第8話


「天王寺、トイレはどこか知ってるか?」

「トイレっすか? 管理小屋のトイレなら入口のすぐそばにありますよ」

「そういやあったな」

「あ、でも流せませんよ。水、止まってますから。それにさき見たんですど、ブツが詰まってて視覚的につらいっす」

「まじかよ。じゃあ、どうすんだよ」

「自然のかわやを使ってください。大のほうでしたらトイレットペーパーも持ってきていますので」


 少し考えれば分かることだ。一七年も前に営業を停止しているのだ。ライフラインを機能させておくわけがない。立小便のできる男連中はいいが、城戸や鳴河は、若干の苦痛を伴うことになるだろう。大となれば男だって抵抗はあるが。


「トイレットペーパーはいいや。小便だから」

「あ、突き当たって右側にある裏口を使ってください。すぐに外に行けます」

「分かった」

「あ、それと会長がいたらこの部屋に来るように行ってください。照明のことで聞きたいことがあるので」

「了解」

「あ、それと」

「まだあるのかよっ」

「ついさっき、僕が大のほうをしたので気を付けてください。あんまり奥のほうに行くと踏むかもしれないっす」


 出しっぱなしかよ。

 と口に出しそうになったが止めた。袋に入れて持ち帰るのはあり得ないとして、わざわざ埋めるのもスコップでもなければ気が乗らない。さきほどの天王寺の言からしてスコップもないようだから、出しっぱなしにするしかないのだろう。おそらく尻を拭いたトイレットペーパーも付近に投げ捨てているに違いない。


 裏口から出た俺は樹木の乱立する奥の方には行かず、その手前で用を足した。

 戻ろうとしたところで天王寺の話を思い出す。


 ――会長か。


 そういえば管理小屋では見かけなかったが、どこにいるのだろうか。

 俺は管理小屋の周囲をする。しかしいない。ではそれ以外の場所なのだろうと周辺に目を向けると、小さな小屋のそばに誰かが立っているのが見えた。


 虹色のYシャツ。樽井会長だ。こちらに背を向けて、どうやらスマートフォンで誰かと電話しているらしい。


 俺は小屋へと近づく。〈炊事用薪〉と書かれた看板を見る限り、薪の収納小屋のようだ。外にまで散らばっている薪を避けながら樽井会長へと近づく俺の耳に、会話の内容の一部が飛び込んでくる。


「――ですね、大体、……半……にお願いします。いえ、すぐ……わけで……ですが、速めに、はい。……。――はい。もちろんです。思う……って下さい。それでは。はい。失礼します」

「会長、電話終わりましたか? 天王寺が照明のことで――」


 樽井会長が勢いよく振り向く。顔には純粋な驚きを乗せて強張った表情。話し掛けてはいけなかったかのような雰囲気の中、俺が固まっていると、樽井会長の顔がいつもの見知っているものへと変わった。


「あら、串田君。えっと、なんだっけ」

「あの、天王寺が照明について聞きたいことがあるそうです」

「あらそう。分かったわ。戻りましょ。ところで串田君」

「はい」

「電話の会話聞いてた?」

「いえ。全く」


 断片的に聞こえてはいたが、文章としての意味は不明だった。だからなんとなくそう答えたほうがいいと思った。


「そ、ならいいんだけど。あ、そうそう。まだ誰にも見せてなかったけど」


 電話の件をあっさりと終わらせて、樽井会長は斜めがけのウエストポーチに手を突っ込む。引き出した手に持っていたのはマスクだった。


 一目見てぞっとする造形だった。女性の顔を金型として作ったようなそのマスクは、薄い肌色の上に化粧を施したような色が付いていた。マスクを付けた人間のために目玉の部分はくりぬかれているのだが、まつ毛の上に紫色のアイシャドウ、そして頬にはピンク色のチークが表現されていた。


 細い眉毛に真っ赤な唇も備わっており、全体的なチープさもあってか、滑稽なデスマスクといった感じである。アダン・ウェバーの残虐性を抜きにしても、充分に不気味なホラーマスクだと思った。


「……これが、ウェバーの考案した化粧マスクですか」

「そうよ。十九世紀の美顔術で、これさえあれば化粧品や白粉、化粧水などを使わなくて済むっていう優れモノよ。医療目的のマスクとして特許も取ったらしいわね」

「そうなんですか。でもこんなもの付けて外歩きたくないですよね」

「違うわよ。これは基本的には睡眠中に付けるものなのよ。それによって美白、漂白、保湿が期待できるの。とっても効果がありそうじゃない?」

「でもこれはレプリカですよね」

「そうね、今のは本物のマスクの話。ただこのレプリカ、ネット通販で購入したのだけど、年月を感じさせる色褪せとひび割れがリアルすぎるのよね。だから一万六〇〇〇円もしたのかしら」


 妥当な値段かどうかはさておき、レプリカにしては高いと思った。


 俺は樽井会長からマスクを受け取ると、感触を確かめて細部までよく見てみる。

 マスクの部分が柔らかい。樹脂製かと思っていたがそうではなく、ゴム製のようだ。内側を見ると毛織物素材になっていて俺は驚く。美容効果を生み出すためのものなのだろうが、このまま付けたら顔が痒くなりそうである。というより、黄ばみや黒ずみが散見されるが、これも仕様なのだろうか。


