第22話

らせん【拾貮じゅうに

 

 そこに降り立つなり女には、四号鉄塔がどこに建っているのかが感ぜられた。

 〈降り立つ〉というのは譬喩たとえである。実際に女が、どこかの空間に〈立って〉いるかどうかは、現象をどう捉えるかの角度によって異なる。円錐の切断面が、切断の角度によってさまざまな形に見えるように。

 同時に〈建つ〉というのも譬喩たとえである。物理的に、ある場所に鉄塔が屹立しているわけではない。しかし四号鉄塔が、ある〈場〉を占める〈現実〉の一つであることは、間違いなかった。

 住所で言えばそこは、かつてらせん市民に〈逆さまの家〉と呼ばれ、怖れられていた市庁舎の地所であった。一帯は、今も昔も変わらぬ官庁街で、中央広場を囲んで、市庁舎をはじめ裁判所や警察署や商工会議所などの建物が、ひしめいている。

 しかし、そこに勤めている者や歩いている者の誰一人として、自分たちの頭の上に、巨大な鉄塔がそびえていることを知らない。何となれば鉄塔は、市庁舎のある場所から〈異なる次元方向〉に向かって伸びているからだった。

 女の眼には、鉄塔の〈外〉の様子が映し出されていたがそれは、らせん市の街並みというだけではなかった。折り重なった無数の可能世界や異なる次元の光景が、目まぐるしく展開しているのだった。

 女の踏みしめている足元ですら、まったく一様ではない。そこは、どこかのぬるい海底であり、巨大な木性もくせい羊歯しだの森であり、エメラルドの惑星を頭上に眺める極寒の外宇宙であった。まるで、支離滅裂な夢の中にいるようだ。

 しかし女に、周囲の変転を意に介する素振りはなかった。この瞬間、女賊〈希望ホープ〉としての人格は薄まり、時空の彼方に置き忘れていた以前の人格が、甦りつつあったからである。

 女は、鉄塔の反対端に階段を認めると、素早く駆け寄った。躊躇なく下り始める。

 相変わらず流転し続ける世界の中で、女が過たず踏み板に足を乗せていられるのは、奇跡に近いように思える。無意識のうちに女は、数多あまたの分岐や重複の中から、近似した世界像を一貫して選択し続けていた。

 実際、女が階段を下る様子を視覚的、感覚的に表現するならば、吹雪舞う真夏の暑熱の下、一歩ごとに鉄製と石造りと板のきざはしを踏み、下っていると同時に、爪先上がりに上方を目指していた。普通の人間であるならば、数十秒で精神に異常をきたすであろう。

 ほどなく女は、上部構造体を下りきり、鉄塔の基礎部に到達した。四号鉄塔の基礎は、軟弱地質に対応したような、四角い大きなコンクリート盤であったが、女がその上を歩くなり、瞬く間に変化した。気づけば女は、恐ろしく巨大な生物のはらわたような隧道ずいどうに立ち尽くしていた。世界の変転は止み、ある種の均衡状態が訪れた。

 薄暗い窖のような場所であるが、不思議とあたりを見通すことができる。鯨のような巨大な生物の体内に入って、中から眺めている光景とでも言えばよいだろうか。壁にも天井にも床にも、赤と紫の血管めいた無数の筋が入り乱れ、半透明なゼリー状のその向こうに透けて見える。血腥ちなまぐさいというのではないが、ジットリと湿った、かつムッとする温気うんきに包まれている。どこもかしこも、ヌラヌラと耀き、脈打っていた。我知らず女は、総毛立った。

 壁面に近づいた女が、硬い表情で検分する。はたして半透明な壁の奥には、閉じ込められているおびただしい者たちの姿がみとめられた。女の瞳にみるみるうちに涙が盛り上がり、頬を伝った。女はそれを、ぬぐいもしなかった。

