第44話
図書館17、
翌朝、ぼくは熱発した。
ひどい悪寒にみまわれ、二度ほど嘔吐した。頭が割れるように痛い。身体に力が入らない。自力で病院に行くこともかなわない。アルバイトのシフトが、もとから休みだったのが、不幸中の幸いだった。
昼すぎまで泥のように眠って、午後になってようやく、布団からはい出ることができた。立ち上がると、少しふらふらする。狭いキッチンで、水道の蛇口から直接水を飲んでいると、インターホンが鳴った。しんどさのあまり無視しようかと思ったが、宅配業者だったら気の毒だと思い直す。倉庫でアルバイトしているので、ドライバーの苦労については、よく聞いているのだ。
「ちょっとお待ちください……」
ドアスコープをのぞくという、いつもの動作すら、おぼつかなかった。かすれた声で応えると、玄関ドアを開けた。不用心極まりない。開けた瞬間、勧誘とか訪問販売じゃなければいいな、という思いが頭をよぎる。斜めに射し込んだ午後の陽射しに、目を細める。
「具合はいかがかね?」
そこには、ジャケット姿のコシロが立っていた。
*
「だいぶマシになりましたよーー」
インスタントコーヒーのカップを提供しながらぼくは、コシロが差し出した風呂敷包みを、ありがたく受けとる。風呂敷の中身はタッパーで、母君が詰めてくれたお粥やお惣菜が入っていた。食事を用意する気力がわかなかったぼくは、よくよく感謝する。さらにコシロは、ビニール袋もぼくに寄越した。中身は、商店街の八百屋で売っているフルーツゼリーだった。至れり尽くせりではないか。
来客応対に布団を片付けたり、お茶の用意をしていると、身体の辛さから意識が逸れたのか、少し気分が上向いてきた。
コシロは、美味しそうにインスタントコーヒーをすすって、体調不良の原因は、薬剤の後遺症だろうね、と言った。
ぼくをあのビルに誘き寄せるためトヱ嬢は、いろいろな手管を用意した。その手始めは、商店街で受け取った例の清涼飲料の試供品だ。ジュースには(もちろんぼくのカップにだけ)すでに薬品が混入しており、それが判断力を著しく低下させた。そうしておいてから彼女は、スウの格好をして、ぼくの前に現れたのだ。
そしてあのビル。あのビルは、見えている間口よりも奥行きがずっと長いのだという。そこにさまざまな仕掛けをほどこして、方向感覚や距離感覚を狂わせるようにしている。音、光、闇、臭い。それ自体は〈パノラマ〉の仕掛けの範疇だろうけど、ビルではそのうえ、薬剤を噴霧する設備が見つかったらしい。つまりぼくは、適宜、薬剤を摂取され続けていたわけだ。ひどい体調になったのはそのせいではないか、とコシロはいう。
「悪かったね。ちゃんと医者に連れていけばよかったな」
「いえ、なんともないから帰ると言い張ったのはぼくのほうなんで……」
「いや、もっと強く勧めればよかったよ。まあ、なんでそこまでして彼女が、キミを或乱させたかったのかは……例によってボクには読み解けないのだけど」
ぼくはおそるおそる、自分のコーヒーを口にする。思ったより悪くない。嘔吐感もこみ上げてこないし、味もわかる。ぼくは、意を決して口火を切った。
「それで……何かぼくに報せることがあったのではないですか?」
キミ、鋭くなったんじゃないのかい、とコシロは、褒めているのか、けなしているのかわからない感想を述べた。
「察しのとおり、急に外出が楽しくなったわけじゃないーー」
幾つか知らせておいたほうがいいだろうと思うことがあってね、と言うとコシロは、珍しく続きをためらった。こうして、わざわざ出向いてきてくれたのだ。いくらぼくが鈍感でも、予想がつこうというものだ。
「彼女のーースウの調査を中止にするつもりですか?」
コシロはしばし絶句したが、やがて諦めたように、ため息をついた。
「ああ。たぶんそうなるだろう。申し訳ないが」
*
「あの秘密の小部屋に、スチールのキャビネットがあったのを覚えているかな? 鍵がかかっていて、中身が見られなかったものだ」
ぼくはゼリー菓子をコシロにも出して、一緒に食べながらうなずいた。食欲はあまりなかったが、甘酸っぱくのど越しのいいゼリーは、抵抗なく食べられた。
「専門家が鍵をこじ開けたところ、中から
「トロフィー?」
「つまりーー」
コシロの言う〈
小部屋から発見されたおびただしい品々は、一見したところ、関連性のない雑多なコレクションだった。プラスチックの髪留め、清涼飲料水のペットボトル、コンサートチケットの半券、使いかけの消しゴム、ハンカチ、手鏡、老眼鏡、ブラシ等々。中には、二十年前の日付の古い手帳まであった。そのとりとめのなさは、カササギが興味のおもむくままに、光り物を巣に溜め込んだようである。
