第21話

神殿Ⅶ.

 

 真っ先に頭をよぎったのは、誰が、どうやって、という疑問だった。誰が、はもとより、どうやって、が重要なのだ。この大神殿の奥で、何者にも見とがめられずに凶行をなすのは、容易いことではない。

 マナンの喉は、無惨に切り裂かれていた。石榴のように開いた傷口からは、まだじんわりと鮮血が滲み出て、鮮やかなはずの織り布を、朱殷しゅあん一色に染めている。生臭い金気が、空気に混じっている。わたしは戦や武芸に明るくはないのだが、あの屈強なマナンが一刀のもとに頸を断たれているように見える。

 これらを考え合わせれば凶行の主は、そこらの謀叛人や破落戸などではあり得ない。手練れの暗殺者の仕業と思われた。

 わたしは、そっとサルマに一瞥をくれたが、すぐにその疑念を振り払った。身びいきではない。確かにサルマはマナンを嫌っていたが、もっとも怪しまれる状況でことを為すほど愚かではない。それに彼女の面貌に浮かんでいる驚愕は、本物だった。

 そのサルマが、何かに思い当たり、さらに目を見開いた。そして脱兎の如く駆け出していった。

 言葉を発していなくても、彼女が何を考えているのか、わたしにはありありと共感できた。特殊な力など必要ない。単純な推論だ。部屋の入り口では、マナンの近習が将軍を待って控えている。つまり下手人は、隠し通路を使って謁見の間に出入りしたのだ。そして隠し通路の秘密を知る者は五指に満たない。わたしとゼフィールとサルマだ。ゼフィールにできたとは思えない。サルマはわたしとずっと一緒だった。さらにマナンを殺害できるほどの手練れとなると……。

 わたしは、ほとんど確信を持った。マナン将軍を殺害したのは、モロクだ。

 両膝がガクガクと震え、全身の力が抜けていった。見えない鉤爪で身を掴まれたようなその感覚は、まぎれもなく恐怖であった。

 何で気がつかなかったのだろう。

 来し方のあれやこれやが、目まぐるしく想起された。

 初めて会ったとき、確かにモロクから邪な気配を感じなかった。だがーー。

 その答えにわたしは、遅まきながらたどり着いた。彼の真の任務は、強力な魔術だか催眠術だかによって、心の奥底に封じ込められていたのではないか。ひょっとしたらモロク自身すら、記憶から密命を消し去っていたのかもしれない。あるいは本当に自分を、申告どおりの人間であると信じていた可能性もある。そうした記憶ないし人格の封印が、所与の条件ーーたとえば帝国の侵攻ーーに合わせて解けたのだ。 

 斯様な心の操作を行う業があることを、わたしは知っていた。なんとなれば、自分自身が用いたことがあるからだ。ゆえにこの失策の要諦は、方法そのものではなく、そのあからさまな謀略を、みすみす見逃していたわたしの心の隙間にある。

 すべては仕組まれていた。だが、真の問題は、わたしが愛ゆえにーー私的な執着ゆえに、この眼を曇らせたことにあるのだ。

 わたしは蹌踉そうろうとなって、玉座に寄りかかり、その場に崩折れそうになるのを、必死でこらえた。悪寒が背中を通り抜け、立て続けに嘔吐感に見舞われた。必死に酸っぱいものを呑み込む。奔流のように大量の感情が溢れ、わたしの心を揉みくちゃにし、押し流そうとしていた。

 そのまま流されてしまえれば、どんなに良かったろう。だが、そうはいかなかった。

 ひとまずは、この場を切り抜けなければならない。わたしは歯をくいしばり、何とか冷静さを保とうと努力した。意識的に深呼吸をした。水中に閉じ込められたかのような、今にも破裂しそうな胸の拍動を、無理やりに押し留めようとした。

 必死に思案を廻らせる。

 将軍の死が、いずれ露見するのは必定であろう。だが今はときを稼がねばならない。

 わたしは意をけっして、取りかかった。

 