 六尺豊かな大男の顔には、単眼が嵌まっていた。

 可憐な少女の背中には、鳥類の翼が付いていた。

 犬の頭を持った者。

 鱗に覆われた者。

 角の突き出した者。

 ヒトが空想の中で思い描く様々な種族が、不気味なショウケヱスに展示されるように、そこに並んでいた。

 女に、感情は存在しないはずであった。少なくとも、そのようには造られていない。にもかかわらず、嗚咽おえつとも忿懣ふんまんともとれる呼気が、自然と口から洩れた。

 かつてこの国には、〈異族〉と総称ーーあるいは蔑称ーーされる数多の種族がいた。彼らは人間にさげすまれ、屈辱的な差別を受けていたが、それでも社会の一片として認識はされていた。

 いま、彼らを知る人間はいない。

 密やかに狩り集められた〈異族〉たちは、国の施策によって不可視の存在となり、今や一定の用途に供されているのだ。

 隧道ずいどうを覆う半透明の物質の正体は、別の宇宙から召喚された、ある種の寄生生物である。生命体にとりつき、侵入し、寄生先の生命エネルギーを、文字どおり搾取する。搾り取ったエネルギーは、高濃度の結晶に変換され、血のような紅い結晶として産み落とされる。シドッチ石だ。

 シドッチ石は、自然界にはほとんど存在しない。ゆえに大量に採取するためには、このような超自然の力が必要となる。シドッチ石には、特異な性質があった。ある特殊な韻律ーー咒偈じゅげによって震動しやがて崩壊するが、その際に強力なエネルギーを発するのだ。それはまたとない、効率のよい〈燃料〉となる。

 〈異族〉たちは、死んではいない。わずかな栄養の供給を受けて、〈生かされて〉いる。死という安寧すら、彼らに許されてはいないのだ。

 生かさず殺さず、異族の生命を〈燃やし〉続けて、燃料とする。これがこの発電所の真のエネルギー源、真の姿だった。

 しばし瞑目していた女は、豁然かつぜんと双眸を見開いた。そこには、まぎれもない瞋恚しんいの焔が点っていた。

 やにわに背嚢をおろすと、逆さまにして乱暴に振る。中から、幾つもの棒状の物がこぼれ落ちた。線路で使う犬釘のように、一方が鋭く尖っていて、一方が平たい物体だ。

 そのうちの一本を掴むと女は、半透明の壁に近寄った。左手で、最適な箇所を見定めるように撫でさする。右腕を振りかぶる。そして体重と満身の力を籠め、それを壁に突き刺した。

 刺突した箇所からたちまち、体液めいた汁が、ゾブリ、と噴き出した。粘度のある液体が、壁面を伝って垂れていく。心なしか肉壁が、ブルブルと震え、身悶えたようだった。

 手がおぞましい抵抗を感じていたとしても、女は作業をやめなかった。間隔を空けて、すぐ隣に同様に〈釘〉を突き刺した。二本。三本。四本ーー。そうやって何本もの〈釘〉を、可能なかぎり満遍なく、隧道ずいどうじゅうに突き刺して廻った。

 全部を刺し終えると女は、つなぎの胸ポケットから、油紙に包まれた燐寸マッチを取り出す。そして〈釘〉の頭の平たい部分に炎を当て、炙った。炙られた〈釘〉が、火を噴いた。次々と燐寸マッチを擦っては炙るを繰り返す。火の手が、そこここであがった。青ざめた炎色の毒焔どくえんは、飛び散り、落ちた先でまた、その場所を焼いた。

 今やはらわたの中は、着火材の延焼による煙と焦げた肉の煙とで、目が痛いほどであった。忌まわしい刺激臭が、あたりに充満していった。

 隧道全体が苦悶に身をよじり、ふるふると蠕動ぜんどうを始めた。轟、というおめきが、隧道を突風のように駆け抜けた。それは、おぞましい寄生生物の断末魔のようであった。

 そのさまに、女が腹を揺する。全身で、哄笑している。

 燃えろ!

 すべて燃えてしまえ!

 これは弔火ちょうかだ。我がともがらを見送るための、荘厳な葬礼だ。

 そしてこの破壊の先に、真の敵が現れるだろうーー〈木男〉が。

 その名称を浮かべた瞬間、見えない鉄槌で撲られたように女の首がぶれた。堪らずよろめいた。頭蓋骨の中で、ほとんど物理的な衝撃に近いような、割れ鐘を叩いたような音が、鳴り響いている。瞬く間に、女は混乱の渦に巻き込まれた。

 〈木男〉? 〈木男〉とは何だ? なぜ自分はそいつの存在を知っているのだ?

