第13話

図書館5、

 

 ぼくが行く場所は、図書館しかなかった。

 

 エントランス・ホールのベンチに座っていると、〈図書館警察〉がやってきた。前回と同じ、ブルーの制服を着たロシア系の警官だ。

「通報がありましてね」

 赤ペンの声は、例によって事務的な響きがした。

「あなたが、その、またもやここで粘っていると言われまして」

 ぼくは、貸出カウンターの図書館員たちをふりかえった。心なしか目をそらされた気がする。

「ただの利用者ですよ」

「ただの利用者が、聞きこみの真似ですか」

 ぼくはバツが悪くなった。朝からここに陣どって、やってくる利用者に片っ端から、スウのことを訊ねていたのだ。

「いけませんか?」

 強気で答えると赤ペンは、無理やり止めさせることはできませんが、と断ったうえで、「他のお客さまの迷惑になりますので、声をかけることはお控えください」と結んだ。

 つまり、止めろということだ。

「よろしければ、〈図書館警察〉のほうで、ご相談に乗ります。ご同行願えますか?」

 丁寧だが、有無を言わさない調子で、ぼくの腕に手を置いた。

 ぼくは、しぶしぶベンチから立ち上がるほかなかった。

 赤ペンに連れられて、貸出カウンターの奥に入った。エントランス・ホールから、数メートル横に水平移動しただけなのに、妙にドキドキする。カウンターで〈あっち〉と〈こっち〉に別けられていた、見えない境界線を越えたからだろうか。

 事務室と、図書館員の控え室とおぼしき部屋を通り抜け、簡素なスチール・ドアを開けると、薄暗い廊下が続いていた。

 いくつもの曲がり角を、スルーした。しばらく進むと、長方形のスペースに行き当たった。

 位置としては、〈図書館〉の南側の辺に当たるだろうか。スペースには、エレベーターの扉が五つ並んでいた。もっとも五基のうち、左奥の二基と右奥の一基は、利用不可になっているらしい。稼働しているのは、中央の二基だけだ。理由を訊ねると、節電のためだ、ということだった。

「ヒトが使わないわりに、エレベーターが多いんですね」

 赤ペンが一言もしゃべらないので、気まずくなったぼくは、間をつなぐように、どうでもよいことをしゃべった。

「この建物が、造りかけのタワーマンションだったころの名残です。それをオリタケ氏が買い取って、全部に手を入れて作り替えた。もっとも本人は、巨大だが、ごく私的な、自分と家族だけが使う書庫を作ったにすぎないようですが。〈図書館〉として開放されたのは、ずっとあとになります」

 赤ペンが、素っ気なく答えた。

 やがて、やってきたケージに乗りこんだ。ケージの中は、エントランスホールと同様のクラッシックなデザインで、ホテルのそれみたいな内装だった。細かな装飾のほどこされた木の手すりが左右に付いていて、臙脂色の壁紙には金糸で唐草模様が刺繍されている。扉の上の階数表示はさらに古めかしく、目盛りのついた半円を、ゆっくりと針が廻っていくデザインだった。しかし昇降はスムーズで、ほとんど揺れを感じなかった。

 ピーン、というくぐもった音がして、二重扉が開いた。

 

 初めて知ったのだが、〈図書館警察ビブリアチェーカ・パリーツィヤ〉のオフィスは、図書館の五十階にあった。

 タワーマンション時代の間取りで、このフロアは二つの区画に分けられているらしい。半分の面積が続き部屋スイートとして、ひと世帯の居住スペースにあてられており、〈図書館警察〉はその片方に、すっぽりと収まっていた。

 受付エリアには、アフリカ系の女性警官が座っていた。そこをすぎると、短い廊下が奥に向かって伸びている。扉のない戸口が幾つか並んでいて、なかのオフィスでは、数名の警官がデスクワークをしている。赤ペンは、右手の奥にあるドアを開いて、ぼくを部屋に通した。

 室内は素っ気ない感じで、テーブルを挟んで椅子二脚が向かい合っていた。片隅に、小ぶりなデスクと椅子があり、デスクの上にラップトップのコンピュータが置いてある。いわゆる取調室というやつのようだった。

