第5話

神殿Ⅱ.

 

「ゾラ! いったい何があったの?」

 マナン将軍が思いがけない〈休養〉を余儀なくされた日の晩のこと、わたしはゼフィールに、わたしたちの居館で、日中の顛末を話すことになった。

 〈大神殿〉の裏手には、神聖娼婦たちが寝起きする〈巫女の館〉がひかえているが、わたしたち姉妹が住まうのは、斜面をさらに登った、丘の中腹にある簡素な小ぢんまりとした館だった。〈ルナルの丘〉は、丘全体がネルガル神殿の聖域となっているが、〈大神殿〉は麓にあり、大巫女たるわたしたち姉妹の居館は五合目、さらに頂に〈奥殿〉がある。

 〈大神殿〉は遠方の山岳地帯から切り出した大石を積んで造られた荘厳な伽藍であり、〈巫女の館〉は、焼成煉瓦で組み上げられた優美な建築だった。しかし大巫女の住まう居館は、館と呼ぶのも躊躇うような、貧相な石積の小屋に過ぎなかった。

 そのときわたしは、私室ーー三部屋しかない小屋の中で右手の部屋ーーで寝椅子に横たわっており、訪ねてきたゼフィールは絹の部屋着姿でわたしの傍らに座っていた。乾季の終わりの、風のない穏やかな宵で、手燭の灯りがぼんやりと室内を照らしていた。

 ゼフィールの頬は、上気して薔薇色に染まっていた。サルマから話を聞いて、すっ飛んできたのがよくわかる。もっとも、妹に報告する時機を夜までまってもらったのは、わたしだった。

「マナンは、王になりたいのよ」

「だから何だというの? ゾラを傷つける理由になんてならないわ」

 柳眉を逆立て、麗しい妹は憤慨をあらわにした。

 ゼフィールの思考は明快だ。儚げな見た目とは裏腹に、妹は芯のとおった強固な一個の人格なのだ。母がそうであったように。いざとなれば、どんな大胆なことでも平気でやってのけるだろう。

都邑まちで何か異変があったのかも。焦っているようにもみえたし」

 しかし、わたしの声はかすれ、弱弱しく響いたのかもしれない。ゼフィールは痛ましげにわたしの咽喉のあざを見つめると、その双眸に焔が点った。

「殺しましょう」

 事もなげに、ゼフィールが言い放った。

「手練れの歩き巫女に命じればあっという間よ」

「待って。今は駄目。もう少し様子を見たいのーーアグラーヤの件で」

 わたしが押しとどめると妹は、不満げに鼻を鳴らした。各地を遍歴する歩き巫女は、大巫女の手足となって窺見うかみと暗殺を行うのだ。だがわたしは、個人的な恨みつらみの解決より、取り返しのつかない事態に陥ることを恐れていた。

 当世、〈ルナルの丘〉を含むこのヤン河流域を版図としているのは都市国家ギゼイであり、ギゼイを司るのは都市神を祀る権限を持つ王だった。今上はサクノス二世という。とはいえサノクス王は、祭祀以外には実力を持たず、実質的な政は、行政官でもある神殿長が担っていた。そして武人は、どれほど実力があったとしても、立場上あくまで神殿長の属吏に過ぎないのであった。

 神殿長になるには、神官として長い期間、神殿に努めなければならず、しかも家柄がある程度固定されている。つまりマナンのごとき平民出の人間が、位人臣くらいじんしんを極めることは、ありえない。

 だが王に直接なるならば、別だ。

 なんとなれば、ギゼイの主神は表向き、わたしたちの仕える女神ン・ナーーこちらの言葉では〈名づけえぬ神〉ーーと聖婚を結んでおり、より正しくは多情なン・ナ女神の情夫にして、神名表の下位、従属神であるからだ。つまり、ン・ナの御言葉であるならば都市神ギゼイは逆らえず、ン・ナが指名した王は、都市国家ギゼイの王となる。三百年ほど前にもそのような先例があったことが記録されており、マナンが大巫女の託宣にこだわるのは、そういったわけがあるからだった。

 しかし、これまで何年も野心を押し隠して忍従してきたマナンが、ここへきてにわかに動きだしたとなると、単なる野心以上の懸念が出てくる。それが今般のアグラーヤ帝国の侵略なのだった。

「あの、口にするのもはばかられる古代山脈を越えて、皇帝がやってくるというの」

 ゼフィールが半信半疑に問う。

「それは確かに考えづらいかもしれない。でも思い出して。アルマリ国のことがあったでしょ」

 わたしの出した例に、ゼフィールはしぶしぶとうなずいた。

 河口近くの交通の要衝に位置しながら、長きにわたって、通商以外の国交を頑なに拒絶してきた沿海部のアルマリ国が、鎖国政策を破棄したというしらせは、周辺諸国を驚倒させた。それが、アグラーヤの深紅の帆の大船団に包囲されたことが原因であるのは明らかだった。

 ギゼイは大河ヤンの下流域にあるとはいえ、内陸の都市国家である。アルマリ国のごとく、大船団の襲来を恐れるいわれはないのだが、あるいはまったく別の方法で、圧力をかけられているのかもしれなかった。もしそうだとするなら、マナンが事態をさらに先に転がそうとしたわけは、アグラーヤの侵略が原因なのかもしれない。

「ともかく、マナンにはまだ利用価値があるわ。お願い。少しだけこらえて。それに……」

 わたしは、無理やり笑顔を作って見せた。

「いざとなったら、あんな奴、〈瓶詰地獄〉に放り込んでやるわ」

 言い伝えでは、〈名づけえぬ神〉の恐ろしい神威力は、事物の〈世界座標〉を書き換えることまで可能とされていた。世に名高い〈瓶の魔神〉の説話は、世界ごと座標を移され〈瓶詰地獄〉に閉じ込められた超自然存在に由来するという。

 ゼフィールはしばらく黙りこんだが、やがて、こくり、と小さくうなずいた。

「わかった。今回は見送る」

 でも、と言い添えた。

「忘れないで。私は姉さんを傷つけた人間を、絶対に許さない」

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