 強烈な眩暈が女を襲った。視界が、ぐらぐらと傾ぐ。嘔吐感が込み上げてきた。舌の奥に、〈死〉の味がした。その場に、うずくまらずにはいられなかった。床についた手が、グンニャリとした感触を伝え、そのおぞましさに悪寒が倍加した。

 〈ばんだあすなっち〉の女賊〈希望ホープ〉の人格と、かつて〈リナ・ロメイ〉と名乗っていた無力な小娘の人格、あるいはそのまたさらに前の人格が、窮屈な脳髄の中でせめぎあっていた。

 とーー。

 まるで女が弱ったのを覗き見していたかのように、隧道のどこかから、おびただしい数の奇っ怪な生き物がたち現れた。そいつらは、苦痛のあまり気が狂ったものの発する耳をふさぎたくなるような呻き声を上げながら、ヒタヒタ、ヒョコヒョコと、女に迫ってきた。一体一体はさしたる大きさではない。どころか寧ろ、少年期のヒトほどの背丈しかない。だがその形相けいそうは、かなり面妖である。

 一見するとそいつらは、鵞鳥や家鴨のように思えた。少なくとも半面影像シルエット禽鳥とりのそれであった。

 だがなおも見れば、足は木の根のように張り出して太すぎるし、胴は卵を横にしたような形状で、羽毛の一本も生えていなかった。くびが伸びているはずの位置に人面がーー顔をしかめた壮年の男のそれーーがあり、そいつはつば広の帽子を被っていた。いうなればそいつらは、酷く不恰好な半人半鳥ハルピュイアの群れとよべた。

 化け物どもを見たとたん、女の中で何かの開閉器スイッチが切り替わったようだった。吐き気をグッと呑み込んだ。あらゆるものに優先する、至上命令が、女を貫いた。それは《〈木男〉を滅ぼせ》である。

 左右の腰回りに、ぴったりと貼りつけていた自動拳銃を素早く抜いた。壁を背にし、両手に構えた自動拳銃のトリガーを引き絞る。百発百中の拳銃使いピストレーロにしては、粗雑な射撃だ。だが女の視界は、憎悪で真っ赤に染まっていた。

 発砲音ガンファイア発火炎マズルフラッシュの饗宴が始まった。ばら蒔かれた弾丸の運動エネルギーによって、化け物どもの頭部や胴体がぜる。瞬く間にあたりは、血の海になった。

 女にはこの化け物どもが、〈木男〉の分身であることが〈分かって〉いた。別の次元の黒暗淵やみわだにひそむ〈本体〉を倒さなければ、何度でも数多の次元に〈分身〉を送り続けることだろう。だがそうした理屈は、眼前の化け物を目にするとたちまち消し飛んでしまった。たとえ一瞬でも、この化け物をこの宇宙に存在させておくことに、抑えようもない嫌悪感があった。一匹足りとも生き延びさせたくない。

 それでも女は、無駄撃ちが少なかった。化け物どもは確実に仕留められていったが、彼奴きゃつらは次から次へと、幾らでもわき出てきた。拳銃の弾が尽きるのすら待たなかった。一匹が、女にふくらはぎに噛みついた。激痛に身悶える間もなく、別の一匹が、右手首をそのあぎとにおさめた。ガチガチガチガチと身の毛もよだつ異音がして、女の手首が拳銃ごとげた。ボトリ、と床に落ちる。女は、一斉に殺到した化け物どもの餌食となった。

 残酷劇グランギニョルの様相を呈した隧道に、どこかから殷々と声が轟いた。

其程それほどまでにわれに目通りしたくば、招待してしんぜよう」

 不意に、女がーーもはや女であった肉片が、と言うべきであろうかーーズブズブと地面に沈んだ。足が胴が腕が頭部が、めり込んだ。獲物を嚥下するように肉襞が収縮し、あっという間に女は、不定形なゼリーの海に呑み込まれた。

 