「ぼくは聴取されるんですか?」

「そんな形式ばったものではありません。お望みならば出ていってもかまわないですよ。……その代わり、以後は、図書館に出入り禁止になりますが」

 あきらめて椅子に腰かけると、赤ペンは出ていった。

 ジリジリしながら待っていると、やって来たのは、黒ペンのほうだった。両手に、コーヒーカップを持っている。それをテーブルに置いて彼が、向かいに陣どった。

「コーヒーをどうぞ。一応ことわっておきますが、ここは禁煙なんで、灰皿なんかはありませんよ」

 黒ペンが、気安げに口を開いた。

「タバコは吸いません」

「おや、そうでしたか」

「逆に、何で吸うと思ったんです?」

 いや、と黒ペンはコーヒーをすすってから言い訳する。

「小説家さんでしたっけ? 何となくそういう嗜好がありそうじゃないですか。いかにも旧世界的というか……」

 現代の本邦で喫煙は、廃れて久しい風習だった。ぼくがいかにオールドファッションドな人間に見えたとしても、一緒くたにしすぎだろう。

「ぼくは小説家じゃないですよ、作家なのは、ぼくの同居人です」

 しゃべりながらぼくは、これは本当に雑談だろうかといぶかしんだ。以前、読んだだか観ただかしたスリラーで、雑談めいた会話から容疑者の供述を引き出すシーンがあった気がする。黒ペンも、くだけた感じを演出しつつ、ぼくの顔色をうかがっているのかもしれない。

 ぼくは、話題を自分からそらそうと試みた。

「そういえば……以前、ぶしつけに訊いてしまったんですけど、もう一人の警察官の方と、本当によく似てらっしゃいますね」

 ああ、と黒ペンがうなずく。

「双子なんでね」

「あーーでも……」

 そこで初めて、あのとききっぱりと否定していたのは、赤ペンのほうだったと気がついた。言いよどむと、あいつは認めたがらないがね、と黒ペンは不満げに口をとがらせた。

「双子ってのは、ふつう生物学上のことでしょう? 確かに、あいつと俺は赤ん坊のころに離ればなれになったけど、同じ母親のお腹から生まれたんだから、双子に間違いないと思いませんか?」

「離ればなれ……」

 急な身の上話に戸惑っていると、黒ペンはなおも言い募る。

「養子縁組で、俺が出されたんですけどね。それが、偶然この町で再会したときの驚きと言ったら……」

 そのとき、ドアから赤ペンが入ってきた。途中から話が聞こえていたのだろう。不機嫌そうに黒ペンをさえぎった。

「おい、べらべら余計なことを話すなよ。個人情報だぞ」

「別にいいじゃん。隠すような話じゃなし」

「そういうことじゃない。第一、俺たちは、まがりなりにも警官だぞ」

「委託警察なんて、ショッピングモールの警備員と変わらないじゃん」

「それでも、だ」

 そう言って赤ペンは、黒ペンを追い出してしまった。すると入れ換わりに、初めて見る男が入室してきた。

 その男は、ぼくの正面に座り、赤ペンは部屋の隅のデスクについた。

「お待たせしました。ワシリ・ザロフと言います。わたしが話をうかがいます。どうぞコーヒーを召し上がってください」

 男は、よく通るバリトンで自己紹介したのだった。

  

 〈図書館警察〉の警部と名乗ったその男は、隙のない格好の中年男だった。痩せて背の高い、しかし頑丈そうな体躯をしている。

 高級品とおぼしきチャコール・グレイのスーツに身を包み、シャツはオフホワイトで、ネクタイは暗い炎のような錆朱さびしゅ色、靴は渋味のある茶色のスウィングチップだった。制服姿でないことを割り引いても、とても警官には見えない。堂々とした押し出しは、洒落者の弁護士か、裕福な学者のようだ。

 警部は穏やかな口調で、牽制を放ってきた。

「失礼ですが、お仕事は行かれていますか? 今日はシフト勤務のお休みで?」

 痛いところをつかれて、ぼくは言葉に詰まった。

 執筆を優先させたい気持ちと、いくらなんでも生活費くらいは稼ぎたいという気持ちのはざまでぼくは、近所の倉庫でアルバイトをしていた。荷受けをしたり、品物を運んで所定の場所に収めたりする仕事だが、今日は、インフルエンザに罹ったと嘘をついて欠勤しているのだった。

