第34話
螺旋【
都心の一等地にあるそのナイトクラブは、当今の統制下にあっても大入り満員の盛況っぷりだった。それもそのはず、高級将校や裕福な資本家、旧貴族階級、政府高官など上流階級しか出入りできない高級クラブで、そこでは巷の物資不足が嘘のように、ふんだんに盛られたオードブルも、上等な酒やシャンパンも、ゆったりと流れる生演奏も思いのままなのだった。
クリスタル・ガラスの装飾電燈の下、蝶ネクタイを小粋にしめたウェイターが、銀盆に香りのよい葉巻を乗せ、フカフカのソファに沈み込んでいる客にすすめて回っている。奥の小舞台では、女装ダンサーが衣装のスパンコールを煌めかせて、うっとりするようなパフォーマンスを見せていた。
この高級クラブの女主人で年齢不詳の女装家ラザロフ夫人は、艶然たる微笑を浮かべてさる大物大臣に接客をしていたのだが、音もなく近寄ってきたフロア・マネジャーの耳打ちで、ぞくっとするような流し目を客に残し、中座した。
店の上階にある夫人の私室兼執務室に入ると、夫人は張りついていた笑みを落として、大きな寝椅子に縮こまってうなだれている貧相な娘をにらみつけた。
「ここには来るなと指示していたはずだけど」
怒りをふくんだ声はとげとげしく、元々の性別の名残でか低かった。
「
憐れっぽくならないようにしたつもりだが、リナの返答は打ちひしがれていた。
上流階級にしられたこの妖艶な
リナの前後する要領を得ない説明をいらいらと聞き入っていたラザロフ夫人は、
「これは容易なことではない。私だけでは……」
ラザロフ夫人は、すぐに支配人を呼びつけると、裏口に自動車を回すように申し付けた。
二人が黒塗りの車に乗り込んだ時分には、季節外れの氷雨が帝都をけぶらせていた。走り出したフロントガラスに、雨滴が銀弾のように弾けては流れていく。
夜間外出禁止令中のこととて、街路には民間車の姿はなく、政府関係か武装警邏の乗り物しか走れないはずなのだが、この黒塗りの車は政令除外対象に指定されているらしく、検問所でも停められることはなかった。それでも運転は追跡を避けるため同じ街区を行きつ戻りつしながら、じりじりと目的地に近づいていた。リナはすでに、自分がどこにいるのか見当もつかなくなっていた。
ようやっと車が停まったのは、とある墓地付きの寺院であった。周囲を睥睨する鐘楼を戴く聖堂に、リナは見覚えがあった。戦禍の起こるはるか昔に、異国から移り住んできた人々が作り上げた寺院で、以前は一般にも公開されていた。さしもの当局も、諸外国の干渉に口実を与えかねないとの配慮から、接収することも取り壊すこともできずにいる建物だ。ただし、おおかたの聖職者や信徒らは、一時退避の名目で本国に送還されており、今は堂守りとして建物を管理している者がわずかにいるのみときく。
車が、敷地を取り囲む煉瓦塀から完全に見えなくなってから、議長は裏口の質素な木の扉を押した。音もなく、それが開いた。あらかじめ知らせてあったと思われる。素早く辺りを見渡してから、内側にすべり込んだ。
敷地内は、植栽で鬱蒼としていた。黒々とした枝葉が、雨滴で不気味に耀いている。二人はそぼ降る雨を避けて、聖堂へと向かった。正面入り口ではなく、脇扉の呼鈴を、議長が引いた。長く一回、短く二回。すると、薄く開いた中から、手提げ
「シスターにお目通りを願います」
「……どちらから参られましたかな」
地の底から聞こえてくるようなしゃがれた声で、寺男がたずねる。
「東から」
「どの道をご利用されました」
「大きな道を」
「何をお持ちに」
「宝珠と聖杯と茨を」
暗号の会話だ、とリナにも察せられた。
「……お入りください」
無表情だった寺男の顔に、懸念が浮かんだ。中に通された議長は、わき目もふらず、ずんずんと進んでいった。リナも後に従った。
訪れる信徒のいなくなった聖堂の内部は、やはり荒廃の色を隠せなかった。金糸銀糸の織り込まれた壁掛けは煤け、聖器具たちの欠損も無残だった。寂とした雰囲気の中、聖堂の中央部、円天井の真下の祭壇に、跪いて祈りをささげている影があった。
「シスター……」
議長がかすれ声をかけると、うつむいていた影が振り返り、ゆっくりと立ちあがった。小柄で、ほっそりとした人物だった。議長が思い余ったように影に駆け寄る。影が議長を受けとめ、やさしく抱きしめた。
「まあ、どうなさったの、
温かみのある、女性的な声の持ち主だった。
「問題が、問題が発生して……」
うわずった調子で議長が訴えかけた。リナを振り返る。リナは立ち竦む。
「そう。こちらにいらして、お話を聞かせて……」
*
