第32話

「死ねえええええっ。糞ガキイイイぃっ!」


 そんな運の悪さを嘆く俺の前で、振り上げられた二本の包丁。その後ろで何かが動いた。

 ガンッという鈍い音とともに殺人鬼の頭が横へと振られ、俺の上にあった重しがなくなる。殺人鬼が横に倒れていた。


「大丈夫ですか、串田さん」


 暗くて見えない。だが、その声で分かった。


「鳴河かっ! 良かったぁ。生きていたのか」

「はい。でも間に合って良かった。早く逃げましょう。立てますか」

「いや無理だ。まだベルトで腹を拘束されていて体の自由が利かない」


 それだけではない。未だ後頭部と腹部の痛みは持続していて、例え拘束が解けても万全の状態には遠いだろう。しかし拘束のあるなしでは雲泥の差だ。

 俺は鳴河に立ち上がらせてもらうと、意識を失っているのか、ぴくりとも動かない殺人鬼に視線を落とす。


 割れた般若の面から素顔が見える。声同様にしわがれた顔のばあさんだった。着物が開けて露わとなった腕や足も細く、何人もの人間を殺害したとは考えられない貧弱さだった。灼熱の怒りのみが、彼女を奮い立たせる原動力だったのだろう。


 ところで――。


「何をしたんだ。このばあさんに」

「撮影機材の入ったバッグで殴ったんです。串田さんが大変だと思って、咄嗟に撮影道具を置いていた部屋に入ってそれで。怒りますか」

「助けてもらったのになんで俺がお前を怒るんだよ」

「だって機材ですよ。今ので壊れたかもしれません」


 そういうことか。


 キャンプ場に着いたとき、鳴河はつまづいて転んだ。その際、カメラが入ったボストンバッグを地面にぶつけて、俺はそのことに対して怒ったんだ。

 この状況でそんなことを考える鳴河の執念に半ば驚き、半ば呆れてしまう。


「気にするな。機材なんてどうだっていい。それよりペンチを持ってないか。結束バンドが締まってて、ベルトが外せない」

「すいません。ペンチは持ってません。ただ、美術用に一本持ってきたはずなので、それを持ってきます」

「あ、待て。それだったら先まで俺が使ってて訳あって投げちまった。捜すしかないな」

 俺はスマホのフラッシュライトを付けると、正面入口のほうへ向かう。

「私も一緒に探します。その前に」


 すでにスマホのフラッシュライトを点灯させていた鳴河が、殺人鬼の両手から包丁を取り上げる。その行為を見て、俺は自分の軽率さを呪った。殺人鬼は死んだわけではなく、ただ意識を失っているだけなのだ。意識を取り戻してまた包丁で襲い掛かってくる可能性だって充分にあるのだ。


「サンキュー、鳴河。そいつはどこかに投げ捨てておけ」


 包丁の刃の部分を持っている鳴河が首を振る。


「だめですよ。これは証拠品ですから。あとで警察に渡すのでバッグに入れておきます」


 鳴河が殺人鬼を殴ったバッグの中に包丁を入れる。機材に血が付着するだろうが、それに対しても怒る気はない。こんな非常事態時にも冷静な鳴河に、ただただ感心するのみだった。


 ペンチは正面入口ドアを開けたところに落ちていた。ガラスを割ったとき、勢いが削がれてすぐに落下したのだろう。 

 俺はその場に座りペンチを鳴河に渡すと、結束バンドを外すように頼んだ。鳴河は「はい」と答えると、俺の後ろへ移動した。


 玄関のすぐとはいえ、五時間ぶりの屋外。俺は大きく息を吸うとゆっくりと吐く。状況的に不謹慎とはいえ、都会の濁り淀んだ大気では味わえない澄んだ空気は実においしかった。