〈図書館警察〉はそれらを、科学捜査研究所に託した。すると幾つかから、指紋や毛髪由来のDNAが検出された。科捜研が、それらを法執行機関のデータベースと照合すると、収集品の中に、過去の未解決事案の被害者のものと一致する証拠が含まれていることがわかったのだった。
もちろんこれだけで、セコウ氏の〈告白〉の裏付けとは、ならないだろう。しかし、あの狂気じみた〈告白〉の信憑性が、にわかに高まった。少なくともザロフ警部はそう感じたようだ。
警部は、すべての証拠をまとめて、市警に委ねる決断を下した。〈容疑者〉が〈図書館警察〉の関係者だからである。
「まだはっきりとは言えないが、警部は近々、重大な決断を下すことになると思う。おそらくーー〈図書館警察〉は解体されるだろう」
コシロは、淡々と言い足した。
〈図書館警察〉は、オリタケ氏が〈図書館〉の自治を目的として、特例的に認めさせた委託警察だが、かねてより、市警との合併が企図されていた。オリタケ氏の死後それを阻んできたのは、セコウ氏だったが、今や名実ともに障害がなくなったことになる。
ぼくにとってもそれは良い結果になるだろう、とコシロは続けた。セコウ氏が行った一連の犯行のひとつとして、つまり、はっきりと事件性のある事案として、スウの失踪が引き継がれる可能性が高いからだ。コシロや警部も口添えをしてくれるという。つまりスウの捜索は、正式に事件化される。
「いずれ、市警の誰かがあらためて事情を聞きにくると思うけど、優先度の高いケースになることは、間違いないだろう。直近の事件だし、
昨夜トヱ嬢が着ていた服装に関しては、ぼくはすでにスウの私物と証言していた。この先、法医学なり何なりで吟味され、正式に証拠と認定されれば、捜査の重要な推進力となる。
「今回の件は、ボクにとってもいい機会になった。母上にもこってりと絞られたし、もう探偵の真似事は卒業するかな……」
ぼくたちの会話は、途切れがちになった。スウの失踪が法執行機関の受け持ちになるならば、もはや自分の出番はない、とコシロは見なしているようだった。実際そうなのだろう。ことは密室だの、首無し死体だのといった探偵小説まがいの事案ではない。ましてや、スウが図書館外、あるいは渦巻町の外にいると判断されれば、必要なのは〈灰色の脳細胞〉ではなく、時間と人員を使った広域捜査になる。それもこみでコシロは、探偵の引退をほのめかしているのだ。
頭ではそう理解していたが、感情がついていかなかった。有り体に言えばぼくは、コシロや母君と離れがたい気持ちを抱いていた。もちろん友人として彼らの許を訪れることは、これからだってできるだろう。でも、相棒まがいなポジションで一緒に行動することは、もうなさそうだった。いつの間にかぼくは、コシロを大事な友人とみなしていることに気づいた。
コシロにとってどうだかは、わからないが。
沈黙が落ちた。
まるで、ぼくの胸の裡を見透したみたいだった。コシロが、だからこれは依頼人と探偵としてではなく友人として話すのだけど、と断りを入れた。
「ボクが、どうして探偵の真似事を始めたのか教えたかな」
と呟いた。
「いいえ」
コシロは、しばらく考えをまとるようにゼリーを食べるのに使ったティースプーンを弄んだ。そして、おもむろに話し出した。
「ーー知っての通りボクは、探偵小説を幾つか書いている。小説のなかの探偵は、あくまでも作劇上の〈装置〉だ。謎を解くためだけの役割さ。基本的にはね。だけど、ふと思ったんだ。作家が作った人工の迷宮と、現実の事件の迷宮を解くことに、どれだけ違いがあるんだろうとね」
インスタントコーヒーを、ひと口啜った。
「もちろん小説上の謎解きは、あくまでも自作自演で、現実世界の〈事件の解決〉と別物なのは先刻承知さ。だけどーーどう言ったらいいかな。……昔からこんな考えが頭から離れないんだ。さっきは便宜的に〈解く〉と言ったけど、実際は、探偵の役割は〈語る〉ことじゃないかと思っている。つまり探偵の仕事とはーー物語内であれ現実世界であれーー〈先行する物語を、語り直すこと〉にあるんじゃないかって。言ってみればボクは、探偵として事件に参入したかったわけじゃなくて、作家の立場で取り組もうとしたんだーー」
よほどぼくは、怪訝な表情になっていたようだ。
コシロは本腰を入れてしゃべる。
「何を言っているんだ、と思っているのはわかる。現実はあくまで現実で、物語は物語にすぎないって言うんだろう。でも、ボクにとっては、その二つは非常に近しい事柄だったんだ」
