第29話


 左足の拘束具を外し、すぐさま右足へ。

 そのとき、汗で滑ったペンチが手元から落下して床へ落ちる。どこかにいってしまうのを防ごうとして出した左足があろうことか、そのペンチを蹴ってしまった。

 

 慌てて机の下を覗き込み、ペンチが滑っていったであろう方向に目を向ける。しかし暗くてよく見えない。ライトがあればと思った俺はすぐにスマホの存在に気付く。

 

 机の上に置いてあるスマホを手にした俺は、画面をスワイプしてフラッシュライトのボタンをタップ。すると、持ってきたライト程ではないが、ペンチを探すには充分な明るさを手に入れることができた。

 

 もう一度、机の下に視線を向けると、フラッシュライトで床を照らす。

 俺はほっと胸を撫でおろした。

 最悪、壁際のほうまでいってしまった可能性も頭にはあったのだが、ペンチは一メートほどさきにあった。それほど強くは蹴っていなかったようだ。


 フラッシュライトでペンチを照らしながら、そこに向かって左足を伸ばす。

 が、届かない。

 腹部の拘束さえなければもっと足を伸ばせたはずなのにと、忌々しいベルトを俺は睨む。とはいえ完全な拘束状態でない今、遣りようはある。

 

 俺は自由になった両手で机を押した。重量感のある木製机がなぜか右に回転するように動く。どうやら右足がまだ机の手前の脚と拘束されているので、そこが支点のようになってしまったようだ。

 

 だが、それでいい。このまま右回転を続けていけば、いずれ左足がペンチに届く。

 右回転していく机に合わせるように椅子も動かしていき、三、四分経ったところでようやく左足がペンチに触れられる場所まできた。念のため、ペンチの向こう側に足を伸ばせるところまで机を動かすと、左足のインサイドでペンチを手前に引き寄せて拾い上げた。


 心中でファンファーレを鳴らした俺は、その場で右足の束縛を解きに入る。暗さもあり少々てこずったが、拘束解除に成功。もう一度、月明りに感謝。

 両手両足が自由になり、俺は立ち上がろうとする。が、椅子の背もたれと腹部を一緒に捕縛しているベルトのせいで、尻すら上がらない。


 俺は両手で机の縁を握る。そして両足を広げて床を後ろに蹴るようにしながら上半身を前に折ると、なんとか立ち上がることができた。しかしその恰好は膝と腰の曲がった不格好なものであり、そもそもまともに歩けそうになかった。


 こいつはダメだ、と俺は着席する。

 となればやることは一つ。完全な自由を手に入れるのだ。


 俺は再びペンチを握り、くわえ部での背部の結束バンド掴みを始める。

 しかし最初と同じく掴めない。ベルトと尾錠に密着した結束バンドの厚みが小さすぎるのが原因だろう。たまにくわえ部の内側が結束バンドに当たったような感触があるが、向きが悪いのか挟み込むまでには至らなかった。これでは当然、刃部も使い物にはならない。


「あー、くそ、腹立つな! ナイロン樹脂のくせに!」


 難攻不落ではないはずだ。

 ペンチのくわえ部の先端も、閉じれば隙間のない面一。つまり、結束バンドの背面に対してまっすぐにくわえ部を近づけて挟めれば、成功の確率は格段に上がるはず。しかしそのためには目視が必要だ。


 目視――。


 視界に、部屋の隅のほうに置かれた木製スタンドミラーが入る。撮影中に何度もお世話になった鏡だ。俺は不格好と動きづらさも厭わず腰を上げると、そのままの状態でスタンドミラーの元へ。


 俺は鏡を背にして椅子を下ろすと、再びスマホのフラッシュライトをつける。

 ヒビに汚れに色褪せと、決して状態のいいとは言えない鏡に誰かが写る。その誰かは当然俺なのだが、そのやつれ具合に一瞬、自分ではない他者だと思ってしまったのだ。


 昼過ぎから五体不自由を強制される中、二連続で質の悪いドッキリを仕掛けられ、撮影が終わったと思いきや、殺人が発生して得体の知れない殺人鬼が廃キャンプ場を跋扈しているとなれば、誰だって憔悴して面変わりするというものである。


 顔でも洗ってシャキッとしたいところだが、それはこの廃キャンプ場から脱したあとだ。そのためにはまず、なんとしても己に寄生した椅子を排除しなければならない。

 スマホを持った左手を背後に持っていき、フラッシュライトでベルトの後ろを照らす。


 あった。見えた。

 ベルトの小穴と尾錠とを繋ぎとめている、忌まわしき二本の結束バンドが。

 

