第4話

図書館2、

 

 ホールの真ん中のベンチでうつむいたまま、さらに二時間ねばった。夜が更けるにしたがって、館内から、ひとりまたひとりと利用者たちが去っていった。十九時の鐘をしおに、先の初老の図書館員が、ぼくを家に帰るようにうながした。

「一度、お休みになられてはいかがですか?」

 ここでまた倒れられたらかなわない、と思うのは、もっともな感覚だろう。見返したぼくの強ばった表情がどんな風に映ったものか、彼は困惑したように顔をしかめた。

 いつものぼくなら、純粋な親切心と受け取っただろう。でも、母に捨てられた子のようにスウを求めるぼくには、無駄足を嘲弄されているように思えた。

 そんな内面が、表情に出ていたようだった。関わっては面倒と図書館員は、そそくさと離れていった。途端に、体から力が抜けていった。手足が痺れたようにダルく、ふんばりが利かなくなっている。緊張のしっ放しで、図書館員のいうとおり、すっかり消耗していたのだ。

 結局、ぼくは忠告を受け入れた。

 長期戦になるのであればそれなりの準備がいる、水槽のメダカに餌もあげなくちゃいけないし、と自分に言い訳して。

 

 エントランス・ホールからガラスの自動ドアを抜け玄関口を出ると、オフホワイトに塗られたまっすぐな廊下が延びている。窓のない、地下鉄構内のような通路だ。無機質なコンクリート壁を照らす照明が、やけに白々しく感じられる。

 てくてくと、ひと気のない通路を歩くにつれ、前方から少しずつ、さざ波のように喧騒がおしよせてきた。

 トンネルめいた通路の終わりは、あっさりとしたものだった。出口を出るとそこは、もう〈渦巻町〉だ。両側を建物の壁に挟まれた狭い路地が、まっすぐ伸びている。路地には、換気扇やエアコンの室外機が、通せんぼするように出っ張っていた。

 未練がましく振り返った。のっぺりとした暗色の壁に、出口だけがぽっかりとしろく口を開けている。そこを境に、二つの異世界がくっついているみたいだ。

 ため息をひとつつき、図書館へ続く口から目を引き剥がした。出っ張りをかわしながら、路地を前進する。漏れ出た蒸気か何かで、足下は少しジメジメしていた。小さな水たまりが、ちらほら出来ていた。

 一ブロック分くらいを歩いたところで、視界が拓けた。路地が、右から左にゆるやかにのぼる中通りメインストリートに直交したのだ。

 図書館を取り巻く外周部〈渦巻町〉は、〈ジッグラット構造〉とも呼ばれる。

 全体の造りは、横一文字にカットしたゆで卵で例えると分かりやすいかもしれない。黄身にあたる部分に図書館があり、図書館をすっぽりと覆う分厚い白身部分が〈ジッグラット構造〉だ。そして〈ジッグラット構造〉内に、人びとの居住区域や商業区域がある。ちなみに、中通りメインストリートを挟んだ左側(つまり内側)を通称〈左京区〉といい、右側(外側)を〈右京区〉と呼び習わしている。

 初めて渦巻町にやって来たとき、二十代のぼくは、かなり遠くからも見えたその威容に、少なからず圧倒されたものだった。今も同じだが、とうに廃墟になったビルや住宅が広がっている中に、にょっきりと屹立する渦巻町は、巨大でひどく不恰好な巻き貝のように映った。

 ぼくがまだ子どものころ、俗に、〈第二次東日本大震災〉と呼称される大地震があり、当時の首都・東京は甚大な被害をこうむった。さらに、地震直後に関東に上陸した超大型台風の影響もあって、いわゆる首都圏の一都七県(東京、埼玉、千葉、神奈川、茨城、栃木、群馬及び山梨)はいっとき、壊滅状態となった。その後、首都機能が関西に移されてから二十年以上経つ。

 いろいろないきさつがあったのだろうが、結論だけ述べるなら、関東地方は〈復興〉されなかった。〈選択と集中〉が合言葉の関西政権から見れば、旧首都圏は、リソースを集中する価値のない、無駄な選択肢であったようだ。

 もちろん今でも、関東地方に居住している住人はいるし、電力供給やその他のインフラが、全て政府からストップされたわけではない。ただ、この先もこの地域に人が住み続けられるかは、予断をゆるさない。政府の対応は、国際社会の人道的非難ーー自国民を見殺しにした云々ーーを恐れてのことにすぎなく、電力その他の供給がいつまで続くかは不透明だった。