二人がみちびかれたのは、聖堂脇の螺旋階段をのぼった先にある小部屋で、シスターの居室にあてているスペースのようだった。二人は簡素なシスターの寝台に腰かけ、シスターは敷地の外をのぞむ小窓に立って話を聞いていた。
シスターは楚々とした物腰の尼僧で、頭をすっぽりと覆うダルマティカは洗い晒してはいたけど清潔感があり、むしろ彼女の清らかさを際立たせていた。
「いよいよ始まったのですね……」
「おそらく。〈
リナはさっきから不安な心もちで二人を見比べていた。経緯を離したあとに始まった話の内容が理解できずに、ドキドキだけが募るのだった。議長が、あなたのような末端には知らされていないのだけど、ともったいぶってから説明する。〈
「そんな……」
リナは絶句した。
「かくなる上は、
断固たる口調で、議長が言いつのる。
「ご決断ください、シスター。いえ、〈
リナは驚愕した。〈異族自由連絡協議会〉の上部機関〈少数者報告委員会〉の委員長にして、あらゆる反政府組織の頂点、正体のつかめない〈
「ですが、無辜の民を犠牲にするわけには参りません」
シスターが諭すように言う。
「その無辜の民が、我々を見殺しにしてきたのではありませんか!」
議長が激昂した。
「伊號、計画……?」
口をついて出た問いに、議長が忌々しげにシスターを見やる。シスターがうなずいた。
「いいでしょう」
「前世紀末、西の暗黒大陸奥地で発見されたヴィールスがある。そのヴィールスは〈黒い風〉ーー土地ではよく知られた風土病ーーを引き起こす原因であることが突きとめられている」
「〈黒い風〉?」
「
ウットリとした口調の議長。シスターが、修道服のかくしから、小さな硝子瓶を取り出して目の高さに掲げてみせた。瓶の中には、骨灰のような灰色の気味の悪い粉末が、半分ほど入っている。
「この中には、その
ゾッとなってリナは、思わず後ずさった。
「大丈夫よ。水に入れない限り、このヴィールスは不活性なの」
無知を憐れむように、議長がリナをみやる。
「螺旋市には、縦横に運河や水路が張りめぐらされているわ。それに一般市民は、まだまだ生活用水を井戸水に頼っている。そんなところにこの瓶の中身をほんの少しでも撒いていったら、どうなると思う?」
議長の双眸はギラギラと輝き、口ぶりは興奮でうわずっていた。リナは気分が悪くなった。この女も狂っている。腐りきった政府同様に。目的と手段を完全に取り違えてしまっている。
リナの知っている数少ない同士は、みずからが困窮しながらも、貧者や少数者を思いやり、必死に助け合おうとしている。所詮、議長は上つ方の人間だ。下々のことなど、真剣に考えてはいないのかもしれぬ。
だが一方で、あらゆる物事を焼き尽し、都市ごと
「〈
うつむく〈
「……」
〈
「己の大義に酔しれ無関係な
「は?」
議長が問い直す。
ゆっくりと上げた〈
「
シスターが昂然と言い放つ。
すると、思いもかけないくらい近くで応答があった。
「……そう思召さるな
いずこからかのその声は、小部屋に殷々と響いた。すぐにその源が知れた。ごとり、と鈍い音がして壁の一部が外れ、中から歪な影の寺男が姿を現した。
「な、な」
議長の狼狽えぶりは、甚だしかった。
「なによ! なんなのよ、アナスタシア! なんでそいつがここに入れるのよ!」
シスターは寺男と目配せをかわし、呆れ顔になると、あらためて冷え冷えとした眼差しを向けた。
「あらあら、まだ理解できないの? 本当に頭でっかちなのねぇ」
そうしてからかい顔になり、
「わたしはね、あなたのいう〈
「
「あらやだ、
その、調子っぱずれな、安穏とした会話にも関わらず、リナの背に戦慄が奔った。〈逆さまの家〉は通称で、中央広場に面した市庁舎と警察署に挟まれた小ぢんまりした建物だった。ずんぐりとした鳥が短い両翼を広げたようなかたちで、真ん中だけが三階建て、左右は二階建て。とんがり屋根には青い瓦が葺いてある。市の施設であったのを、今は各法執行機関共有の一時勾留施設として使用されている。が、優美な装飾のあった窓は漆喰で厳重に塗り固められており、内部では厳しい取り調べはおろか拷問が行われていると市民に信じられていた。
「嘘でしょ、ねえ、嘘と言って、アナスタシア!」
議長が、ほとんど絶叫するように言った。
「だからわたしは『アナスタシア』じゃないと言ったでしょう。ヒトは自分の信じたいことしか信じない、というお父様の言葉は当たっていたようね」
「お父……様?」
息も絶え絶えに、議長が問う。
「わたしの父は、ジュウハチロウ・セコウ市長よ。あなたたちの
そういってシスターことトヱ・セコウは、
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