いていたと思う。それは先にも述べたとおり彼が、超自然のことどもに馴れていないかったせいだ。それは同時に、彼がこうした不可解な現象に対して、ある種、最も畏れ知らずだったことを意味する。

 現にモロクは、警戒しつつも、わたしたちからすれば無造作にも思える歩みで〈境界線〉に近寄った。帝国由来の合理主義の徒にしてみれば、現状の観察こそが打開の糸口に思えたのだろう。

 ふいにゼフィールが動いたのは、そのときである。

 たわんだ枝が急激に元に戻ろうとするみたく、それまで溜め込んでいた力を解放したような、激しい動作であった。

 ゼフィールは、素早くモロクに殺到した。そして勢いそのままに、両手を突き出し、モロクの巨体に体当たりしたのだった。

 あっという間の出来事だった。モロクが、自分の身に起きたことを認識できたのかも怪しい。よろけた彼が白線を踏み越えるとーー瞬時に彼の姿がかき消えた。まるで、モロクなどという男は、初めから存在していなかったかのように。

 わたしは一部始終を、茫然と眺めているだけだった。長い時間が経ったように思えたが、ふた呼吸するほどの、ほんのわずかな時間のことだったろう。

「ゾラーーどこかで見ているのかしら」

 妹が、抑揚のない囁きを発した。

「いつか言ったでしょう。私は姉さんを傷つけた人間を、絶対に許さないって」

 しゃべりながらゼフィールが、その場から足を踏み出していった。

「だとしたら、私も同罪ね」

 その言葉を聞いて、ようやっと、わたしの呪縛が解けた。わたしはーーつまりは砂漠狼がだがーーとっさに大地を蹴った。全速力で妹を追いかけた。

 彼女が何をしようとしているのか、わかったからだ。わたしは、あらんかぎりの力で叫んだ。止めてゼフィール、行かないで、と。もちろんその叫びは、無意味な咆哮に取って換わられた。妹に、わたしの声は届かなかった。あるいは届いても無視をした。

「愛しているわ、ゾラ」

 呟くなりゼフィールは、白線の向こうに身を投げた。

 同時にわたしもまた、非在の領域へと飛び出していった。

 そこから先、わたしが目にしたもの、感じたことを伝える言葉はもうない。言葉で表現できる体験ではなかった。ただ今このときまで紡いできたわたしの語りを、どこかの誰かが受けとってくれるのを期待したい気持ちもないではない。でもそんなことはあり得ない。わたしは実際には、誰かに何かを物語っているわけではなかった。筆で文字におこしているでも、聞き手を前にしゃべっているでもない。受け手のいない物語など存在する意味がない。わたしは、ただただ深淵の下へ下へーーあるいは上へ上へ、またさらには奥へ奥へーーと飛翔し飛散していく須臾の間に、声すら発せず、心のなかで語りかけているだけなのだから。精神は砂漠狼とともに虚空に消え、肉体は暗い地下迷宮で朽ちていくだろう。嗚呼、ゼフィール! わたしも心の底からあなたを愛

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