第27話 スラムの獣に気をつけろ

 鮮血鬼カーミラ。

 その名前を聞いた瞬間、空気が変わった。


「その存在すら不確かで、確実に標的を仕留めるって噂の女の殺し屋か」

「一課でも迷宮入りの殺人事件では、大体カーミラの仕業にして捜査を打ち切ることもあるから考えたくはなかったんだが……」


 カーミラは、裏社会に生きる殺し屋の名だ。

 容姿、年齢、本名は不明。


 ただ、とある女刑事が一度だけやり合ったことで性別が女性であることは判明している。

 またカーミラは犯行の手際の良さだけは確かなもので、一度狙った獲物は必ず殺すことからついた名前が鮮血鬼。

 カーミラの名の方は殺しの標的にされていた裏社会に関わっていた人間が漏らした名で、そいつも既にこの世からいなくなっている。


「パパ、確かママはカーミラに会ったことあるんだよね?」

「ああ、取り逃がしたらしいけどな」


 その女刑事とは言わずもがな。


「ママ? ライアン君。いつの間に再婚したんだい。それにカーミラに会ったことあるってどういうことだね」

「あー、いえ、それはですね……」

「二人共、早くリビング来てよ! ご飯冷めちゃうでしょ!」


 事務所にエプロン姿のディアナが駆け込んできたことで再び空気が弛緩する。


「ディアナ君?」

「あ、アレク警部?」


 ディアナが元捜査一課にいたことは知っているため、アレク警部と面識があってもおかしくはない。


「まあ、要するにこういうことです」


 ディアナもアレク警部も固まったままだ。

 このままでも埒が明かない。


「俺達、付き合ってるんですよ。それでディアナはこうして家事とかいろいろやってくれているというわけです」

「そ、そうなんですよ!」


 引き攣った笑みを浮かべなら、俺の話に乗るディアナ。

 やはり俺にベオウルフのことで捜査依頼をしていることは隠しておきたいようだ。

 アレク警部は俺達の言葉を聞いて納得したように頷いていた。


「大方、ベオウルフ絡みのことでライアン君に相談している内に仲良くなったのだろう。うむ、ディアナ君も見る目があるじゃないか」

「へ?」

「いやぁ、私もよく彼には事件の相談をするんだよ。彼は私立探偵という立場もあって、事件を解決しても騒がれたくないと私に手柄は譲ってくれるんだがね」

「へ、へぇ、そうだったんですか……!」


 乾いた笑いを零したディアナは即座に俺を睨み付けてくる。

 これなら隠す必要はなかったじゃない! と言わんばかりの眼力だ。


「ところで二人はどういった関係なんですか?」


 俺は空気を変えるために、ディアナとアレク警部の関係について尋ねた。


「あたしが警察官になってから、現場での教育担当をしてくれたのがアレク警部だったの。まあ、あたしにとっては第二のお父さんみたいな存在よ」

「ははっ、そいつは光栄だよ。ディアナ君はお父さん譲りで正義感も強くてね。教育担当としても彼女は良い刑事になると思っていたんだ」

「めちゃくちゃ厳しかったですけどね。あたしはてっきりキャリア組への洗礼だと思ってましたけど」

「一課の刑事は殺人犯の確保も行う。命に係わる仕事である以上、教育に手は抜けない」


 アレク警部は人の良さそうなおじさんのような雰囲気を醸し出しているが、現場では捜査の鬼と呼ばれて恐れられている。

 ディアナの正義感の強さはどちらかというと彼譲りのように感じた。


「特にブランニュイ市は物騒だからな。私が警察官に成りたての頃なんてもっとひどいものだったよ」

「現場で死ぬほど聞かされましたよ、その話……」


 ディアナの表情を見る限り、教育期間中何度も聞かされた話のようだ。


「そんなに物騒だったんですか?」

「ああ、交番勤務だった頃はスラム街が近かったこともあって、スリや殺人が日常茶飯事だったんだ」


 その二つには大きな隔たりがある気がするのだが、逆に言えばその二つが同程度の頻度で起こるほど犯罪塗れだったとも言える。

 ブランニュイ市のスラム街とはそういう場所なのだ。


「警察官の私ですら何度かスリにあったくらいだ。当時、あの辺りでは〝スラムの獣に気をつけろ〟という言葉があったくらいだ」

「スラムの獣、ですか」

「うむ、スラム街では有名なスリの通り名でね。その正体はベートという名の少年だった。母親に盗みを強要されていたようだったんだが、母親が死体で見つかった日に妹と共に行方を眩ませたんだ」

「ホント、胸糞悪くなる話よね」


 ディアナは苦虫を嚙み潰したような表情で吐き捨てるように言った。


「容疑者はガイシャの息子であるベート・バートリ。当時まだ十歳の子供よ」

「日常的に兄妹共に暴力を振るわれていたという話も聞いている。母親が遺体で発見されたと聞いたときは自分の無力さを思い知ったよ」


 そう言ってアレク警部はやるせない表情を浮かべた。

 重苦しい空気の中、唐突に無機質な着信音が鳴り響く。


「おっ、すまん。電話だ」


 どうやらアレク警部の胸ポケットに入っていた携帯電話が鳴ったようだ。

 電話に出たアレク警部は驚いたように目を見開く。


「はい、こちらブライト――何ぃ!? 大量のチョコレートで溺れた遺体だと!?」


 どうやら冗談のような死因の遺体が見つかったらしい。

 本当にこの街は物騒だ。


「すまないなライアン君、ディアナ君、アイちゃん。事件だ、もう行かなくては」

「じゃあ、殺人事件の方で何かわかったら連絡しますね」

「ああ、よろしく頼む」


 そして、アレク警部は慌ただしく事件現場へ向かっていった。

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