 俺は、鏡を見ながら右手に握っているペンチの向きを整えたのち、心魂を傾けてゆっくりと結束バンドへと近づける。

 開いたくわえ部が結束バンドの両側面にたどり着く。柄部をグッと握ると、くわえ部がその名の通り、結束バンドをくわえた。


 成功の予感させる確かな手ごたえ。大きく深呼吸する俺は、更に柄部に力を加える。すると、パチンッと望んでいた効果音が静かな部屋に響いた。


「よし!」


 一本目を切断完了。まるで爆弾の解除をしてるかのような緊張感だが、むろん爆弾の解除などしたことはなく、青か赤の導線のどちらかを間違って切断したら爆発というわけでもない。


 あと一本だが、結束バンドの通っている小穴は一本目と同じであり、違うのは尾錠の上か下かだけ。難易度はほぼ変わらないはずだ。俺はペンチの柄部を握りなおすと、二本目の切断開始場所へと移動させる。


 そのとき、視界の右側の闇が払われてカーテンの茶色が浮かび上がった。

 俺は咄嗟にそちらに振り向き、フラッシュライトを消す。


 窓に当たった光が不規則に動いている。おそらくライトだろう。徐々に光の強さが強くなっているが、ライトを持った誰かがこちらに近づいてきているのかもしれない。


 ――誰かとは誰だ?


 鳴河だろうか。

 いや、違う。鳴河はライトを持っていない。スマホのフラッシュライトがあるだろうが、ルーメンの値が小さく、外のライトほどの光を放出することはできないだろう。それは樽井会長も同じであり、ゆえに二人は除外される。


 ならば高柳か。

 それもおそらく違う。俺の記憶では高柳が持っていったライトはLEDライトであり、その光り方は限りなく白に近い。しかし外で光っているライトの光は黄色を含んだ感じで、ハロゲンライトのように思われた。


 では、ほかに誰かいるだろうか――。


 急激な発汗と同時に恐怖する。鳴河が、管理小屋まで行くかもしれないと言っていた殺人鬼。正にそいつが来たのかもしれない。


 フラッシュライトの光は極力壁側に向けていたから、外に漏れ出ることはなかったように思う。ならば元々この管理小屋を目指していたのか、或いはたまたま見つけて寄ってみようと思ったのか、どちらかだろう。


 俺は息を殺してライトの動きを注視する。さきほどまで不安定だった光の方向が今は、俺がいる部屋の窓にまっすぐに向いている。カーテンが開いている窓から光が部屋に入り込み、廊下へのドアがあった辺りが不気味な色彩を浮かび上がらせていた。


 俺はぞっとする。

 スタンドミラーのある場所に移動していなかったら、今頃俺が真正面で照らされていたはずだからだ。


 再び光が上下左右と動く。誰かいないかと索敵しているかのように。しかし、角度的に俺のいる場所までは届かないはずだ。仮にこちらにライトを向けたとしてもカーテンが光を遮ってくれるだろう。

 そして誰もいないと判断したそいつは、踵を返して管理小屋から離れていく。


 ――とは思えない。


 仮に誰かを探しているのなら、本当に中に人がいないのか、管理小屋に入ってくるのが通常の思考だ。

 であれば、ここにいるのはまずいのではないか。椅子と同化した俺以外に、ほぼ机とスタンドミラーしかない部屋なのだ。入ってこられれば確実に発見される。


 迫り上がる焦りが俺に行動を急かす。待てと己を制止しようとしたが時すでに遅し。腰を上げようとする際に、椅子の脚で床を思い切り擦ってしまった。


 ギイィ。


 発生した音が静寂を切り裂く。

 俺は石のように身を硬くして、それでも視線だけは窓に向けていた。


 凝縮された光束が、直線で俺とをつなぐ窓に当てられている。ライトの縁を窓にほぼ密着させているのか、光度カンデラの高い光の輪がくっきりと浮かんでいる。

 そのすぐ下にある〝それ〟を見て、俺は悲鳴を上げそうになった。


 ライトの光の影で浮かぶ〝それ〟は人の顔のようであり、しかしそうではなかった。

 異様に大きな落ち窪んだ眼窩がんか

 頭部から突き出た二本の角のようなもの。

 口が裂けているかのような歪に吊り上がった口角。

 

 なんなんだ、こいつは。

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