 寝ているときにずれないためなのか、化粧マスクの側面にはゴムの留め金が六つもあり、三本のゴムバンドで交差させて顔に密着固定するようになっていた。一見、息苦しそうだが、若干半開きの口と鼻の穴の部分が開口部となっているので呼吸は問題なさそうだ。


 俺は樽井会長に化粧マスクを返した。


「会長はそのマスク、付けたんですか」

「ちゃんとは付けていないわね。なんかほら、このフランネル素材が不衛生じゃない? だからこうやって顔の前で持って鏡で見ただけよ」


 と言って、顔の前に持ってくる樽井会長。


「どう、綺麗かしら?」

「……いや、綺麗っていうか不気味っていうか」


 ところで不衛生な部分に顔が接触する第一号が高柳なのだが、そこらへんを会長はどう思っているのだろうか。少なくとも口が触れる部分にはシートなどが必要だろう。そういえば高柳が紐なしの貼るマスクを持っていたような気がするが、それがそうなのかもしれない。


 樽井会長がまだ顔にマスクを当てている。無言で俺のほうを見つめながら。

 いや、こちらを向いてはいるがその両眼は俺を認めてはおらず、どこか虚空を見ているようだった。


「会長、どうかしました?」

「……」

「会長っ」

「……あなたは、だれなの?」

「は? いや、串田ですけど。って、そういうのはいいですから。会長っ」

「えっ? ああ、ごめんなさいね。あたしったらまた……。さ、戻りましょう」


 我に返ったような樽井会長が管理小屋へと向かう。

 ここではないどこかに意識が行っていたように見えたが、気のせいだろうか。




「よし、取れた」

 

 俺が拘束される机の上に立つ高柳が、天井から古臭い照明器具を取り外す。

 電気丸鋸のセットを頭上に設置するのに邪魔なので外したのだが、これはもしかしたら器物損壊なのではないだろうか。そんな懸念を脳裏に浮かべている連中は俺以外にはいないようで、皆が映画撮影のためにやるべきことをやっていた。


 俺は高柳から渡された照明器具を、どこかに置いてこいと綾野に渡す。次に電気丸鋸のセットを高柳に渡す。そのとき、照明器具を持って廊下に出た綾野に、


「ちょっと痛いじゃない。気を付けてよっ」


 と怒る城戸の声が聞こえた。


「……ご、ごめんなさい」


 謝る綾野の声が聞こえるが、部屋に入ってきた城戸の顔を見る限り、彼のお詫びの言葉を無視してきたようだ。


「……あ、あの、本当にごめんなさい。当たったところ、痛い? 大丈夫?」


 果敢にも城戸への謝罪を続行しようとする綾野。

 おい、止めとけと思ったが、時遅し。


「もういいって。私、忙しいんだけど」

「……だ、だけど」

「忙しいって言ってんじゃんっ」


 城戸が声を荒げて綾野を完全拒絶した。綾野はまだ何か言いたそうだったが、これ以上は更に怒らせるだけと判断したのか、すごすごと廊下へと戻っていった。


 鳴河と合流して部屋の掃除を始める城戸。そんな城戸を見ていた俺と高柳は顔を見合わせて笑うしかなかった。


 しかし城戸のあしらい方は怜悧な刃物のようであり、綾野に対して同情するほどだった。綾野の自分に対する気持ちへの回答なのかもしれないが、そこまで嫌悪感を露わにしなくてもと思った。


 自分が鳴河に対する扱いとは別種。

 俺はそう思っているのだが、もしかしたら同じなのかもしれないない。


「ちょっと、このドアも外しちゃってくれる? 串田君と天王寺君やってくれるかしら」


 樽井会長のそれにはいと答えると、バールを手にしてドアの取り外しに掛かる。天王寺も参戦してドアはすぐに外すことができた。他人の所有物を壊したという罪悪感は全くない。撮影に向けて順調に進んでいることへの高揚感だけがそこにはあった。


 準備が終わり、俺は椅子に座る。

 すると天王寺が、机の脚と連結する拘束具グッズで俺の両手を拘束。次に両足も同様に、机の脚と拘束具で繋げる。そのあと腹部と椅子の背もたれをベルトで締め付けると、最後に椅子の背もたれの背束の一つと繋がっている首輪が、俺の首を捕縛した。


 拘束された小説家の男のできあがりだ。

 動かせるのは、ある程度ゆとりのある鎖で繋がれた両手だけだが、それでも満足な動きには程遠い。五体満足が当たり前だった身には窮屈極まりないが、撮影が終わるまでの辛抱だ。


 眼前の机には、〈モジノラクエン〉の開かれたパソコンが一台と、電動丸鋸セットと連動しているという設定の置時計のみ。

 俺は大きく深呼吸する。


「よぅぅぅぅぅいっ、――スッタアアアアトッ」


 樽井会長の号令。

 やがて撮影が始まり、二時間半後、大きな問題もなくクランクアップとなったのだった。

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