 どうやらタッシェのいうとおりだ、とリテル君はみとめるしかありませんでした。閉じこめられていたのが、発電所の地下室であるということをです。

 しかし、それよりももっとおどろいたのが、アノ怪生物と、巨漢の怪人ルキーンが、リテル君たちを助けてくれたということでした。

 とつじょふきだした水でーーそれはここの地下水でしょうーーリテル君とタッシェは、たちまち押し流されてしまいました。

 上も下もわからなくなって、水流のなかを転げまわっていると、リテル君はたくましい手に腕をつかまれて、水面に引き上げられました。

 あまりに苦しくてリテル君は、口から水をゲーゲーとはきました。

 目をあけると、すぐそばに、グッタリとしたタッシェの顔があります。二人は大きな男の腕にだかれたまま、流されていました。その救いの手をみてリテル君は、女の子のように悲鳴をあげてしまいました。それはあのニセモノのカムストック家につかえる執事のルキーンだったのです!

 リテル君はおそろしさと、助かった安心とでからだがカタマってしまい、逃げることもできずにいました。

 通路のはしにあった階段に流れ着くと、ルキーンは口をひらくでもなく、二人をかかえたまま階段を三段とばしでかけ上っていきました。上の階には、まだ水はとどいていません。

 そのいきおいのままルキーンは、さらに上の階へとかけ上っていきました。まるで二人ぶんのこどもの重さなど、毛ほども感じていないようすです。

 ぬれネズミで寒さのあまり、リテル君は自然と大男にしがみついてしまいました。それが幸運だったのです。

 四、五階ぶんをのぼりきったところ、地上一階にたどり着いたところでした。ダダダン! という耳をつんざくはれつ音がしたのです。

 二人をおろそうとしていたルキーンは、クルリと背を音のやってきたほうに向け、二人をかばいました。肉をひきさくにぶい音がしました。チュンチュン、と金属をうつような音は、弾丸が壁ではねている音でしょう。

 リテル君は、目をとじてしまいたかったのですが、できませんでした。それというのも、とてもおそろしいものが目にはいってしまったからでした。

 アア、なんという悲劇でありましょう!

 弾丸は、グッタリとしていたタッシェにあたってしまっていたのです! 少年の顔の片側はあいかわらず、はしっこそうな、今にもパッチリと目をあけそうなキレイな顔なのに、もう片側は、むごたらしくはぜて、どす黒い血にそまっているのです!

「グウゥ!」

 さらなる銃撃をうけルキーンが、うめき声をあげました。リテル君はひっしに顔をふせていましたが、不思議と、もうこわいという感じはしませんでした。さまざまなことがたて続けにおこって、心がすっかりマヒしてしまったのです。リテル君の目が無慈悲な襲撃者たちをとらえました。大きな銃をもった男たちは、あかぐろい軍服を着た、死神みたいな男たちでした。

「撃ち方止め!」

 しわがれているけど、とてもとおる声が響きました。 

 銃撃がたちまち止みました。止みましたが、あたりには、ツンと鼻のあなをさす火薬のけむりがみちて、耳にもわんわんと残響がこびりついています。

 命令をはっしたのは、ちょっとぶきみな、昔話に出てくるようなご老人でした。おつむに頭被テュルバンをかぶった、ツルリとした赤ら顔のおじいさんで、しかもビックリすることに、ゴム輪の手動四輪車にのっています。ご老人は、まわりと同じあかぐろい軍服を着ていましたが、ピカピカにみがきあげられた靴といい星付きの帽子といい、おそらく指揮官と思われました。

 そこは、がっこうの正面玄関のような口につながるひろい通路で、大人が何人もならべるほどのはばがありました。そこに死神たちが、立ったり、ひざをついたりして銃をかまえ、ひろがっていました。