 少しやけっぱちな気持ちで答える。

「それ関係ありますか? 有給休暇ですよ。ちなみに住民税もちゃんと納めてます。図書館の運営費にも回っているんでしょ、税金。納めた分は使わせてもらいますよ」

 わざと椅子にふんぞり返った。

「利いた風なことおっしゃいますね」

 ワシリ・ザロフ警部は、がんぜない子どもを見るように、微笑んだ。

「それに、図書館と〈図書館警察〉は、運営や予算は、渦巻町とはスタンドアローンですよ」 

 澄ました口調に何だか向かっ腹が立ったので、

「そもそも、警部さんがじきじきに取り調べをするような案件なんですか?」

 と言い返した。

 取り調べじゃありませんよ、それに人手不足でね、と警部は肩をすくめる。

「それで、あなたの恋人がいなくなったということでしたね?」

 ザロフ警部が質問をすると、細い口髭が別の生き物のようにうごめいた。その物言いに皮肉な色を感じて、反発心がますます強まる。

「ええ、そうです」

 馬鹿にされてなるものか、と相手の目を見つめた。警部は感情の読めない冷たい色の瞳をそらさなかった。警部に観察されているのを感じた。まるで自分が犯罪者になったような、落ち着かない気持ちになる。

「そちらでも探していただけたんですよね。図書館内は管轄っておっしゃっていたし」

 ぼくは矛先を赤ペンに転じた。

「ええ、一応は」

「一応?」

 頭に血がのぼる。

 まあまあ、と警部が割って入る。

「キミ、言葉遣いに気をつけなさい。特に利用者に対してはね」

 それから、と今度はぼくに向けて「一応、というのは言葉の綾ですよ。われわれは出来得る限りの捜索は行いました。嘘はついてません。しかしですね。この図書館がどれくらいの広さか知っていますか」

「でも、開架スペースは二階分だけですよね? 開架スペース以外に立ち入ったら、すぐにわかるんじゃないですか?」

 それはそうです、と警部はうなずく。

「ただ、人ひとりを隠すーーいや、隠れる場所には事欠かないんですよ」

「それは、スウがもう死んでいるという意味ですか?」 

 ぼくは気色ばんだが、薄暗いビルの片隅で冷たくなっているスウを想像して、にわかに背筋が凍った。

「いやいや、そうは言ってません。われわれですら公には立ち入ることのできない場所もある、という意味でしてーー」

「〈図書館警察〉なのに、ですか?」

「〈図書館警察〉でも、です。それに見てのとおり」

 人手不足でね、と警部はまたもや肩をすくめて見せた。

 ピンときた。彼らもまた、市警からの報告を受けているのだ。スウ・ローという女性の〈実在性〉についても聞かされているに違いない。彼らにしてみたら、いるのかいないのかも分からない人物を探すのに裂く人員などいないということなのではないか。

 誰もまともに、スウのことを見つけようなんて思ってなどいないのだ。

 ぼく以外は。

 あるいはぼくですらーー。

 暗澹たる考えにとらわれ黙りこんだぼくに、サロフ警部が、ふと、探偵に頼んでみる気はありますか、と訊いてきた。意外な言葉に、ぼくは顔をあげた。

探偵スルース、ですか?」

 〈図書館警察〉の次は、〈図書館探偵〉ときた。「警部」と赤ペンがとがめるような口調でいった。それを目で制し、ザロフが続ける。

「厳密には、違うのですがね。彼は探偵小説家です。自分ではそう名乗っている。ウオタロウ・コシロという男です。これは、ペンネームの方ですが」

「探偵作家? 探偵小説ジャッロ作家ライターという意味ですか。そんな人物が、今でも存在するんですか」

 ぼくは、自分やスウを棚に上げて疑問を投げかけた。

「まあ、自称です。あなたと同じで。ですが、探偵としての腕はそれなりですよ。図書館外で発生した事件ですが、〈パラダイスロスト・マーダー・ケース〉や〈ヘイロー・マーダー・ケース〉は、彼の助力がなければ、解決に至らなかったと聞いています。しかし……」

