第11話

神殿Ⅳ.

 

 この年の雨季は、国人が〈蛇の婚礼〉と呼び習わす、十年に一度の大雨季であった。

 例年であれば、一日の半分ほど降っては止み、止んでは降りをくり返す降雨がまる一日続き、それが連日に及んだ。しかもそのことごとくが、天の水瓶がひっくり返ったかと思われるほどの豪雨なのだった。

 ヤン河の流れは常にもまして濁り、水位は日増しに高くなっていった。ついにそのときが訪れた。〈大氾濫〉である。毎年の肥沃な土を運んでくれる恵みの氾濫とは様相を異にし、あらゆるものを押し流す、兇悪な奔流である。

 ネルガル神殿は、早い段階から流域に警告を発していた。それによって被害は最小限に食い止められ、人々の神殿への敬意はいやましたのだが、氾濫そのものを防ぐことができるわけもなかった。それは天の御業である。

 流域は赤黒い濁流に飲み込まれ、〈ルナルの丘〉は、ぽつんと浮かぶ離れ小島のようになった。ゼフィールが躊躇なく聖域を開放したため、船着場を中心とした小さな門前町の住人や近在の農民たちは、ことごとく丘に上がり難を逃れた。

 天候の異常はなおも続いた。大嵐がぴたりと止むと、今度は乾季でもないのに、灼熱の干天になったのだった。どこからともなく虫の大群がわきあがり、蠅、あぶぶよなどが、食糧と水のとぼしい人々を襲った。


「この役立たず!」

 権高けんだかな罵りを発したのは、神聖娼婦のひとり、リンドという娘だった。神殿にやって来てからまだ日の浅い者で、たちの悪い女衒によって北の高地から連れてこられた、金髪碧眼の少女である。おそらくもとは富裕な豪家の出であることから、今のわが身の境遇をどうしても受け入れられない、というのが周囲の評であった。

 悪罵を投げつけられたわたしはというと、神聖娼婦たちに混じって、炊き出しの手伝いをしていた。限られた水や食糧をどう配分するか、人々が角突きあわないよう各々の仮住まいをどう案配するかなど、やることは山のようにあった。ゼフィールはこうした差配においても大変有能な人間であったが、避難民のあいだで流行りつつある熱病に折悪しくかかっており、陣頭に立つことができなかった。伝令役としてサルマが出張っていたが、わたしも看病のあいまに、大巫女用の仮天幕から出て、諸々の作業に従事していた。しかし看病疲れもあったのか、煮ていた粥を焦がすという失敗をしてしまったのだ。

「穀つぶしのクセに!」

 口角に泡を飛ばし、吊り上がった目のリンドが突進してきた。

 突き飛ばされ、尻餅をついたわたしは、体の痛みにではなく、わたしを見ている者たちの冷ややかな表情に、不覚にも呆然となってしまった。

 疲弊した者たちのなかで、鬱屈とした思いが渦巻いているのは理解していた。が、それがこのようなかたちであらわれることまでは、予想できていなかった。どうやらわたしは、大巫女だった母の血を継いでいるだけでーーつまりゼフィールの姉であるというだけでーー特別扱いを受けている、無為の徒とみなされており、それがこの失敗を機に噴出したのだ。

 わたしがときどき姿を消すことも、人びとの不安と不満の眼差しを受ける原因となった。実のところ、大地母神ン・ナこと〈名付けえぬ神〉を祀る廟宇びょううの本体は、大神殿ではない。〈ルナルの丘〉全体ーーより正しくは、丘の内部に蟻の巣のように張り巡らされた〈地下迷宮〉ーーこそが、廟宇そのものなのだ。

 この地下迷宮の存在を知る者は、わたしとゼフィールとサルマだけであり、そのサルマにしたところで、迷宮内には一歩たりとも足を踏み入れたことはなかった。そこは神の領域であり、神の承認を得た者、つまり大巫女以外の者が入れば、二度と生きて出られないと云われている。たとえ避難の最中であっても、大巫女の勤めを怠るわけにはいかないわたしは、人目を避けて秘密の入り口から地下迷宮に出入りして祈りを捧げていた。確かにそれは、一人だけ怠けているように見えただろう。

 パシッ、という小気味のよい音がしたのは、そのときだった。

 いつの間にか、わたしとリンドのあいだに、モロクが立ちふさがっていた。リンドの頬を張ったのはモロクであった。場が凍りつくというのはこのことをいうのであろう。なんとなれば、〈神人は神聖娼婦にふれるべからず〉とういのが神殿での不文律であったからだ。

 モロクの声には、不思議と人の心を落ち着かせる響きがあった。そして、深い憐れみが含まれていた。上位の者が下位の者に示す憐憫とは異なる、もっと深い共感の色である。

「人を、何かの役に立つ、立たないなどという料簡で判じる考えは、お捨てなされませ」

 頬を押さえたリンドの眼から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。リンドは、子どものように大きな声であられもなく泣きじゃくった。彼女は不安と疲労にむしばまれていただけであった、というのを皆が承知した。その光景は、いたたまれないと同時に、人びとの心を浄化するものがあった。胸の奥底にしまい蓋をしていた不安や懊悩を、本当の意味でさらけ出すようになったのは、このときからだった。


 水が引くまでの一か月、丘に身をよせあった者たちは、老いも若きも男も女も、みな力を合わせ励ましあい、神に祈った。神殿に仕える者は、巫女も神人も懸命に人助けに奔走した。なかでもモロクの働きは素晴らしく、疲れをみせず、骨惜しみをせずに、弱った者たちの面倒をみた。彼が歌うと、いつの間にか子どもたちが集まり、人垣が生まれ、身分や立場にわけ隔てのない歌の輪が広がっていくのだった。

 床から起きあがれるようになったゼフィールは、一連の出来事をサルマから聞いた。モロクが神聖娼婦に手をあげたことの処分を巡って、あくまでも原則を貫き処罰せんとするゼフィールと、事態に鑑みて大目にみようと主張するサルマの不協和音は、ここに端を発する。

 これが、後々の大事へとつながることになる。

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