第9話


 四

 

 

 クランプ・アップか。

 終わってしまう寂しさが、未だ拘束された状態の全身を包む。同時に無事に終わってよかったという安堵感もまた。

 

 やはり廃墟というのは、それだけで何かを誘引させる魔物が住んでいるような気がする。俺の心騒ぎを喚起したのは、その魔物の放つ匂いなのかもしれない。


 確かにこのような〝いかにも〟な場所で〈モジノラクエン〉を開いていれば、例え取るに足らない荒唐無稽なゴシップであっても、ある種の真実味というのが全く帯びないわけではない。しかしそこから不安心を抱くのは俺であり、俺の演じる小説家の男がなぜ、こんな場所で〈モジノラクエン〉を使って殺人鬼と〈表現ゲーム〉をしているのか、には些かの関係もない。


 ――〈モジノラクエン〉にはそこはかとなく死の匂いがするわ。それだけで充分なのよ――。


 樽井会長の言葉を思い出し、やはり安易だなと高柳に同調したところで、俺は鳴河が一向に戻ってこないことに気が付いた。鍵を持ってくるだけにしては時間がかかり過ぎている。


「あのアマ……っ」


 瞬間的に頭に血が上って来たところで、スタンドミラーに廊下を歩く照明係の二年生、天王寺が映った。


「天王寺っ、ちょっと待て」

「あ、はい。なんすか、串田さん」


 天王寺がひょろひょろと部屋の中にやってくる。手にはLEDライトとレフ板を持っているが、片づけの最中だったのだろう。そのレフ板の持ち方に難があったのか、レフ板の角が俺の眼前にあるノートパソコンに当たり、机の奥へと動いてしまった。


「おい、気を付けろ。落ちたらどうすんだよ」

「あ、すいません。で、何か用っすか?」

「ああ、あいつ……鳴河を知らないか? この拘束具の鍵を持ってこいって言ったのに全然戻ってこねえんだよ」


 視線を上に向けて僅かの思考ののち、天王寺は云う。


「あ、鳴河さんなら会長の記録係スクリプター講座を受講中っすね。ほら、うちの映研ってなぜか綾野さんのみがスクリプター担当じゃないっすか。でも慣習というか、スクリプターって女性のほうが向いているわけで、だからみたいっすよ」

「なんで今そんなことやってんだよ」

「あ、そう思いますよね。おかげで撤収の準備が遅れちゃって、本当嫌になっちゃいますよ。綾野さんは綾野さんで、小便するって外に出てったまま戻ってこないですし」


 スクリプターが女性向きというのはさて置き、綾野がそのスクリプターに向いていないのは確かである。天王寺が〝なぜか〟と付けたのはそういうことだろう。


 いや、そんなことはどうでもいい。

 俺は、喉元を通り過ぎた言葉に鳴河への憤りを乗せて天王寺へぶつける。


「受講だかなんだか知らねえけど、まずは鍵を先に持ってくるべきだろうが。あいつ本当に使えねえな。天王寺。代わりに鍵を持ってきてくれ。鍵の場所は鳴河に聞いてさ」

「あ、はい、分かりました」


 天王寺は軽く会釈すると、俺の視界から消える。

 天王寺が鍵を持ってきて無事、拘束から解放された暁には、鳴河に厳しく言わなければならない。例えそれがパワハラと言われるものであってもだ。それほど俺は腹を立てていたわけだが、刹那パソコンが奇怪な音を上げ始めたので、意識の全てがそちらに向いた。


 ノイズだ。

 女性が金切声で絶叫するようなノイズがパソコンから発生しているのだ。そのおぞましい音に不快感が絶頂を迎えそうになったとき、ノイズは何事もなかったかのように止まった。


 串田の怒りが瞬く間に霧散し、背中にひんやりとしたものを伝う。引き攣った笑みも出た。


「いやいや、ないない」


 スピーカーに埃でも溜まっているのか、そのほかの原因なのか不明だが、取り敢えずパソコンを確認しておきたい衝動に駆られる。しかし指はキーボードに届かなかった。さきほど天王寺がレフ板でパソコンを押した際に、手元から離されたままだったのだ。小さく舌打ちする俺は、なんとなく目を瞑りモニターの画面を見ないようにすると、天王寺を待つことにした。


