第6話 契約成立

「アイ、見積もり書を出してくれ」

「わかった!」


 アイは元気よく返事をすると、パソコンを操作するスピードを上げた。

 数分後、画面にはたくさんの0が並んだ数字が表示されていた。


「費用としては……ざっとこんなもんだな」


 その額は一般的な三十代女性の平均年収を軽く超える額だった。


「何この額!?」

「長年警察も捕まえられない正体不明の怪盗の調査ともなりゃ、これでも安いくらいだ。さて、ディアナ・モンド警部。あなたはこちらの依頼料を払えますか?」

「あ、あなたまさか……!」


 ディアナは唇を震わせながら俺のことを睨みつける。

 どうやら彼女も俺が高値の依頼料をふっかけていることに気がついたようだ。


「私立探偵ってのは調査に金がかかるんだよ。クライアントからはもっと安くならないか、なんて言われることも多いが、使っている道具、拘束時間を考えれば相場の額なんて格安もいいとこだ」

「ぐぬぅ……」


 ディアナは悔しそうな表情で歯を食い縛る。

 俺は口元を吊り上げるとディアナに向かって告げる。


「こっちだって商売でやってんだ。犯罪者を捕まえるための慈善事業は行ってないんでね」

「あんたそれでも名探偵!?」

「残念、私立探偵だ」


 俺は肩を竦めてから、改めてディアナの方に向き直る。


「依頼料が払えないんじゃ依頼は受けられないな。この話はなかったことにしようか」

「えー、かわいそうだから助けてあげようよ」


 横からアイが不満げに呟く。

 せっかく思惑通りに無茶な依頼を断れるというのに、いらんことを言いやがって……。

 俺は内心で毒づくとアイに冷たい視線を送るが、当の本人は気にした様子もなくニコニコとしていた。


「普段の仕事を手伝ってもらう代わりに割引ってどうかな?」

「却下だ」

「でも、うちの探偵事務所ってアイとパパだけで回してるじゃん。刑事さんに探偵の仕事を手伝ってもらえば仕事も捗るでしょ」

「残念ながら公務員は副業禁止だ」


 アイの案は即座に切り捨てる。

 この依頼は断るのが一番いい。これはスローン探偵事務所の所長としての判断だ。


「アイちゃん、何か欲しいものない? あたしが買ったげよっか」

「本当!?」


 しかし、アイの反応に希望を見出したのか、口説き落とす標的を変えてきた。

 厄介ごとの気配を感じた俺はこっそりディアナの元へ行き耳打ちをする。


「やめておけ、俺以上にふっかけられるぞ」

「子供の欲しがるものくらい何とかなるわよ。てか、あんたやっぱりふっかけてきてたのね……!」


 ディアナはギリギリと奥歯を噛み締める。

 怒りのあまり目が肉食獣のように獰猛になっているが、こっちとしてはそれどころじゃない。

 アイは目を輝かせると、勢いよく立ち上がって言った。


「じゃあ、アイはママが欲しい!」

「ほへ?」

「ほーら、厄介なことになった……」


 俺は頭を抱えてため息をつく。

 ディアナは俺の言葉の意味を理解できないのかポカンとした表情を浮かべていた。

 アイはそんなディアナの手を取ると嬉しそうにはしゃぎ始める。


「アイね。ずっとママが欲しかったの! パパは下の喫茶店のエリィさんにぞっこんの癖に全然進展ないんだもん」

「いや、エリィは癒しとかそういう類だから……」

「あーあ! 学校じゃ友達にはみーんなママがいるのにアイにだけはいないんだよね! あーあ! ママ欲しいなぁ!」


 アイはわざとらしく大きな声で嘆いてみせる。

 こいつ、痛いところを突いてきやがって……!


「……奥さん、いないの?」


 聞きづらい内容だったためか、逡巡した後にディアナは躊躇いがちに尋ねてくる。


「まあ、いろいろあってな。今は俺とアイだけで暮らしてるんだ」

「何かごめんなさい。変なこと聞いちゃったみたいで」

「こっちから振った話題だ。気にするな」


 申し訳なさそうにするディアナを見て、俺は首を横に振る。


「アイ、笑えない冗談はよせ」

「ちぇー……」


 アイは拗ねたように頬を膨らませる。

 そんな子供らしいアイの様子に毒気を抜かれたようで、ディアナは困ったような笑顔を浮かべていた。

 そして、ディアナはゆっくりと立ち上がる。

 その姿は覚悟を決めた者の佇まいをしていた。

 彼女は俺に向かって深々と一礼すると、はっきりとした口調で告げる。


「家事手伝いでも母親代わりでも何でもする。だからお願いします! どうか私の依頼を受けていただけませんでしょうか」


 ディアナは深く頭を下げると懇願するように言う。

 その言葉からは彼女の真摯さが伝わってきた。

 俺はチラリとアイの方を見る。

 アイもまたこちらを見つめ返して強く頷いていた。

 さて、どうしたものか……。


「一つだけ聞く。正体不明の怪盗の正体は誰であってもおかしくない。それこそあんたと親しい人間の可能性だってあるんだ」


 私立探偵として何度も受けてきた浮気調査では、旦那の浮気相手は友人だったり、近所の顔見知りなんてことはザラだ。

 俺の仕事はその真実を暴き、依頼人に伝えるだけ。

 真実に耐え切れずに泣き崩れる人を俺は大勢見てきた。


「真実を知るっていうことは残酷なことでもある。探偵の仕事は真実を暴くことだけだ。あんたは残酷な真実が待っているとしても耐えられるのか?」

「どんな真実だって受け止める覚悟はできているわ」


 それはとても真っ直ぐな言葉だった。

 彼女の目を見ればわかる。

 ディアナの心はまるで宝石のように眩く輝いているのだと。


「覚悟は伝わった。ちなみに、公務員の副業の件は大丈夫なのか?」

「給与が発生しなければ問題はないわ」

「あんた、頭が固いかと思えば意外と融通が利くんだな」


 俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。


「そんじゃ、契約成立だな。アイ、契約書を」

「はーい!」


 アイはすぐに契約書を印刷して持ってきてくれた。


「それじゃあ、ここに署名と……ここにハンコを押してください」

「わかったわ」


 ディアナは嬉しそうにスラスラとアイに言われるがままに契約書にサインをしていく。


「やったー! これで契約成立だね!」


 アイはディアナから受け取った契約書を両手で持って嬉しそうにはしゃぐ。

 そして、契約書の下に挟んであったらしい二枚の紙切れが落ちてくる。

 一枚はカーボン紙。もう一枚は――


「って、これ婚姻届じゃない!」

「笑えない冗談はやめて、笑えない本気出してみた!」

「知能犯捜査係の警部に堂々と結婚詐欺を仕掛けるんじゃない」


 とにもかくにも一つだけわかったことがある。

 ディアナ・モンド。彼女の目は節穴だ。

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