第36話
螺旋【
意識をとり戻してまずはじめに感じたのは、強烈な咽喉の渇きだった。幾日か前までは飢餓感が勝っていたのだが、あっという間にとってかわられてしまっていた。
次に意識にのぼったのは痛みで、その源は主に背中だった。独房とは名ばかりの、窮屈なコンクリートの棺桶に後ろ手に縛られたまま横たえられ、不自然な体勢を長時間強いられてきたせいで、凝りの塊が、疼痛が背中にこびりついていた。ほんの少しでも姿勢を変えようものなら、それが飛びあがりそうな激痛になる。
そしてーー最後に感じたのは寒さだった。当初は鼻が曲がりそうな汚物の臭気が厭わしかった。それが自分の排泄物のせいかと思うと、より一層吐き気をもよおしたものだったが、もはやそれどころではなくなっていた。ただひたすら、冷たい床と、肌を刺し骨にまで達する冷気が体と心を苛むのだった。
ガチガチと歯が鳴っていたのもはじめだけ。今はその力もなく、身体からわずかな熱量が失われていくにまかせている。
k二四六号は、どれくらいここにいるだろうかと、ぼんやりとした頭で反芻した。
それはまだk二四六号が、リナ・ロメイの名で呼ばれていたときで、リナは二人の獄卒に挟まれ、〈逆さまの家〉の地下へと引き立てられてきたのだった。この地下部分は、特に衛生局の拘置施設として利用されていることをリナは知るよしもなかった。
獄卒たちは、通路でまったく口を開かず機械的に、野菜の皮を剥くみたいにリナの衣服をはぎ取った。そして、きつく後ろ手に拘束したあと、この簡易寝台ですらないただの狭い空間に押し込んだのだった。
食事も水も与えられなかった。リナは最初毒づき、次に哀願し、最後にすすり泣いたが、返ってくるものは一切なかった。圧倒的な冷気にもよおし、我慢に我慢を重ねたものの、耐えきれずついに失禁したとき、屈辱感よりも、股を伝う温かさになぜかホッとしたものだった。誰かに何かを喋らせたいとき、まず内面を不安と飢餓で屈服させ、それからおもむろに外面を痛めつける。緊急でない限り、市の機関では効率の良い方法とされている標準の手順であった。取り立てて対拷問訓練などしていないk二四六号にとっては、すでに地獄に足を踏み入れているのと同じであった。三日か、一週間か、十日か、頭の中で考えても判然とせず、そもそも意識すら覚束なくなってきていた。そんなわけであるから、獄卒に話しかけられたとき、k二四六号の内心に悦びが奔ったとしてもやむを得なかった。それが「明日の晩を楽しみに待っていろよ」という、陰気な嘲笑を伴った不穏な宣告だったとしても。
*
その音が耳朶を打ったのはおそらくは真夜中のことで、朦朧とした意識のもとk二四六号は、睡眠というたったひとつ残された安息に逃避していたのを破られて、不快さに苛立った。
独房の外で言い争うやりとりが聞こえ、やがて信じられないことに解錠を告げる重々しい響きがしたのだった。容赦のないライトの光芒に顔を射られて、k二四六号の目はたちまち眩んだ。そして否応なしに、いまやぬくぬくとした巣穴と化した独房から引っ張り出された。といってもおよそ尊厳などなく、モノのように床に無造作に転がされただけだったが。
「一体、どうしたあんべえで?」
「貴様の知ったことではない」
獄卒の不満げな問いとそれに対する返答が、遠い上空で交わされているのをぼんやりと感じた。
「このアマっこは、明日の晩に確実に〈処置室〉に連れてくるよう、
獄卒は、なおも得心いかない様子で言いつのる。
「ちと、確認させてもらうだにーーがっ!?」
意固地な態度の獄卒の声がゆがんだ。どさり、と重たいものが床にのびる。その気配にk二四六号は薄目をあけた。不明瞭な視界に焦点が結ばれ、分厚い唇から紫の舌をだらりと飛びださせた醜怪な容貌が映った。あまりの不気味さに、夢幻境をさまよっていたk二四六号の意識がにわかに戻ってきた。次いで頭を持ち上げらたとおもうと、衝撃で顔が熱くなった。頬を張られたのだ。