「なあ、鳴河」

「はい、なんですか」

「会長はどうしたんだ? 行方不明って言っていたが」

「分かりません。天王寺君が殺された後、私に逃げろと言って、そのあとのことは」

「そうか。生きているといいな」

「はい。高柳さんはどうしているんでしょうか」

「健なら管理小屋に来たぞ。城戸を放っておけなくて池に向かったが……戻ってこないな」


 池のほうに目を向ける。ライトの光は見えなかった。


「結束バンドが取れたら一緒に見に行きましょう。そして高柳さんと合流したら会長を捜して警察を待ちましょう」

「そうだな。にしても警察も遅くないか。辺鄙な場所で時間が掛かるとは言っていたが――」


 視界で白いものが動いた。

 殺人鬼が目を覚ましたのだ。般若の面の老女は上体をあげると首を左右に振る。俺達を捜しているのだろう。そばにいないと知ると、立ち上がって裏口を覗き込むような仕草を見せた。


 額から照射されるハロゲンの光が、殺人鬼の半身を浮き上がらせる。

 俺はその光景に息を飲んだ。

 殺人鬼は包丁を持っていた。

 三本目を着物の中に隠し持っていたのだ。


 なぜ俺はその可能性に至らなかったのだろうか。鮫島さんを刺した包丁のほかに二本持っていたのだから、あと一本くらい予備として所有していたとしても不思議ではなかったのに。もしかしたらまだ数本、着物の裏に所有しているのかもしれない。


「鳴河、まだかっ、早くしろ!」


 俺は極力、小声で話し掛ける。


「半分くらい切れているんですが、金具と密着しているところがうまく切れなくて。でももうすぐです」


 しかし鳴河の音量は通常通りで俺は大いに焦った。

 殺人鬼の動きがピタリと止まる。やがてスローモーションのように体が正面入り口のほうへ向いていく。


「頼む、早くしてくれっ 殺人鬼が目覚めた。包丁を隠し持っていやがった!」

「分かりました。すぐです。待ってください」


 急に眩しくなる。殺人鬼がこちらを向いたのだ。

 右手で光を防ぐように手庇てびさしをし、左手でスマホのフラッシュライトを殺人鬼に向ける。一歩、一歩近づいてくる殺人鬼がはっきりと見えた。


「鳴河、まだかっ」

「もう少しです」


 殺人鬼が般若の面を投げ捨てる。ヘッドライトの部分だけを残した状態で現れた老婆の顔は醜悪に歪み、凶猛な殺意が塗りたくられていた。般若の面がないのに正に般若そのものだった。


「こんのおおぉごぁきゃあああっ!」


 殺人鬼が走ってくる。

 はだけた着物がまるでマントのようにはためいていて、その裏地には予想通り数本の包丁らしきものが見えた。


「鳴河っ、早くしろっ!」

「取れました。あとは金具を外すだけです」

「ぶぅちころしてやあぁるううううっ!」 

「鳴河ーっ!」

「外しました」


 咄嗟の判断だった。

 俺は外れたベルトを手に持ち立ち上がると、そのベルトのバックル部分を迫りくる殺人鬼の顔に振り下ろした。


「ぎゃっ」


 バックルが殺人鬼の顔面にヒットする。リーチの差で包丁よりも先に攻撃を当てることができたのだ。


 包丁を落とした右手で顔を押さえる殺人鬼の痩せこけた腹に、俺は足の裏で蹴りを食らわす。老婆だとはいえ、そこに手心は一切ない。殺るか殺られるかの瀬戸際で、そんな余裕はなかった。


 文字通り後方に吹き飛ぶ殺人鬼は、背中から地面に落ちて奇妙な声を上げた。咳き込みながら右へ左へと転げまわるキャンプ場の所有者。全ての包丁を取り上げて縄で縛り上げたい衝動に駆られたが、包丁を振り回して暴れる彼女に近づくのは止めた方がよさそうだ。


「鳴河、行くぞっ」

「どこに行くんですか」

「まずは池の方に行って健と合流。そのあと会長を捜して、四人で警察を待つ」

「その間に殺人鬼がまた追ってくるかもしれません」


 殺人鬼に目を遣る。苦しそうに喘いでいるが、いずれ再び立ち上がるだろう。


「かもな。だが殺人鬼だって相手が四人となれば簡単には手出しはできない。それでも襲い掛かってくるなら、こっちだって武器を使えばいい。このベルトや木の棒、あるいはそのバッグに入っている包丁だったりな」


 左方でガサリと音が聞こえる。

 思わず振り向きフラッシュライトを向ける俺だったが、誰もいなかった。小動物の類だろうと思うことにした。

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