第10話

図書館4、

 

 その日のうちに、アパートのぼくの部屋に、市警の警官がやって来た。〈図書館警察〉の連絡を受けてのことだ。理由は定かでないが、渦巻町は行政上、《渦巻市渦巻町》になるらしい。したがって、図書館を除く渦巻町全域を管轄する法執行機関の名称は、〈渦巻市警察〉になる。

 四十年配の北東アジア系男性と、二十代半ばの東南アジア系女性の二人づれで、生活安全課失踪人係を名のった。〈図書館警察〉の双子警官に比べれば、ずいぶんと生活感ーーというより現実味ーーがある。

「恐れ入りますが、スウさんの私物を確認させてください」

 申し出を受けてぼくは、二人をアパートの部屋に通した。

 狭い玄関を入ると短い廊下があって、キッチンとユニットバスが並んでいる。奥は二間の和室で、手前を寝室兼収納スペース、奥をテレビや食卓のある居間にあてている。

 グエンと名のった女性警官が、スウが使っているクローゼットをのぞき、質問をしてきた。

「女性ものが、あまり見当たりませんが」

「彼女がこの部屋に来たのは一年前ですが、そのとき、ほとんど着の身着のままの状態でした」

「でも、そのあとで、服を買ったりしたのでは?」

「さあ、ぼくは女性の服装には疎くて……」

「スウさんの服で、なくなっている物があるか、わかりますか?」

 ぼくが曖昧な表情をみせると、彼女はやれやれ、といった顔で、クローゼットの下部に付いている抽斗にとりかかった。下着や靴下なんかが詰められているところだ。しばらくそこをいじっていたが、何か納得いかないのか、しきりに首をひねっている。

 居間を見ていたキムという男性警官が寄ってきて、ぼくにきいた。

「スウさんが、こちらにいらしたときに持ってきた、バッグとかトランクなどはありませんか。あるいは、お二人で旅行をされたことは? そのときに、使っていたバッグをご存じではないですか?」

「えっと、たしかグレーのボストンバッグを使っていたと思うんですがーー」

 ぼくは、心当たりの押入れを引っ掻き回してみたが、それらしいものは出てこなかった。

「バッグがあるかが、重要なんですか」

 ぼくの質問に、あくまで一般論ですが、と決まり悪そうに答えた。

「バッグやトランクがない場合、自分の意思で出ていかれた可能性が高いものでして……」

 その場合はつまり、荷造りした上での、覚悟の出奔しゅっぽんということになるのだろう。

 ぼくは、思わず顔が引きつるのを感じた。


 ひと通りの物色ののち、彼らは当然の要請をした。ぼくに、スウの写真を求めたのだった。しかしこれがまた、ぼくを悩ませた。

 じつは昨夜から、自分の端末に保存されている画像ファイルを必死になって覗いていたのだが、ピンナップはおろか、ツーショット写真すら見当たらないのだ。一つはぼく自身が、積極的に写真を撮る習慣がないことが原因なのだが、それにもまして、彼女が、自分から写りたがらなかったことに気づいた。

「一枚も、ですか」

 キムが首をひねる。そんなことがあり得るのか、という感想だろう。わからないではないが、ないものはないのだ。

 警官たちは、アパートの隣人にも話を聞くという。ぼくは、隣りの部屋の人の顔も知らない。だから、見当はずれのような気がしてならなかったが、もちろんスウに、隣近所との交流がなかったなどとは言い切れない。愛想がいいとはいえなかったけど、彼女は人嫌いではなかった。

 警官たちが去り一人残されると、なんとなくいたたまれなくなってぼくは、部屋から抜け出した。

 行くあてなどない。

 足が向くままぼくは、夕方の町をさまよい歩いた。ぼくのわきを、家族連れや仕事帰りの会社員、あるいは、電動モーター駆動の単座二輪、単座三輪車、複座四輪が行き交う。

 ぼくの足は、自然と〈うずまきパーク〉を目指していた。

 〈うずまきパーク〉は、ジッグラット構造周縁部に、まとわりつくように作られた屋外外周道路だ。〈渦巻町〉の同心円は、内側から〈左京区〉、中通りメインストリート、〈右京区〉となっているが、外壁で覆われているのは〈右京区〉までだった。誤解を恐れずにいえば〈うずまきパーク〉は、この階層の外壁に貼りついた、高所作業用足場通路キャットウォークみたいなものだ。そこに土を入れ木を植え、遊歩道を造ってある。

 ぼくとスウはよく、町の外側をぐるぐると、ただひたすらに散歩し続けたものだった。〈渦巻町〉の断面はいびつな円形で、おおよその直径は1.5キロメートルほど。いくら運動不足のぼくでも、だらだらと周回するだけなら一時間ほどである。