 すると背後の廊下が騒がしくなる。何人かの人間が寄り集まって大きな声で話をしているようだ。最初、撤収についてのことかと思ったが、声に含まれる異質な切迫感がそれを違うと否定する。


 何かトラブルでもあったのだろうか。ついさきほどの不可解なノイズのこともあり、胸のざわめきが次第に大きくなっていく。


「なんだよ? どうした? おい、誰かっ!」


 誰も来ない。声が小さかったのかもしれないと、今度はあらんかぎりの声で応答を求める。すると開け放たれたままの部屋の入口から、


「は、はーい」


 と城戸が顔を出した。

 汗の玉でも浮かせているような、不安を滲ませた表情の城戸。何か深刻な出来事があったに違いない。


「城戸、何かあったのか?」

「えーと、その、実はその、ですねー……」


 奥歯に物が挟まったような言い方の城戸。


「なんだよ? 早く言えって」

「いや、あの……殺人鬼がこの○△×町に潜んでいるらしいです」

「は? さ、殺人鬼って、〈ウェバーの亡霊〉のことを言ってんのか?」

「違いますよー。それは、け、高柳さんが演じたのじゃないですか。殺人鬼って、本当の殺人鬼なんですよ! マジでやばいかも」


 錯乱めいた城戸のその言葉にどう返していいか分からないでいると、その高柳が、城戸の前にでるようにしてスタンドミラーに映り込む。高柳も城戸と同じく、表情に動揺の色を浮かべていた。


「健、説明してくれ」

「ああ。……今日、埼玉県の✖✖市で陰惨極まりない一家殺人事件があったんだけど、裕司は知ってるか? 午前中の慌ただしいときだったんで、俺達は揃いも揃ってそのニュースを今、スマホで知ったんだけど」

「いや、俺も知らない。そんな事件があったのかよ」

「うん。で、ニュースによると、その犯人がどうやらこの〇△×町に逃げ隠れているとか言ってるんだよね。✖✖市に隣接しているから在り得る可能性だし、だからちょっと、いや、かなり慌てている状態」

「マジかよ……」


 俺は唾を飲み込む。

 〇△×町はそんなに広い町ではない。しかも、なるべく人目を避けたいという犯人の心理を考えると、この場所は相当にまずいのではないだろうか。その懸念はすでに映研メンバーの共有事項になっているのか、


「撤収、撤収よっ。すぐにでもこの町から出なくっちゃ。もう、綾野君はまだっ?」


 樽井会長の早急な退避を促すような甲高い声が、奥のほうから聞こえてきた。


「ってことだからさ、速やかな撤収のために戻る。なんせ本物の殺人鬼だからね」


 高柳が右手を軽く上げたのち、城戸を伴って視界から消える。何度目かの一人きりなった俺は呆然の余韻から抜け出すと、その情報が確かなのか無性に気になった。


 幸いにも目の前にはネットに繋がったパソコン。よしっと胸中でガッツポーズしたのも束の間、キーボードに手が届かない現実を前に大きくため息を吐いた。


 その現実を作った天王寺はまだ戻ってこない。撤収の準備に追われているのだろうか。しかしだからと言って、身体の自由を奪われている俺を放っておいていいという理由にはならない。さっさと俺を解放して、撤収の準備の人員を増やしたほうが効率だっていいに決まっている。


「あいつら先輩をなんだと思ってるんだよ。馬鹿共が」


 使えない後輩に悪態を吐いたそのとき、ふと室内の暗さが僅かに増す。照明機材もなくなっているので、撮影が終了したあとは明るさとは無縁だったのだが、それでも遮光性に乏しいカーテンから心許ない西日は届いていた。それが遮られていたのだ。

 

 外に立つ何者かによって。

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