ぼくは以前、コシロがしゃべっていたことを思い出していた。《われわれだって、何者かによって動かれているキャラクタにすぎないかもしれないよ》《この世界が、誰かの作り出した〈物語〉の中じゃないと、言い切れるかね?》。
そのような現実感覚の中で暮らしていることが、コシロにとって生き易いことなのか、生きづらいことなのかはわからない。ただ、前者であったら良いな、と漠然と思った。
「ボクは一介の物書きであって、批評行為や文学理論は手にあまるのだけどーーある研究者によれば、探偵小説の本質は、〈事件の真相をなす物語〉と、〈それを解明する物語〉の二重性にあるという。探偵小説では、すでに完結した事件の解明が探偵によって語られる。ちなみに前者の〈謎として解明されるべき物語〉を〈
「……」
「これは謙遜や韜晦で言っているんじゃない。本当に〈たまたま〉だったのさ。それが今回の事件で、はっきりと露呈した。ボクたちがあの部屋で遭遇した事どもや、あの動画でセコウ氏が語ったことは、ボクの想定を遥かに超えていた。小説の喩えを使うのは、ひょっとしたらキミは不愉快かもしれないけど、こんな風に言えば理解しやすいかもしれない。〈ジャンルが違った〉と」
「……」
「当たり前すぎて誰も言わないけど、探偵小説には前提がある。それは、〈
彼の言葉にどこか悲痛な響きを感じて、ぼくは口を挟んだ。
「コシロさんは、謎を解いたじゃないですか。ぼくの命も助けてくれたし」
「いや、キミと母上が聞いてきたヒントがなければ解けなかった。たとえばこの場合のヒントとは、あの三姉妹の言葉だ。でも何より問題なのは、なぜトヱ嬢があの姉妹に加わったかだよ」
「それは昨夜、説明してくれたじゃないですか」
「説明はしたさ。いや、ひとつの解釈を〈語った〉というべきだろう。だが、なぜ彼女があのタイミングでやって来たのか? そして、あのヒントを口にしたのか? 本当のところはわからないままだ。彼女が示した三つ目のヒントがなければ、たどり着けなかったというのに。まるで……」
「まるで?」
「まるで、〈そのためだけに登場したキャラクター〉みたいじゃないかね?」
秘密の通路の探索のときにも、そんな話をした覚えがある。〈偶然〉や〈暗合〉は、ミステリーでは忌み嫌われているが、それ以外の物語では重要な要素だ。フィクションの世界において、〈運命的な出会い〉や〈おそるべき因縁〉にはことかかない。むしろ、必要不可欠な要素だったりするのだ。どれだけ〈ご都合主義〉をなじったとしても、そこから得られる感動を否定しきることは難しい。
「……」
「あるいは、こんな風に言い換えることもできる。さっきみたいに、〈反則だ〉と感じるからには、裏を返せば、〈物語にはルールがある〉とボクたちはどこか思いこんでいる節があるわけだ。だが、あらためて考えてみて欲しい。物語に〈ルール〉なんてあるんだろうか? それは批評家きどりのボクたち読者の
「……」
「探偵は謎を発見し、真相を創造する。現実世界は、確かに物語とは違うかもしれない。ただそれは逆説的に、探偵の解明が真理かどうかは、現実世界でも保証されないことを意味するようにボクには思える。少なくとも〈作者〉じゃない、メタレベルに立つことの出来ないボクたちには、それを担保する術はない。ボクたちに出来ることは、物語ることだけさ。陳腐な結論だって? ああそうさ。だがどれだけ陳腐であったとしても、真理である以上、ボクたちはそれにしたがう他に術はない。だからーー」
コシロは身を乗り出した。
「唐突かもしれないが、ボクはキミが、スウさんのことを描くべきだと思う。どんな物語だってかまわない。もちろん捜索は継続すべきだし、彼女のことを忘れろと言っているわけでもない。〈過去にとらわれずに未来を見ろ〉と他者は簡単に言うけど、同意できない。今のボクたちを形づくっているのは〈過去〉の積み重ねそのものだからだ。だけど、その同じ〈過去〉を素材にして、ボクたちは何度でも語ることができる。〈ルール〉になんて縛られる必要はない。自由に語っていいんだ。これもまた陳腐な表現になるが、それが〈未来〉を創造することだ。あるいは、少しでも先に進むための足場を創ることだ。だからボクは、キミが思うスウさんの物語を、キミ自身が物語るべきだと思うのさ。そうじゃないかい、
コシロの声は、このうえなく優しく、しかしはっきりとぼくの耳を貫いたのだった。
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