第9話 尾行開始

 依頼人のスタンリーさんには予め偽装した学生時代の友人との同窓会のハガキを送っておいた。

 これによって奥さんであるインカさんはスタンリーさんが丸一日いないという予定をその目で確認することになり、何らかのアクションを起こす可能性が高まった。


 浮気調査で裏を取るには長い期間尾行をする必要がある。

 そうなると必然的に調査費も跳ね上がっていく。

 依頼料が高くなればなるほど、依頼人は探偵への依頼を渋るようになる。

 そうなっては元も子もない。

 だから、偽の同窓会のハガキを出すことによって、調査日を絞らせてもらったのだ。


「っと、動き出したか」


 物陰からスタンリーさん宅の様子を窺っていると、インカさんが家から出てきた。

 気合の入った化粧というより、美人が台無しになるほどの厚化粧である。わざとやっているのかと疑いたくなるほどだ。

 灰色の長髪を纏めてお洒落な帽子をかぶっているし、服装にも気を遣っているのに、どうして化粧がそんなに残念なのだろうか。

 とにもかくにも誘い出しには成功した。あとは距離を取りつつ尾行するだけだ。


 特に周囲を警戒することもなかったため、俺は怪しまれずに距離を保つことに成功した。

 インカさんはカフェやブティックなどを回り、旦那のいない休日を楽しんでいた。


 俺は彼女に接近する度に服装を変えて尾行を続ける。

 カフェで軽食を取る際、インカさんはバッグから持参した木製のマイフォークやマイスプーンを取り出して食事をしていた。

 木製食器を持参するなんて余程こだわりがあるのだろうか。

 そんなことを考えながらも目線は切らずに観察を続ける。


 尾行開始から四時間後、彼女は急にあたりを警戒し始めた。どうやら尾行はここからが本番のようだ。

 今度は男の姿に変装する。

 警戒しているときは女装の方がいいのだが、さすがに半日以上女性の姿で付けていたのならここでガラッと印象を変える必要があった。

 それにスーツを着込んで伊達メガネをかければ、時間帯的にも仕事帰りのサラリーマンにしか見えないだろう。

 これで怪しまれることはないはずだ。


 俺は彼女を見失わないように注意しながら距離を詰めていく。

 そして、彼女が有名な宝石店〝セレーヌ〟に入ったのを確認して、俺もその店に足を踏み入れた。

 店内はガラスケースの中に宝石をあしらったアクセサリーが飾られており、照明が反射している。


「すみません、婚約指輪が欲しいんですが」


 俺は店員に声をかけて、ショーケースの中を覗き込んだ。

 別にディアナに指輪を買うわけじゃない。これはただの偽装である。


「婚約指輪ですね、承知いたしました」


 婚約指輪を買うための下見にやってきた仕事帰りのサラリーマン。

 違和感はないだろう。

 そのまま店員のおすすめなどを聞いていると、店内にある人物が現れる。


「あれは……」


 インカさんが会っている赤みがかった茶色の巻き髪と紫色の瞳が特徴的な女性。

 あれは世界でも有数の大富豪であるクロサイト財閥令嬢ロゼミ・クロサイトだ。

 クロサイト財閥という名前自体世界的にも有名だが、ロゼミ個人の名前も有名である。

 クロサイト一族には代々外の血を入れないという風習があり、親戚同士で結婚することがおおい。

 そのため、ブサイクの遺伝子だけでは美形が生まれないと揶揄されてきたが、一人娘のロゼミは誰もが認める美少女だった。

 もちろん、これは金持ちに対するただのやっかみで、歴史上には美形のクロサイト一族も存在する。数はそんなにいないが……。


 容姿端麗で世界有数の財閥令嬢。そんな彼女が有名な理由は他にもある。

 ロゼミは事あるごとに貴重な美術品や宝石を集め、ベオウルフへと挑戦状を叩きつけている物好きな金持ちだ。

 インカさんは専業主婦。

 金に物言わせて宝石を買い漁っているロゼミと繋がりがあるとは思えなかった。

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