第31話


 12



 心臓の鼓動がうるさくてよく聞こえなかった。

 ただ、外耳道を通って鼓膜を振動させ内耳に伝わったその電気的エネルギーは、確かな音として脳に到達していた。


「え?」


 なのに信じられなくて、俺は眩しさも厭わず二度目を求めるように殺人鬼に振り向いた。


「はい、カットォって言ったの」


 やはり聞き違いではなかった。

 俺を雁字搦がんじがらめにしていた死神の手が徐々に離れていく。

 まだ続けていたのかという怒りが湧くはずなのに、止めどなく溢れる安堵の泉が全てを塞ぎこんだ。


 死神が掻き消える。まるでライトの光を嫌がるかのように。

 緊張の糸が切れ、俺は脱力のまま椅子に座った。


「撮影かよぉ。今回ばかりは本当に本当かと思ったぞ。あー、マジかぁ」

「撮影でしたぁ。良かったね、撮影で」

「良かったよ、良かったっ。マジで人生終了かと思ったもん」

「ふふ。人生、終わらないで良かったね」

「ああ、こんなところで殺人鬼に殺されて一生を終えるなんて嫌だからな」

「だよね。こんなクソみたいな廃キャンプ場で殺人鬼に殺されるなんてあり得ないよね」

「あり得ねーよ。実際、糞まみれだし、この廃キャンプ場」

「うんうん、きったないよね、ここ。糞もそうだけどゴミも落書きもすごいし、色々壊されて荒れ放題。ホントにきったないよね、ここ」

「……なあ、ところで」

「なぁに?」

 

 女性であるのは分かった。しかし聞いたことのない声だった。

 映研の女性は城戸と鳴河の二人だが、眼前の殺人鬼の格好をした人間は明らかにその二人とは違う声質だ。なんというか若さが足りない。ヒアルロン酸と粘液成分が減少しているのか、しわがれた声だった。


 鮫島さん同様に映研のOBだろうか。それもそれなりに年配の。


「わたし? そんなの決まってるじゃない」


 殺人鬼役の女が歩いてくる。両手には全長三〇センチ、刃渡り二〇センチほどの和

包丁が握られていて、ライトの光で赤く光っていた。


 どこかで見た覚えがある。

 そうだ。あのとき見た包丁と一緒だ。

 明らかに死んでいると確信できた鮫島さんの背中に刺さっていた包丁と一緒なのだ。


 目の前に来た殺人鬼の白い着物にはところどころどす赤い染みが付いていた。それは包丁を染めている赤と同じであり、血の臭いがした。

 俺は顔を上げ、息を飲む。


「このキャンプ場の持ち主だよっ! このガキ共がぁ!」


 般若の女が足の裏で俺の胸を思いっきり蹴る。椅子が盛大に後ろに倒れ、その勢いで後頭部を強か床に打ち付けた。脳みその揺れる感覚のあと、俺は後頭部を両手で押さえならがら唸った。

 コンクリートだったら即死だったかもしれない。それぐらいの激痛だった。


「糞まみれであり得ないだぁ? その糞をまき散らしてんのは貴様らだろうがっ。無断で入って落書きしてゴミ散らかして器物損壊して糞小便を垂れ流して、もういい加減にこっちは堪忍袋の尾が切れたんだよ、ああ? せめて糞はここに来る前にしてこい。人様の私有地で糞垂れ流してそのまんまにしてんじゃねえぇぇぇぞっ」


 椅子の座面を飛び越える般若の女が、落下の勢いのまま俺の胸に座り、両足で俺の両手を踏みつける。全体重の掛けられた尻の重力は、とてつもない圧力でもって俺の胸にダメージを与えた。


