第17話


 七


 

 俺は体をビクンと揺らす。

 一瞬、また殺人鬼が壁でも叩いたのかと思い、鼓動が跳ね上がる。しかし殺人鬼は鮫島さんであり彼は映研のOBである。ドッキリの撮影だと明かされて大分時間が経ったが、あのときの恐怖はまだ脳ミソにこびりついているようだ。


 驚かすなよな。……撤収の準備でバタバタしてるのか?


 安堵感に包まれる俺はスタンドミラーに視線を遣る。背後の廊下には誰もいない。只、鏡の下のほうに何か見えた。廊下に於いてあるそれは手のような造形をしているが、実際は――


「え……?」


 本当に手だった。

 ぽきりと折れそうな細い手。その手の横には、短髪の細長い後頭部。


 間違いない。倒れているのは天王寺であり、大きな音は彼が倒れたときに発せられたもので間違いないだろう。ところで天王寺はなぜ、そこで倒れたのだろうか。


 俺は天王寺と何度か声を掛けてみたが、反応はなかった。

 なんとも形容できない不穏が足元からせり上がってくる。

 どうして誰も天王寺の元へ来ないのだろうか。あれだけの音を出して倒れた彼がそこにいるというのに。


 そうだ。やけに静か過ぎる。複数人で撤収の準備をしていることを踏まえると、それはあまりにも不自然な閑寂。まるですでに全員が撤収してしまったかのようだ。しかし天王寺と俺がここにいる以上、それは考えられない。撮影道具ならともかく、人を忘れるなどあるはずがないのだから。


 ――ではなんだ?

 この状況は一体なんなのだ?


 思考が複雑怪奇に入り組んだ迷宮に入ったそのとき、鏡の中にヌッと入り込んでくる物体。それが何であるかを理解した次の瞬間、赤い液体を滴らせるマチェットを握った人物の全身が、鏡へと映り込んだ。


 顔に化粧マスクを着用したその人物は、鏡越しに俺を見詰めている。体躯は小さく、鮫島さんにあった殺人鬼然とした威圧感や狂猛な雰囲気も感じることはない。しかしだからこそ、彼女が殺人鬼の恰好をしていることのちぐはぐさが際立っていた。


「鳴河、だよな?」


 髪型や背格好からして、明かにその人物は鳴河だった。

 しかし、俺の問い掛けに答えず口を閉じたままの鳴河。


「鳴河、お前何やってんだよ? なんの冗談だ? 今度はお前が殺人鬼役で俺を驚かすってか?」

「……」


 やはり鳴河は喋らない。

 無感情かのような、虚ろな両眼だけが相変わらず俺へと向けられている。


「そうか、何も話すなって言われてんのか。……もうさぁ、いい加減にしよーぜ。茶番は終わりにしてさっさと帰りましょうよ、ねえ、会長っ」


 くだらない。これは馬鹿らしいドッキリ撮影の続きに決まっている。おそらくどこかから城戸がカメラを向けているのだろう。ほかの連中は映像を通して俺の反応を楽しんでいるに違いない。


 そう考えれば、演者には程遠いイモ女である鳴河を、第三の殺人鬼役に抜擢したのも頷ける。アダン・ウェバーの魂が同じ女性という理由で鳴河に宿ったという設定は、充分に有りだからだ。


 しかしだからといって、撮影の続きに付き合うつもりなど毛頭ない。特に、分かっていながら鳴河の演技に付き合わなければならないというのは、到底容認できるものではなかった。


「お前のクソ演技なんかに付きあうかよ」


 俺は鏡越しに鳴河に言ってやると、もう一度樽井会長を呼ぶために口を開く。撮影には協力できないとの意思を明確に伝えるために。


 ――そのとき。


「きゃはははははははははハハハッ! あーっははははははハハハッ! くそクソ糞。私は、クソッ! くひひひひひいいいっ!」


 誰かが笑い、話した。

 いや、殺人鬼役の鳴河が哄笑して喋ったのだ。

 鳴河とは思えない狂気に満ちた奇声でもって。

 体を身震いさせながら頭上を仰ぐその姿は、今しがたの笑い声もあって異様の一言だ。


「な、鳴河……?」  


 鳴河にこんな演技ができるのだろうか。少なくとも俺は見たことがない。想像すら難しい。しかし声質は鳴河のものだ。だから鳴河であるには違いない。なのに鳴河であることを疑っている俺はその想像を脳裏に過らせて衝撃を受けた。


 つまり、アダン・ウェバーの魂が鳴河に宿ったという設定は、設定ではなく事実だということ。それは〈モジノラクエン〉を開いているときに発生したノイズもあってか、唯一無二の答えかのように俺を追い詰めた。


「ふふ、ねえ、あなたはどんな声で私を悦ばせてくれるの?」


 含み笑いを零しながら近づいてくる鳴河。

 あり得ない現象だと何度も言い聞かせているのに、逆に真実だという声で否定が塗りつぶされていく。


(そうだ、こいつは、本当に、殺人鬼――)


「どんな痛みを与えれば、私を満足させてくれるの?」


 殺人鬼が鳴河の声で囁く。

 殺人鬼がマチェットを頭上に掲げる。

 殺人鬼が、あなたの命の最後を聞かせてと云う。


「やめろ鳴河っ。やめ、止めてくださいっ! 俺を殺さないでくれええぇっ!」


 俺はありったけの声で慈悲を求める。

 

「はい、カットォ」

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