第30話
ここにいてはまずいと、脳内でデンジャーの声が響く。
ライトの光が消え、暗闇が場を支配する。こんなに暗かったのかと驚き、俺はがなり立てるような鼓動に急かされ立ち上がる。
得体の知れない……いや、違う。
確信した。あれは城戸、鮫島さん、綾野、天王寺を殺した廃キャンプ場の殺人鬼なのだ。
今頃殺人鬼は、音の正体がなんであるかを確かめるために管理小屋の入口に向かっているはずだ。もともと入るつもりだったのだろうが、それを早めてしまった自分の軽率な行動が恨めしい。
俺は椅子を付けたまま、極力音を出さないように廊下への出口へと歩き寄った。
取り外されてドア枠のみとなっている場所から顔を出し、管理小屋の入口がある右側に視線を向ける。
月の明かりの恩恵はなく、周囲が微かに目視できるだけで入口の扉は全く見えない。その扉には中を覗けるような窓があったはずだが、殺人鬼が近づいていればライトの光が見えるはず。つまりまだ逃げるだけの時間的猶予はある。このまま裏口から出て林に隠れさえすれば、なんとか殺人鬼から逃げ切れるだろう。
裏口から逃げようと決めた俺だったがしかし、足を一歩だしたところで止めた。
待て。殺人鬼は本当に正面の入り口に向かったのか――。
殺人鬼が窓から離れたところまでは覚えている。しかしそのあと右と左と、どっちに歩を進めたかまでは記憶になかった。先入観から入ってくるなら正面の入口だと思い込んでいたが、もしかしたら裏口から現れるかもしれない。
くそ、どっちなんだ!
ライトの光が見えてからでは遅い。こんな恰好では満足な速度で逃げることもできないのだ。無様な後ろ姿をライトで照らされて、間違いなくジ・エンドだろう。
もはや悩む時間などない。俺は拘束されていた部屋と廊下を挟んだ反対側の部屋のドアノブを掴む。月明りの最後の救援とばかりに、そのドアノブがおぼろげに見えたのだ。
ドアノブをひねり手前に引く。が開かない。
なぜだと焦る俺は、ならば押せばいいことに気づく。
俺はゆっくりとドアを押す。ぎいいいぃぃと蝶番が音を上げ、心臓が飛び跳ねた。
すかさず左右に視線をやるが、まだ殺人鬼のライトの光が見えない。俺は音が鳴るのも構わずドアを押し、できた隙間から部屋の中に体を入れた。
入れたものの、入室した部屋は一寸先は闇状態で全く見えない。これでは遮蔽物がどこにあるのか全く分からない。だからといってスマホのフラッシュライトを使用するのは危険すぎる。よって俺はスマホの液晶の明かりだけを頼りに、周囲を素早く確認した。
結果、愕然とし肩を落とす結末を迎えることになった。
入った部屋は拘束されていた部屋以上に何もない、完全なる空き部屋だったのだ。
俺はバッドエンド行きの選択肢を選んでしまったのかもしれない。
次の一手が見つからないまま、廊下が明るくなった。殺人鬼が管理小屋に入ってきたのだ。
光の方向から、正面の入口から入ってきたようだ。あのとき、そのまま裏口に向かっていればと地団駄を踏みそうになったが所詮、結果論である。
廊下を照らしていた光が消える。殺人鬼は、どうやら近くにある部屋から順に確認していくらしい。受付かあるいはトイレか。それらが終われば次は撮影道具などが置かれている部屋だろう。そのあとは俺が元々拘束されていた部屋か、あるいは現在隠れている部屋の二択となる。
遅かれ早かれ、俺は見つかることになるのだ。
そして殺人鬼の狂気によって命を絶つことになるのだろう。
――そんなのはごめんだ。こんなところで死んでたまるか!
考えなくてはならない。この状況での思考放棄は死に直結する。例え残された時間が僅かであっても諦めてはだめだ。何か、必ずこの絶体絶命の袋小路から脱する方法があるはずなんだ。
あるはずなんだ。
あるはずなんだ。
絶対、何か、あるはずなんだ。
その瞬間、一つの生への道標が見えた。
もちろん、今から行う方法が成功するかどうかは分からない。それに大切な道具の一つを失うことになる。しかし実行しなければ、座して死を待つのみだ。それはあり得ない。
幸いにも開けたままだったドアのほうへ、俺は体を向ける。
ライトの光が廊下を照らす。それは三秒ほどで消えた。顔を少し出して正面入り口の方を見ると、俺の予想通り、殺人鬼は撮影道具が置かれた部屋にライトを向けていた。
ヘッドライトなのか、光は殺人鬼の額から発せられていた。光でぼんやりと浮かび上がる殺人鬼の横顔はまるで般若のようで、それはお面のように見えた。
今だ。やるしかない――っ。
俺は右手に持っているペンチをアンダースローで正面入口に向けて投げる。
途中の壁に当たって殺人鬼の手前で落ちればアウト。殺人鬼に当たってもアウト。殺人鬼の向こう側の何かに当たり、音を発してくれるだけでいい。そんな一生のお願いに等しい切願は、果たして予想以上の結果を俺にもたらしてくれた。
ガチャァァン! とガラスが割れるような音が響く。殺人鬼が瞬時に、顔の方向を音の発生源へと向ける。ライトに照らされるそれは、窓ガラスの割れた入り口のドアだった。
俺の投げたペンチがとんでもなくいい仕事をしてくれた。まるで最後の結束バンドを外せなかったお詫びかのように。
窓ガラスに気を取られている殺人鬼。これこそが俺が求めていた瞬間だ。あとは生存へのルートを辿っていくだけである。
俺は足を滑らせるようにして、部屋から廊下へと身を出していく。後ろに固着した椅子の各種パーツがドアに当たらないように慎重に。やがて体と椅子の全てが廊下へと出ると、右へと歩を進めた。
ゆっくりと。
牛歩の如く。
良かった。床が軋まない。俺の記憶が確かなら、どこかの床が軋んでいたはずだが、こちら側ではなかったようだ。
ゆっくりと。
牛歩の如く。
暗闇の中、伸ばしていた手が壁に触れる。廊下の突き当りに着いた。あとはここを右に折れて進めば、裏口へとたどり着く。
ゆっくりと。
牛歩の如く。
LINEの着信を伝える音が鳴った。
それは小さいながらも、しじまを切り裂くには充分だった。
両足がぴたりと止まる。まるで魔法にでも掛けられたかのように。
毛穴という毛穴から汗が噴き出たのか、不快極まりないじっとりと感覚が全身を舐め回す。
なぜ、ペンチではなくスマホを投げなかったのか。
なんでスマホをマナーモードにしていなかったのだろうか。
こんなにも自分に殺意が湧くのは始めてだった。
ライトの光が俺に当てられている。
殺人鬼がこちらを見ている。
ジ・エンドだ。
俺は殺される――。
「はい、カットォ!」
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