お嬢さまフロイライン、どうぞ」

 ご老人が、へりくだって、うやうやしくおつむをたれました。

「ありがとう、タゴウ」 

 戦場にふつりあいな、鈴をふったような声が、響きました。

「ふうん、おまえが〈ばんだあ・すなっち〉?」

 リテル君の目が、ぼんやりと聞きおぼえのある声ヌシをみとめました。死神たちの先頭に立っているのは、まちがえようもありません、トヱ嬢なのでした。

 トヱ嬢は軍服姿ではありませんでしたが、あきらかにこのなかでいっとう偉いさんでありました。あいかわらず、ピタッとした素敵な男装で、信じられないくらい美しい顔も、優雅なからだの動きも、会ったときのままでした。でもなぜでしょう、いまはそのほほえみをうかべた美しさが、なんともおそろしく思えるのでした。

 ルキーンが、タッシェとリテル君をそっと下ろして、後ろへ押しやりました。リテル君はグンニャリと横になったタッシェのなきがらから、目をそらしました。

 二人を守るように立ちふさがっているルキーンの服は弾丸でボロボロになっていて、そのいたましい裂けめからは、なかの肉や骨が見えていました。しかし不思議なことに、血がながれていないのです。

 そのようすをみて、トヱ嬢はなにかのみこめたようでした。

「そう、そういうことーー。だれがおまえに反魂はんごん術をかけたのかしらね。そんな力を持った死霊術師ネクロマンシァンなんて、もういないはずなのに。もうひとりの女が術者なの?」

 ルキーンは、なにも答えません。いや低くうなったようにきこえたので、しゃべれないのかもしれません。

 トヱ嬢は、急にきょうみをなくしたような、つまらない顔になりました。

「タゴウ、それの処分はまかせるわ」

「尋問せずともよいのですか、お嬢さまフロイライン?」

「時間の無駄ね。知性があるようには思えないもの」

「あのこどもは、いかがしましょう?」

 トヱ嬢は、はじめてリテル君に気がついたようでした。そして、

「まかせる。こどもはもう厭きたわ」

 そういって、あっさりと死神たちの向こうに立ち去ったのでした。

 トヱ嬢をとおすために、わずかにですが、隊列が動きました。ルキーンが動いたのは、そのときでした。まるで、猛獣のようなはやさで、いっさんに飛び出したのです。

 テキは、銃をかまえるいとまもありませんでした。とっ進はとまらず、みなけちらされました。ゆいいつ、ご老人だけが、すばやく反応して銃を向けましたが、すんでのところで間に合いませんでした。片うでで銃身はそらされ、こん棒のようなもう片方のうでが、横っ面にぶち当たりました。ご老人は、手動四輪車ごとバッタリと倒れこみました。

 ルキーンは、ご老人のことなどまったくふりかえらずに、さらにいきおいをまして、つむじ風みたいに玄関の外にとんでいきました。

 

 そこから先は、リテル君には見えませんでしたが、読者のみなさんにはなにがあったのかおしらせしておきましょう。

 トヱ嬢は、ちょうど玄関の両開きのガラス扉にさしかかっていましたが、ルキーンはその後ろにあっという間に、迫りました。

 あるいはふだんのトヱ嬢であれば、ルキーンの足音を察知して、適切に対応したでしょう。しかし、そのときトヱ嬢は、今しがたのルキーンとの邂逅に思いを巡らせていました。当今、自分とお父様以外に、斯様な術を行える人間がいるのか? また、あの大男に見覚えがあるような気がするのは何故か?

 無論、トヱ嬢と大男には面識がありましたが、トヱ嬢が覚えていないのも無理はありませんでした。トヱ嬢にとって価値のある人間は、父親以外には存在しませんでした。そのほかは路傍の石と代わりません。ですが、踏み潰される程度のしがない虫けらであっても、噛みつくことはあるのです。

 ルキーンは、速度を一切落とさずにトヱ嬢に飛びかかり、トヱ嬢をかかえました。

 そして勢いのまま、ガラス扉をくだいて、発電所建屋の、外の夜闇に飛び出しました。たとえトヱ嬢に逃げ出すすべがあったとしても、間に合いませんでした。

 ルキーンが、秘密の咒偈ことばをひとこと誦文ずもんしただけで、瞬時に彼の体内に埋め込まれていたシドッチ石の魔法回路が起動したのです。

 閃光が、夜の帳を引き裂きました。膨れ上がった炎が、辺りを真昼のように照らします。爆煙とともにルキーンとトヱ嬢の肉体は四散し、散華したのでした。

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