 外周道路の遊歩道には常夜灯が立ち並び、夜間は暗い小路を照らしている。夜風が、道に沿って植えられたソメイヨシノの梢を鳴らし、その冷たさに、ぼくはいまが秋口であったことを思いだす。

 渦巻町の周囲に、灯りはほとんどない。わずかに、流民の焚き火とおぼしき光点が見えるだけだ。関東は、とうに寂れたいち過疎地域に過ぎないということが、まざまざと感じられる風景だ。

 黙々と歩きながらぼくは、沈思していった。

 はじめに言葉があった。

 といったら、聖書のパクリになるだろうが、事実、〈渦巻町〉の核となったのは言葉の集積ーー〈図書館〉である。

 図書館の原型は、第二次東日本大震災のせいで、作りかけで頓挫したタワーマンションだった。それを買い取ったのは、冒険家にして実業家としても財をなした、日本人マゴシチ・オリタケ氏だった。

 オリタケ氏が、どのような理念を抱いていたのかーーあるいは何も抱いていなかったのかーーは今となってはわからない。が、事業で築いた財を、国内外の紙の本を収集し、せっせと詰め込むことに費やしたのは確かだ。

 そのころこの地域は、暴徒化した難民や、流入した人びとでいっとき、無法地帯のようになっていたらしい。新生政府は、東京を避難区域に認定していたが、幹線道路をバリケードで塞いだわけでもないため、人の出入りは制限できない。

 震災後、多くの人々は首都圏を離れ、新首都やほかの地域へと移っていったのだが、住み慣れた地域に自分の意思で残る者、あるいは諸々の事情で残らざるを得ない者、そして一旦離れたがまた帰ってくる者が集まって、混沌とした状況だった。

 当時、元いた土地を離れたはいいが、上手く住居が確保できず、仮設住宅に押し込められた人びとが多かったという。それらの人びとは、仕事などの生活基盤が整わないまま、仮設住宅で過ごすことを余儀なくされた。結果、周辺住民やSNSでこうした人びとを監視しているユーザーに〈無駄飯ぐらい〉とみなされ、難民蔑視に苦しんだという。

 奇跡的に職にありつけても、低賃金かつ重労働の仕事しかない。そして、そうした人びとに対して世間は、〈実力のないあなたが悪いんでしょ、あればまともな職に就けるはずだから〉と嘲笑を浴びせた。斯様な扱いが嫌になり、関東に戻る者がかなりいたのだった。

 こうした状況のなか、すでに病床に臥せっていたオリタケ氏は、自らの地所を解放し、難民や出戻り組を受け入れ、居住することを許した。但しそこには、ひとつ条件が付されていた。

 それが、図書館には指一本ふれずに、そのままの形で守ることだった。

 難民たちに否はなかった。当時ですら、過去の遺物である紙の本に触れようという者など、いなかったのだ。こうして難民たちは図書館を囲むように町を造った。町はまたたく間に増殖し、天に向かってジッグラット状に積み上げられたのだった。

 ぼくは、つと立ち止まって、ソメイヨシノの一本に触れてみた。ごつごつとした黒い地肌の感触が伝わってくる。春になるとソメイヨシノは、見事な花をつけ、自然に縁遠い渦巻町の住民の目を楽しませる。

 しかしぼくたちは、花の咲き誇る時機ではなく、はらはら、ほろほろと散る花びらで、緑道が薄いピンクに染まるのを待ち遠しく思ったものだった。

 もう二度とここを、スウと歩くことがないかもしれない、そう思った途端、通いなれた道が暗い闇路に変じたように思えた。


 次に市警の訪問を受けたとき、ぼくは前日の悪い予感が的中したのだと感じた。警官たちの顔が、心なしか険しいように思えた。

「いくつか確認したいことがありまして」

 女性警官グエンが、胡乱な目を向けてきた。

「この部屋の契約によると、住人はあなた一人だそうですね」

「ええ、そうですけど」

「そこに、えー、スウさんがやってきて同棲を始めたと。時期はいつからですか」

「一年ほど前です。……昨日も話しましたけど」

「一年前、ですか」

 警官たちは、意味ありげに視線を交わした。なんとなく嫌な雰囲気がした。

「いったい何なんです。どんな意味があるんですか」

 苛立ちがつい、強い口調となってあらわれた。

 キムのほうが、じっとこちらを見つめて、いえ実はね、と口を開いた。

「こちらのアパートの住人の皆さんに、聞き込みをしたのですがね、そのスウさんですか、彼女を見かけた人が、一人もおらんのです」

「は?」

「スウさんは小説家で、部屋から滅多に外出しなかったと、買い物なんかも宅配サービスか、あなたが出かけていたんですよね」

「それも昨日言いました。そりゃ、都市部だったら、そんなこともよくあるんじゃないですか。ぼくだって、隣りの人の顔もわかりまんよ。そんなことより、彼女の仕事先はどうだったんですか。ローレル夫人に会ったんでしょう」