「しかし、何ですか?」

 そら来た、そうそう都合のいい話など、あるわけない。

「ま、それは本人に会ってみて、ご自分で判断してもらったほうがいいでしょう」

 なんだか、不穏きわまりない感じがした。それに、ていよく厄介払いされたような気が、しなくもない。しかしぼくに、選択の余地はなかった。


 先にも述べた通り、〈図書館〉と〈ジッグラット構造〉は二層になっている。〈図書館〉自体は〈渦巻町〉に周囲をすっぽりと覆われているため、当然、拡張などできない。だがそれでも〈図書館〉は十分すぎるほど広い。建屋部分で、二〇〇メートル弱の高さがあり、地上部は五十四階、地下は五階にまで伸びている。

 〈図書館警察〉がある五十階から、再びエレベータに乗り込んだ。今度はすぐに着いた。

 エレベーターホールは、乗り込んだ五十階と寸分違わない造りで、本当に自分が別の階層にやって来たのかと疑わしくなるほどだ。壁の掲示でかろうじて、四十六階としれた。

 先に立った赤ペンが、スタスタとすすんでいく。

 エレベーターホールを抜け、ドアを開ける。と、今度は、五十階とはだいぶ様変わりした光景に出迎えられた。ドアの向こうに広がっていた景色にぼくは、意表をつかれた。

 旧いSF映画の世界に、迷い込んだような気がする。そこは、どこもかしこも真っ白な空間だった。天井も白、床も白。照明すらも白い光を放っているようだ。

 細長い、廊下のような空間が左右にずっと続いている。その廊下に直交する通路が、等間隔に無数に列なっていた。

 赤ペンが、そのうちの一本に入っていく。ぼくもそれにしたがった。通路の左右は、真っ白い壁が、タテヨコのラインで区切られている。一枚がぼくの背丈より大きなパネルで、背の高いロッカーが並んでいるようにも見える。

「これが……本棚……?」

 当然ながらフロアにひと気はなく、〈動く郵便ポスト〉みたいな形状の自走式自律機械ドロイドがゆっくりと徘徊していた。自律機械ドロイドがパネルに近づくと、白い壁が横にスライドして音もなく割れていった。自律機械ドロイドがいる箇所を境に、片側の壁全部が動いているーーようだった。よく見れば、足元にレールがあるのがわかった。

 やがて自律機械ドロイドの前に、一台がちゃんと通れるスペースができた。自律機械ドロイドが、滑るようになめらかな動きで、出現した亀裂に吸い込まれていく。

 自律機械ドロイドが入っていった先を覗いてみた。奥に向かって、両側に書棚というか収納スペースがあり、ズラリと書籍の背表紙が並んでいる。ぼくがパネルと思っていたのは、本棚の側板だったことがしれた。

 思わず、足を一歩踏み入れた。ここに置いてあるのは、何やら難しげな学術書らしい。物理学か工学のものとおぼしきタイトルが、金文字で付されている。

 どん詰まりの壁面に、張り出し窓にも似たくぼみがあった。いや、外に開くガラス戸があるわけじゃないから、壁龕ニッチとでも言うべきか。

 幅は150センチほど、高さは100センチくらいになる。下の辺が成人の腰ほどの位置だから、上の辺は身長を越えてしまう。そこは飾り棚の役割が与えられているようで、ガラスが嵌め込まれていて、中に置かれた物が見えた。ちょっとしたショーケースのようだった。

 壁龕ニッチには、置型の書見台ブックスタンドに書籍が立てかけられ、表紙をこちらに見せていた。旧世界で〈面陳〉と呼ばれていた陳列方法だとわかる。書籍は絵本で、延び延びとした筆致で描かれた男の子の笑顔が、表紙いっぱいに躍動していた。ぼくは興味をおぼえて、思わず近寄ろうとした。

「すみませんが、勝手に歩き回らないでください」

 引き返してきた赤ペンが、イライラと難じて、奥に行こうとするぼくを引き戻した。ぼくは慌ててきびすを返すと、通路に戻った。

「センサがあるので、人が本棚に挟まれることはありませんが、万が一ということもあります。気をつけてください。さあ、こっちです」

 一応、心配してくれているのようなので、大人しく赤ペンにしたがった。

「行き止まりに飾られていた本は、借りられるんですか?」

 なかなか楽しそうな絵本に思えて、興味が沸いてきたのだ。

 ええ、と赤ペンが、少し面倒そうに教えてくれる。

「資料請求すればちゃんと借りられます。もっとも、あの壁の中にあった本自体は飾りですけど」

「飾りなんですか?」

「壁の何ヵ所かに、ああいった本が飾られているんですが、中の書籍はダミーだそうです。ガラスも専用の鍵じゃないと開きません。絵画の替わりに、インテリアとして飾られているだけです」