 物理的に移動可能な場所であっても、過疎地や限界集落をあえて訪ねたり移住する者が少ないように、関東地方ーーとりわけ東京ーーに住む者は今や稀だった。かつてそこに住んでいて離れがたかった人や、関西に馴染めず流れてきた者たちがより集まって暮らしているのが、今の関東地方である。そして、災害に遭わなかった人びとのあいだでは、〈危険なところに、勝手に居すわっている奴らが悪い。そんな奴らに、わたしたちの税金を使うな〉という世論がまかり通っているのだった。

 あるいは、そうした世論を結果的に後押ししているのが、他ならぬ渦巻町の存在なのかもしれない、とも思う。日本中の都市を知っているわけではないけど、故郷の町と比べても、どうもこの町は他とは異質な気がする。妙な言い方だけど、どこか〈胡散臭い〉のだ。

 渦巻町を訪れた者は、町の入り口が、まがい物の古代神殿めいたゲートになっていることに、戸惑うだろう。まがい物といったのは、近づいてみればそのゲートに、大型ショッピングモールとかテーマパークの正面外観ファサードのような安っぽさーーあるいは気安さーーがあることがわかるからだ。

 この〈玄関エリア〉は、町でも一番最後に造られた部分で、実際に某テーマパークの手法が取り入れられている。ゲートは、石柱を模したモルタル造形に、エイジング塗装を施したものだ。

 ゲートをくぐった訪問者が、幅広のゆるやかな階段をのぼりきると、渦巻町本体へとつながる吹き抜けのアプローチが出迎える。

 アプローチは、誰かが気どって、〈表街道ストラーダ・プランシパル〉と名づけていた。左右にあるのは、ショップやレストラン、宿泊施設など。文字どおり、渦巻町を訪れる訪問者ビジターを迎える〈表の貌〉に相当する。その証拠に、アプローチの建物群は(これまた某テーマパークに倣って)強制遠近法が用いられ、奥行きが演出されているのだった。

 本当の、というか、渦巻町の普通の住民の生活空間が始まるのは、アプローチが広場フォラムに行き当たったところからだった。広場フォラムといっても、欧州の町にあるような住民の憩いの場所、人びとの公共空間のとはだいぶ違う。時計台も、噴水も、日陰棚パーゴラの下のベンチもない。強いていえば、田舎町の寂れた駅前ロータリーのミニチュア版といったところだろうか。〈渦巻町〉は、そこからスタートする。

 こうしたチグハグさ、普通の町並みと、流行の盛りを過ぎて廃園寸前のテーマパークを無理やり接続したようないかがわしさが、余所の人間に胡乱な印象を与える原因に思えて仕方がない。

 その広場フォラムから、右方向に伸びる中通りメインストリートは、上空から見れば、図書館を中心に反時計回りにカーブして、つま先上がりに続いていく。中通りメインストリートにムカデの足みたく接続して、脇道や細い路地が両側にのびている。町は基本的に一本道で出来ており、全体として、無駄にでかいアーケード街、つぎはぎだらけのパサージュといった風情だ。

 螺旋状の床版スラブはグルグルと上に巻きあがっていき、中の図書館の屋上を越えたところでいったん止まる(ここまでを元町オールド・タウンなんて呼ぶ)。

 その後、図書館の上にフタの様に被いがされ、その上にさらに階層が積みあがる。元町オールド・タウンより上の階層を中町ミッド・タウン、さらに上流階級用の最上層部を上町アップ・タウンという。

 この巨大な構造体が、どのような建築工法で造られ、過重や耐震にどう対応しているのか、ぼくは知らない。知っている者なんているのだろうか? 前世紀にヤン・ヴァイスというチェコ人が、石炭の廃坑で〈ソリウム〉なる金属物質を発見した。この〈ソリウム〉ーー鉄と同じくらい硬く遥かに軽いーーが、今世紀になって精製されるようになり、建築資材に転用されるようになってから、世界中で建築物の高層化が加速した。

 大きくいえば渦巻町も、この世界的な流れの中にあるのは間違いない。だが他と違うのは、何らの「都市計画」や「建築デザイン」に基づいて造られたわけじゃない点だろうと思う。行き当たりばったりに増改築された、いわば継ぎ接ぎだらけの怪物フランケンシュタインズ・モンスター、それが渦巻町なのだ。