「それなのですが」

 グエンが手帳をめくる。

「おっしゃる通り、〈サロン〉と呼ばれる会合はありました。そちらで、あなたがスウさんのペンネームだとおっしゃった《江川蘭子》という作家も、よく取り上げられていたそうです。しかしですね、私たちが確認したところ、《江川蘭子》というのは、当の〈サロン〉の主催者であるエリザベス・ローレルさんのペンネームなんですよ」

 おそらくぼくは、馬鹿みたく口をぽかん、開けていたに違いない。それくらい警官たちの言っていることは理解不能だった。

 ぶうううううううん……という羽唸りがまた、耳元で響く。

「ーーローレルさんは、震災前からこの地域にお住いの方です。会社役員でいらした緑川氏とご結婚され、日本に帰化されました。で、被災してご主人が亡くなられた後、この〈渦巻町〉に入られた。会社ーー失礼、わが署内にも何人か知り合いがいましてね。身元と証言の信ぴょう性は折り紙付です」

 キムが引き取った。

「われわれは幾つかのデータベースに検索をかけてみました。運輸局の免許証とか、住民登録とか、納税者番号とかね。残念ながら、あなたの言うスウ・ローという人物に該当する名前はヒットしませんでした。つまりねーー」

 スウ・ローという人間は存在しないんですよ、そう引き取った警官の声が、低く低く、なっていく。いや違う。

 気が遠くなっているのは、ぼくの意識のほうだった。

 

 警官たちが、憐れみとも侮蔑ともとれる眼差しーーぼくにはそう感じられたーーを残して帰っていったあと、昏い部屋でひとり、メダカ水槽の青い灯りだけで過ごしながら、ぼくは震える心と戦っていた。スウ、スウ、ぼくが好きだった女性。彼女はぼくの狂った頭が作り出した、幻だったのだろうか。ベッドに染みついた匂い。小さなアクセサリーボックス。ローズのパヒューム。これらの小物を求めたのは、ぼく自身だったのか。

 ハッ、とぼくは思いついた。そうだ、彼女は小説家なのだ。ぼくとは違う、正真正銘の。

 それからはひと騒動だった。

 とにかく部屋の物という物すべてを、ひとつひとつ検めていった。クローゼット、押入れ、本棚、トイレやキッチン、ゴミ箱ですら。

 ぼくは覚えている。スウが、あえてプリントアウトした原稿にペンを入れて推敲していたのを。ノートやメモ帳に、アイディアを書き留めていたのを。彼女の、クセのある右上がりのとがった文字を、ハッキリと浮かべることができる。

 それは、本が積まれた部屋の片隅に押しこまれていた。ごく普通のノートで、グレーの表紙にマジックで、そっけなく『螺旋』と書かれていた。おそらく、仮のタイトルだろう。ぼくの手は、緊張のあまり震えていた。ジーンズで、ごしごしとこすって少し感覚を取り戻してから、ページをめくった。

 文字がそこにあった。

 どこか懐かしいーーほんの数日のことなのにそんな風に感じるのは奇妙なことなのだろうけどーー温かい安堵感と、胸がしめつけられるような切ない感じがないまぜになって、ぼくを包んだ。

 ぼくたちはもはや、肉筆で文章を綴るような生活形態を送っていない。彼女の筆跡に関するぼくの記憶だって、怪しいものだ。だからこんなノートだけでは、スウが確かに存在しているとまではいいきれない。

 それにーー。

 ノートの中身を読んでぼくは、かなり困惑していた。

 字はともかく、彼女の文章は、こんなに稚拙なものではなかった。ずっと華麗に言葉を操っていた。ノートに記された書き出しには、ぼくが心密かに嫉妬した才能の、片鱗もうかがえない。

 それでも、少なくとも、これを書いたのはぼくではない、という事実が、ぼくをアイデンティティ・クライシスから救い上げる助けにはなった。ノートの文章は、こんな風に始まっていた。


《唐突に、奇妙に甲高い、バンシィの咽び鳴きのようなサイレンが響きわたった。反射的に、路面電車は、ジリリリリン、とけたたましいベル音をたてて急制動をかけた。

 吊革につかまっていた乗客たちが、勢いを殺しきれずに、いっせいに傾いた。隣の紳士の肩がリナの肩に触れ、リナもまた、悲鳴をあげて倒れた少女に、躓いた。

 車両は、咳き込むように止まった。》

 

 でも、どうすればもう一度、彼女に会えるだろう?

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