k二四六号ーーリナ・ロメイは、自分を抱きかかえている人物をようやっと認識した。
それはあの、灰色の男だった。リナに逮捕を宣言した巨漢である。
戦慄が背筋をつらぬき、反射的に逃れようと身をよじる。が、身体は万力のような腕に押さえつけられ、動かすことができない。
「声を出すな。危害は加えない。おれは味方だ」
凍りついた視線が、男のそれと絡まる。男の灰色の瞳はやはり虚ろだったが、いまやその奥底に微かに温度のようなものが見えた気がした。その温もりが急速にリナの心を落ち着かせた。見たことはないが、父親の眼差しというのはこういうものではないか、そんな場違いな感想をリナは抱いた。
リナが抵抗しないとわかり、男は拘束をほどいた。時間がないから詳しい話は出来ないが、と言い聞かせる。
「おれは協議会の工作員だ。
リナが当局に目をつけられているのを知った男は、先手を打って自ら率先してリナを確保し逃がそうと考えたのだという。
「逃げる? ここから出られるの?」
事態が飲み込めてくるにつれ、リナの瞳にしだいに力が戻ってきた。生き延びることができる! そう思っただけで、しなびた心に気力がみなぎるようだった。希望というのはかくも人を強くする。
「そうだ。立てるか」
男が肩を貸してリナを立ちあがらせる。長期間の拘束により、リナの体は衰弱していた。両足に力が入らない。うまくバランスがとれない。しかしリナは、必死で自分をコントロールしようとつとめた。この土壇場で弱音を吐く余裕などない。
「動けます。ーー動いてみせます」
男の口の端がはじめて、笑みのようなものを形作った。
「では行こう」
「待って」
不審な表情の男にリナがいう。
「あなたの、名前を教えて。お願い」
「……」
「ここから脱出できたら、いつでもいい、必ず会いに行くから」
「……」
「お願い」
おそらくは生きる
「わかった。必ず会おう。おれの名はーー」
ーーとここまでは、大方の読者諸氏の望む筋書きであろう。囚われの姫を救出する勇敢な騎士。浪漫的な物語の定型である。しかし事実は小説より奇なりであっても、必ずしも痛快な勧善懲悪を意味するとは限らない。
現実にk二四六号が連れ込まれたのは、地下の決して脱出することのかなわない冷たい牢獄であったし、〈灰色の男〉もまた、熱い血の
*
実際は、足がすっかり萎えてしまったk二四六号が無理やり連れて来られたのは、地下監獄のさらに奥にある部屋であった。
そこは窓のない無機質な印象の空間で、がらんとした広い内部にもかかわらず、淀んでいる空気は固形物のように重く、おぞましい恐怖の味がした。
真ん中にマットレスのないベッドが二つあった。金属がむき出しで簡素きわまりないそれは、天井の照明を反射して鈍く輝いていた。病院の診察台に見えなくもないが、より直截簡明には
二つのベッドのうちひとつは空で、傍らには、シートで覆われた背の高い塊があった。あたかもお披露目を待つ
もうひとつのベッドには先客がいた。無造作に横たえられているのは、全裸の男である。薄気味悪いほど青白い膚でそれが死体であることに気づき、k二四六号は、下半身がすうっと冷えて膝に力が入らなくなった。なおも目を離せないでいるうち彼女は、卒然と悟った。
引き摺られるようにさらに奥に運ばれながらk二四六号は、あれだけ異族の権利獲得を声高に主張していた議長が実は異族などでなくただの人間の男だったことに、奇妙な納得を感じていた。議長の頑迷さ、野蛮さこそ、人間である証左だった。
部屋の奥で立ち話をしていたのは、シスターと寺男の二人で、身につけた白衣が、吐き気をもよおすくらいよく似合っていた。命ごいをしようと口を開きかけたk二四六号は、あっさりと黙らされた。
「何も喋らなくってよくってよ。必要なことはもう充分に聞き出せたから。みんな気前よくお話してくれたわ」