 とうてい上策とはいえなかったが、やむを得なかった。

 わたしは伝声管の仕掛けを使い、身体の空いている神聖娼婦を呼びつけた。部屋の出入り口で頑張っている将軍の近習に、あてがうためである。

 さすが我が手足のごとき神聖娼婦である。言葉巧みに、自身が将軍の采配で部下に供されたと信じこませると、たちまち懐柔して別室へ連れ出した。

 上手くすれば半刻ほど、近習たちの耳目を眩ますことができる。

 男どもを追い払うことに成功したわたしは、そのあいだに一人で、マナンを隠し通路へと引き摺っていった。将軍の腋の下に手を差し込んで引っ張り、どうにかこうにか、マナンの巨体を運んでいく。

 踏ん張りながらもわたしは、王への申し開きの口上を考えていた。

 神殿側の弁疏べんそは、こんな風になるだろう。

 将軍は、近習たちが娼婦と愉しんでいるうちに、謁見の間を退出した。そしてそのまま、何処いずこへと逐電ちくでんしたようであるーー。

 この、にわかには信じがたい作り話を通すためには、何人もの人間がそれを目撃したことにする必要がある。

 神殿側の目撃者には、事欠かないはずだ。全員に、口裏合わせをする必要はない。口の堅い数名を選りすぐって、マナンが自らの足で出ていったと証言させよう。いや、〈神威力〉を用いて、真実まことのことであると信じこませる手もあるーー。

 完全に脱力したマナンの巨躯は、ひどく重たく感じられた。すぐに息が上がった。

「もっと奥にいかないとーーいや、待って。行きすぎると、あとで面倒になるかもーー」

 わたしは、ぶつぶつと独り言を呟いていた。自分で思っているほど、冷静ではなかっただろう。思考は千々に乱れ、考えがまとめられなくなっていた。

 結局、一時しのぎに通路の人目につかない場所に持ってくるだけにとどめた。

 将軍閣下には気の毒だが、ほとぼりが冷めるまで、通路の片隅に放置させてもらうしかあるまい。

 壁に寄りかからせると、良くも悪くも強烈な光を放っていたマナンの双眸が、虚ろな空洞と化しているのがハッキリとわかった。哀しみは湧かなかったが、憐れみはあった。彼もまた、大きな歯車の一つにすぎなかったのだ。

 謁見の間に戻った。わたしの着衣も敷き布も、血塗れだった。どう処分しようか考えているとそこに、サルマが息せききって帰ってきた。

 サルマは、これまでに見たことがないほど、周章狼狽していた。

 彼女は今の今まで、冷静で忠実で優秀な職業軍人であった。わたしは、どんな状況でも臨機応変に対応する彼女の能力を、疑ったことなどない。

 しかし今やサルマの心は、崩壊寸前のように見えた。そのわけを知らねばならないのは分かっていたが、同時に知りたくない、聞きたくないというのも本音であった。

 わたしはつばきを呑み込むと、モロクは見つかったの、と尋ねた。低く掠れたわたしの声は、まるで別人が発したもののように自分の耳に響いた。

「モロクはーー見つかりませんでした」

 そこで初めて礼節に気がついたという風に警備隊長は、荒い呼吸のまま立て膝をついて、頭を垂れた。

「面目次第もございません。通路にこぼれている血の痕を、幾つも発見いたしました。血はマナンのものと思われます。将軍の喉を掻き切った血刀から、滴り落ちたに相違ございません」

「血の痕はーーモロクはどこへ?」

 その答えを、わたしは知っていた。問い質す言葉が、震えていた。

「血痕は……〈大巫女の館〉まで続いておりました」

 嗚呼、やっぱりーー。

 次の問いは、ほとんど囁くようなものになった。

「ゼフィールは? 妹は無事なの?」

「ゼフィール様はーー館にいらっしゃいませんでした。彼奴が、モロクが連れ去ったと思われます」

 叩頭ぬかづくように、石の床に己が額を打ちつけたサルマが、血涙を絞り出した。

 わたしの世界が、音を立てて崩れていった瞬間だった。

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