 フロアでは別の形状の自律機械ドロイドも見かけた。どうやら、配架をするタイプだけでなく、フロアや書架の掃除をするタイプもいるらしかった。

 無言の住人たちをしり目に赤ペンとぼくは、通路の行き止まりまでたどり着き、そこから右手に伸びる廊下を進んだ。

「ここです」

 赤ペンが止まったのは、廊下の中ほどにある、周囲に調和したアイボリーの扉の前だった。扉には、目の高さに横長の枠があり、脇の壁に呼鈴がついていた。

 図書館が〈書籍の森〉ならば、ここはさしずめ、〈森に埋もれた隠れ家のドア〉とも言えた。

 ぼくは、赤ペンが呼鈴に手を伸ばすものと待っていたが、彼はいっこうに動こうとしなかった。そして最後のチャンスとばかりに、口を開いたのだった。

「ご忠告しておきますが」

 心なしか、忌々しげな口ぶりであった。

「私はこの中の住人には、あまりいい印象を持っていません。いえ、住人そのものにというわけじゃなくて、図書館内にアンタッチャブルな領域があることが、好ましいと思っていないんです。なんといってもわれわれは、利用者の安全を託されているのですから。こんなことを、あなたに言う筋合いでないのは承知しています。ですが我々は、少ない人員で精一杯任務を行なっています。しかし……」

 かぶりをふって赤ペンは、呼鈴を鳴らした。ジリリリリ、という古風な音がした。しばらく何も起こらなかった。

 やがて横長の枠がスライドして、一対の眼がみえた。のぞき窓になっているのだ。

「〈図書館警察〉です」

 赤ペンが名のる。

 するとまたしばらくして、カチッと錠が外され、ゆっくりとドアが表に開いた。そこに立っていたのは、ちんまりとしたサイズの年配の女性だった。

 ちょっと、意表をつかれた。

 日本の昔話から抜け出てきたような、和装の着物に割烹着姿の白髪女性で、小作りの顔にこれまた可愛らしい丸眼鏡をちょこんとのせている。レンズの奥の眼は小さいがくりっとしてキラキラと輝き、肌の血色もよい。まずは、感じのよいおばあちゃんといった感じ。

 玄関に段差はなく、フラットな造りだったが、マットが敷いてあって、そこが三和土の役割を果たしているようだ。二足の靴が並んで、脇に小さなスリッパラックがある。

 彼女が口を開きかけたとき、奥からとんでもない道間声が響いた。

「スパイシーなんてお断りだ! 金輪際やらないぞ! 絶対に!!」

「スパイシー?」

 ぼくが赤ペンに視線を向けると、赤ペンも怪訝そうに眉をあげたが、途端に、耳がキーンとなった。もの凄く近いところで、もの凄く大きなラウドスピーカーみたいな声がしたからだ。

「変態じゃないよ! 警察さ!!」

 声の主は、目の前のちんまりしたおばあちゃんで、それがまたびっくりだった。

 やがて、ノッシノッシというような重い足音が、ゼイゼイという喘鳴ぜいめいとともにやって来た。

 奥からあらわれたのは、これまた昔話から抜け出てきたような御仁だった。ただし、こちらは西洋の童話、実写化した〈卵男ハンプティ・ダンプティ〉といった風情だ。

 太りじしの大柄な男性で、立派な体格のわりに手足が短いので、移動するのにひと苦労な様子に見える。ただし、鈍重な感じはしなかった。丸っこい顔も腹も、内側にエネルギッシュな何かが、みなぎっているようで活力にあふれている。短髪で、秀でた額のしたの眼は細く、鼻はわし鼻、アゴが張っていて、唇が厚い。魁偉かいいなようでいて、愛嬌のある不思議な顔立ちだ。

 とまれ、以上のような巨漢が、パジャマのような、病院着のような格好で現れたので、ぼくはあんぐりと口を開けるはめになった。

 〈卵男ハンプティ・ダンプティ〉は、不機嫌そうな眼で、訪問者をじろりとひと睨みした。そして、

「警察? もっとお断りだ! 母上、また勝手に依頼を請けたんですか? どうしてボクを、そっとしておいてくれないんです!」

 と再び、がなったのだった。

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