シスターは、浮き浮きとした様子で目を輝かせた。
「このたびのお父様からの御褒美は本当に素晴らしいわ! 珍しいものがたくさん! 色々なことが試せる! ねえ、あなた、こちらはあなたのお友だちかしら?」
そういって、さも嬉しそうにシスターがキャスター付きワゴンから持ち上げたものを見て、k二四六号は絶叫した。それは、あの優しい一つ目族のワンの生首だった。それだけでなく、大きな白い翼は
そんなk二四六号の反応には委細構わずシスターは、意気揚々と話を続ける。
「ねえ、シンサイ。わたくし、こちらの可愛らしいネズミさんには、お父様に頼まれていたアレを試したいの。用意はできていて?」
「はい。すでにこちらに」
寺男は恭しく頷くと、例のシートに覆われた塊に近づいた。シートを取りはぐった。
中から出てきたのは奇妙な物体だった。ガラス製の
シスターこと〈
「ではさっそく、はじめましょう」
彼女は勿体ぶったりなどしなかった。真新しい玩具を前に、試したくて我慢できなくなっている子どもそのものだった。獄卒どもは指示どおりに、k二四六号を引っ立てていった。彼女は逃れようと必死にもがいたが、手もなく連行された。
ケースの前で寺男は、鈍重な見た目とは裏腹な、人体に素早くいうことを聞かせるすべを見せつけた。腹を鋭く小突かれたk二四六号は、息がつまって力が入らなくなった。腕をひねられ、自分の意志とは異なった体勢を容易にとらされてしまう。ガラス扉が開かれ、叩きつけられるように椅子に座らされた。獄卒が、すばやく彼女の腕と両足首と首に革のバンドを巻いて縛めた。無情にも扉が閉ざされた。
次いで寺男がうやうやしく掲げもってきたのは、まったく意想外のものだった。
一見するとそれは金魚鉢のような透明の入れ物だった。中は七分くらいが水で満たされ、そこに何かが浮いている。
〈
ほっそりとした指に挟まれて、グンニャリと
〈
はじめ、だらしなく床に広がっていたそれは、やがて、ゆるゆるとしかし明確な志向性を抱いて流れだした。いや、k二四六号の方へ、にじり寄りはじめたと言うべきか。あまりの不気味さに、
「厭厭厭厭厭厭厭厭……イヤッ! イヤアアッ!」
k二四六号は声の限りに叫んだが、一顧だにされなかった。少しでもそれから逃れようとジタバタと足踏みし、もがいたが、むろん身体を動かすことは微塵もかなわなかった。〈それ〉は、ジリジリ、ジリジリと緩慢ながら着実に、k二四六号に近づいてきつつあった。
嗚呼、それはなんと恐ろしくおぞましい身の毛のよだつ時間であったろう!
待ちかまえるk二四六号にとっては、地獄の責苦が永遠に引き延ばされたかのごとく感じたであろう。がそれは、人の心の不可思議がなせる業であった。なぜならば、〈それ〉はすでにk二四六号に到達しており、とうに、じわじわと体を這い登っていたのだ。彼女の脳髄は、現実を否認するあまりスローモーションのようにいつまでも「その時」を引き延ばしているにすぎなかった。実際は、〈それ〉は皮膚が触れた個所から瞬く間に身体の内部に浸透していった。表皮からでは時間がかかりそうだと悟るやいなや、ニュルニュルと伸びた別の一部が、鼻孔と耳孔から侵入し、また別の一部は、下半身の肛門や尿道や膣から侵略を企てているのだった。
接触した箇所から〈それ〉は、まるで実験でもしているかのように、あちらこちらでk二四六号との〈融合〉を試みていた。この局所的な未知との遭遇に、k二四六号の人格は崩壊し、脳髄は狂気の世界へ誘われた。ある種の事柄は、死そのものよりも恐ろしい。k二四六号は、死ぬことすらできなかった。安寧は与えられずに、彼女の精神は煉獄のなかを彷徨い続けた。
こうしたk二四六号の痴態を、〈
さんざんに