 肋骨がピキリと軋んだような気がした。もしかしたら折れたかもしれない。痛くて苦しくて叫びたいのに、肺が圧迫されて咳しか出なかった。


 後頭部と胸の痛みが間断なく俺を襲い、意識が朦朧として頭が回らない。それでも確実に分かっていることがある。

 それは、この殺人鬼は本当に殺人鬼だったということだ。


 であれば、疑問が生じる。

 この殺人鬼はなぜ、〝はい、カットォ〟などと口にしたのだろうか。この場にいない限り、それを知ることができないというのに。


「貴様らの悪行はぜーんぶお見通しなんだよ、こいつでね」


 右手に握る包丁の切っ先を俺の首筋に当てながら、左手に持つ包丁で胸元にぶら下がる長方形の物体を指し示す殺人鬼。苦痛の声を上げながらなんとか見てみれば、それはスマホだった。


「最近のすまふぉは本当に便利だねぇ。貴様らがキャンプ場に入ったのを監視カメラで確認したあと、このすまふぉから盗聴用のすまふぉに掛けるだけで、どこからでも鮮明な声が聴けちゃうんだから」


 聞いたことある。デジタル盗聴器として携帯やスマホを使用することがあると。盗聴側のスマホの録音機能を使い、液晶画面を光らず着信音も鳴らないように設定し、自動着信機能をオンにする。この状態にしたスマホを部屋のどこかに隠して、そのスマホに発信すれば自動着信で周りの音声を拾ってくれるという寸法だ。


〝はい、カットォ〟の文言を知っているということは、少なくとも盗聴用のスマホの一台は撮影していた部屋のどこかに隠されていたのだろう。おそらく傷んだ壁や床の隙間などに。


「そういえば、監視カメラの一つにあのデブが気づいたような気がしたけど、あのとき引き返していれば、みーんな死なずに済んだのにねぇ」


 デブ――綾野か?


 綾野が気づいたらしい監視カメラとはなんだろうか。

 俺は知ってる限りで、綾野の行動を思い出す。すると気になるシーンが再生された。


 下の駐車場からこの血原キャンプ場に歩いているとき、綾野が古臭いポールライトをじっと見上げていたことを。俺が声を掛けるとなんでもないと答えたが、今思えば何かを伝えたそうにも見えた。


 頭上高くにあり、一見して監視カメラに見えなかったのかもしれないが、それでもあのとき言ってくれれば、こんな最悪の状況にはならなかったはずだ。理不尽だと思いつつも、綾野に対して怒りが湧いてくる。しかしその綾野はもういない。

 目の前の殺人鬼が殺したのだ。


 綾野だけではなく、城戸や鮫島さんや天王寺までも。もしかしたら高柳も樽井会長も、そして鳴河もすでに殺されているのかもしれない。

 

 くそ、いやだ。死にたくない。


 もはや死中に活を求める状況でもないのに、俺は死に抗い始める。

 でもだめだった。文字通り完全なマウントを取られて両手も動かせない中、二本の包丁が俺の首を捉えている現状を打開する妙案など、出てくるはずもなかった。


「書いてあるんだよ」

「え?」

「入口の立ち入り禁止の看板あるだろ? そこの下に、使用の際はこちらまで連絡くださいってご丁寧に連絡先まで書いてあるんだよ。なのにこの一七年間、このキャンプ場を使った奴らは誰一人として連絡しやしない。連絡さえしてくれれば、気持ちよく貸してやったっていうのによ。もちろん、ゴミのぽい捨て落書き物を壊すの禁止、糞は持ち帰る約束でな。料金だってお安くしてるんだよ。固定資産税の足しにもならない良心設定でな。なのになんで貴様らって奴は。許さんぞ、絶対に許さんぞ。わたしは貴様らをぜったぁいに許さないっ」


 般若の面が近づく。

 小さく開いた目の部分から、異常に血走った両眼が見えた。

 使用の際はこちらまで連絡ください? 連絡先? そんなものは書いてなかったはずだ。 


 いや違う。汚れと掠れで読めなかったが、あの立ち入り禁止の看板には、下のほうに文章の書かれてた形跡が残っていた。それがそうなのだろう。分かるわけがない。

 しかし、十七年間の間に無断使用した人間はたくさんいたはずなのに、なぜ寄りによって俺達なんだ。


 ――運が悪すぎるだろ。

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