 

 ぼくとスウが暮らしているのは、元町オールド・タウンの、図書館に繋がる通路のある階層だった。住んでいるのは〈右京区〉で、ここいらは連なる雑居ビルの部屋部屋に、商店や住宅が入り交じっている。ひどく雑多な雰囲気の場所だが、気になんてならなかった。むしろ図書館に近いところに住めて本当にラッキーだ、とぼくとスウは言い交わしたものだった。

 しかし、このときの帰り道はみじめなものだった。町の賑やかさが、よりいっそう疎外感をかきたてた。片道十数分の距離が、恐ろしく長く感じられる。スウのいない部屋など、自分の居場所とは思えなかった。

 土曜日の夕刻のこととて、大通りの街灯はオレンジ色の光を放ち、町はどこか休日に向けての、のんびりとした助走の気配を漂わせている。渦巻町はいわば巨大な屋内なので照明を変える必要はないのだが、こうしたフェイクの日照は、住民の生活リズムを作る上で欠かせないのだ。

 買い物袋をさげる家族連れ。食事へ向かう恋人。配達の電動三輪車は、通行人に接近を注意喚起するための疑似インバータ音を響かせて通りすぎる。肉屋の軒先から、美味しそうなコロッケの匂いがただよってくる。渦巻町には、地元にあったような大手全国チェーンの店舗はなかった。国内外から集まった人それぞれが、思い思いの店を構えている。東南アジア料理の放つピリッとした香辛料混じりの湯気も、中東由来の甘い揚げ菓子の香りも、すべてが溶け合っている。軒先のプランターの小さな花が、模造街路樹とあいまって、わずかなりとも人心を和ませる。

 そのあまりに日常的な風景は、ぼくに眩暈をもよおさせた。周囲が書き割りになったようで、まるで現実感がない。ぼくだけ、別の惑星に紛れ込んだみたいだった。

 往来の片隅で立ち止まる。顔を上げ、非現実的な感覚を振り払おうとする。

 元町オールド・タウンの〈空〉は、およそ建物の三階分ほどの高さに広がる、暗い天井だ。うねうねと集合離散をくり返す配管やダクトとパネルが、ひたすら連なっている。

 上層の上町アップ・タウンでは、天井一面が電子看板デジタルサイネージのように覆われていて、本物の空のように雲を映したり、時刻によって夕陽が見えたりするそうだが、ここでは無機質な灰色だけの世界だった。

 だがそれが、ぼくの〈現実〉への足がかりだった。

 感覚が戻るにつれてぼくは、自分が憤っていることに気づいた。意気地のない自分自身に。おなかが減り、疲れてすごすごと家に向かっている自分に。

 他ならないスウのことを、こんなにすぐにあきらめていいのか、お前は? お前のスウに対する思いはそれっぽっちか? そんなわけないだろう?

 自問自答しているうちに、ほんの少しだけ意地が出てきた。

 ぼくの住むアパートは、大通りの向こう側、渦巻町の最外縁部にある。外縁部は二ブロックあるが、いずれにしても、ここからそう遠くはない。

 しかしぼくは部屋に帰るのを取りやめ、大通り沿いの手近な店に飛び込んだ。

 図書館に居座ろうというのが、思いついた作戦だった。作戦といえるほどのものではないけど。店の棚を眺めながら考える。トイレくらいならばエントランス・ホールにある。水も洗面所の蛇口でまかなえるだろう。手持ちのリュックには、ハンドタオルと筆記用具、財布、携帯端末が入っている。あとは食べ物が手には入れば急場はしのげる。

 チョコレートやパンやビスケットを調達して、リュックにしまった。忘れずに、ミントガムも買った。スウの大好物なのだ。

 明日はバイトのない日だ。最低限、閉館時間の二十一時までまで、踏んばってみよう。

 ぼくは図書館へ引き返した。どこかの約束の地プロミスト・ランドに、ぴったりとはまっているスウと、再会するシーンを想像して。

 

 結論からいうならば、そのあとの十二時間で、ぼくはスウを見つけることができなかった。スウがいなくなって二十時間後、ぼくはついに図書館員に、法執行機関の出動を申請した。それがことの始まりだった。

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