数日後、あらゆる反応がなくなってから、その他もろもろの生ゴミといっしょくたにされたk二四六号は、〈逆さまの家〉の地下空間のダスト・シュートに投げ込まれた。ダスト・シュートは、地の底まで届くような深い縦穴であった。帝都の下には、豊富な地下水脈とそれが穿った虚ろな空洞が拡がっていて、一度墜ちたら二度とは生きて這い上がれぬゴミ棄て場として、活用されていたのである。
まとめて棄てられたゴミのなかには、かの灰色の男ーーつまりは任務にしくじった役立たずーーの切り刻まれた欠片も混じっていたという。やはり彼の者も、この世界において、価値のない塵芥に過ぎなかったのであろう。
ーーここまで読んできて、いとも簡単に、残酷に、k二四六号ことリナ・ロメイが死んでしまったことに、読者諸氏の中には気分を害し、あるいは憤慨した方もおられるかもしれない。しかしすでに申し上げていたはずである。読めば必ず心憂い後悔するであろうと。警告は発せられた。「あなたが書物を選ぶのではない。書物にだってあなたを選ぶ権利があるのだ」と言ったのは、《すべての人のためであり誰のためでもない》という奇態な副題の書物をしたためた者の弁である。然り。お叱りを覚悟であえて申せば時機を逸したのは貴方の方ではないか? いや、というより寧ろ、貴方が本に選ばれてしまった結果が今なのではないか?
とまれ、ようやっと彼女らにも神の恩寵が、永遠の平安がおとずれたはずであった。
〈
*
〈
ゴミ棄て場は無明であり、聴覚こそがもっとも鋭敏に状況を知ることのできるすべであった。もっとも、見えたとしてもそれが、かつて彼が拾った女リナ・ロメイと気づいたかはあやしいものである。なんとなれば、墜ちてきたのは単なる肉片にすぎないのだから。彼は濁った意識の中、音のした方へ、ズルズルと我が身を引き摺っていった。
ゴミ棄て場には、強烈な臭気が充満していた。足の下は腐敗し、ドロドロに溶けた有機物の集まりだった。いたるところで、丸々と太った栄養過多な蠅が群雲のごとく舞い狂っている。それらが歩を進めるたびにまとわりつき、かき回され、より一層の吐き気をもよおす瘴気と羽唸りを拡散させるのだった。
だが、もはやヒトではない彼にとって臭いなど何ほどのものでもなかった。彼はもう以前の〈
しかし〈
このことが、彼にとって不運だったのか、幸運だったのか。
なまじ肉体と心がそろった完全体として蘇生したとしたら、真っ暗闇な地下で生き延びることは、かなわなかったろう。中途半端な蘇生であったがゆえに彼は、〈生き延びる〉ことができたのだ。死肉を漁る、おぞましい
斯様な無惨なありさまにもかかわらず、彼は二つの点において、生前と変わらぬ同一性を保持していた。ひとつめは、
その証拠に、見よ、あとに続けとばかりに、新しい〈食糧〉を求めて、ゴミ棄て場のあちらこちらから引き寄せられてくるおびただしい数の
しかし〈
今しも、やって来た
はじめに用意した〈材料〉は、たった今、墜ちてきた灰色の男であった。彼の者のバラバラになった四肢を集め、腐った血液で描いた魔法円に並べた。並べられた手足のパーツには、実は異族のものも人間のものも混じっていた。なあに、本人のものであろうとなかろうと構いはしない。蘇生者はそんなこと気にしないだろう。
もうひとつ、〈
〈
もしこの場所が明かりに照らされていたならば、迅速に展開されている奇っ怪な光景を目の当たりにできたろう。特殊撮影技術で作成された
当然、〈
そのあとに起こった出来事は、地下深くの空間で、あり得べからざることだった。不可思議な黒い稲妻がどこからともなく発生し、消毒液のようなオゾン臭を撒き散らした。
奇跡が成った。
女がーー上半身を、ムクリと起き上がらせたのである。女の身体には稲妻の残りが纏わりつき、髪の毛は逆立っている。とはいえ少なくとも、
〈
真に思いがけないことは、〈
女が
「ゾラ」と。
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