第11話


 刹那、胸の中で蠕動ぜんどうしているありったけの恐怖が溢れ出そうになる。しかしここで発狂すればすぐにでも殺されるような気がして、なんとか喉元で押さえ込む。


 異常なほどの脂汗が脇の下に溢れ、二の腕を伝ったそのとき、背後の殺人鬼が喋り出した。


「――七、八、九、一〇。……神よ。お前に捧げるにえは揃った。これで俺は救われるのか?」


 野太く、くぐもった声。

 それは俺に向けてではなく、殺人鬼の信ずる神とやらに向けたものだった。


 贄とは殺した人間のことなのだろうか。映研のメンバー六人を亡き者にしても数が足りないが、残り四人は一家殺人事件の被害者なのかもしれない。俺の思考回路が無意識的にそんなことを推測する。今、頭を使うべきはどうすれば死ななくて済むかだというのに。


「俺は救われるのかと聞いているッ!!」


 突と、咆哮を上げる殺人鬼。壁を叩いたのか、凄まじい打撃音が響いた。

 身を縮こませようとする俺の体に、手足と首の拘束具が食い込む。圧迫に耐えきれない喉が咳を誘発した。


「なぜ、答えてくれない? お前が俺に言ったんだ。一〇人ぶっ殺せば、俺を〝奴〟の呪縛から解放してくれると。なのにどうして俺の気は晴れない? 早く俺を救えっ、この糞ビッチがっ!」


 再び壁を叩く轟音が耳をつんざく。

 またしても体を竦めそうになったが、すんでのところで踏みとどまった。しかし、先ほど拘束具の食い込んだ喉の調子が悪い。乾きもあってか無性に水が飲みたくなった。


「すまない、悪かった。言葉が過ぎた。ただ俺の苦しみも分かってほしい。もう〝奴〟の監視は耐えられないんだ。……ああ、待つ。待つよ。だから頼む、俺を救ってほしい」


 幾分、落ち着きを取り戻したような殺人鬼が歩き出す。そしてスタンドミラーに丁度横顔が映ったところで止まる。やがてゆるりとこちらに見向くと云った。


?」


 今のが自分に向けられている言葉だと気付くのに、寸刻掛かった。

 殺人鬼が神との対話を試みていたこともあってか、今度も別の超常的な何かに対して問い掛けを始めたと思ったのだ。しかし、むんずと髪の毛を引っ張り上げられて、


「お前は何をやっていると聞いているっ!」


と間近で凄まれれば、最早対象は俺以外にはあり得ない。


「あ、ぐうぅっ! お、俺はぁ――」


 俺は、理路整然も簡潔もかなぐり捨てた説明を何とか絞りだす。あまりにも差し迫った恐怖に晒されていることもあり、言った傍からその内容のほとんどが海馬の向こうへと飛んでいく。全てを話したのか、或いは足りていないのかの判断もつかないまま、俺は最後に、


「だから拘束されているんですっ!」


そう叫んで終えた。


 己の怒鳴り散らす声の反響までが消え去り、無音が場を支配する。未だ、真横には殺人鬼の顔。呼吸の際の吐き出される息が腐臭のようで鼻が曲がりそうになる。その悪臭は、説明に意識を向けられなかった要因の一つでもあった。


「アダン……なんと言った?」


 唐突な質問。フードの中の血走った目がぎょろりと俺に向けられる。すぐに答えなければマチェットで腕の一本でも切断されそうな気がして、俺は慌ててその名を口にした。


「アダン・ウェバーですっ! 化粧マスクを作った怪奇作家のアダン・ウェバーですっ!」

「そうだ。そのアダン・ウェバーの化粧マスクはどこにある。それがなければゲームを始められないだろう。どこにある?」


 正確にはおそらく、アダン・ウェバーが作成した化粧マスクを模したマスクなのだが当然、訂正などはしない。


「た、高柳っていう大柄なメンバーが持っていると思いますっ。なければ近くあると思いますっ」


 早口で述べると殺人鬼の反応を待つ。

 ようやく俺の横から顔を離す殺人鬼は頭上を見上げるとまた始めた。神への呼びかけを。


「神よっ。俺は今から児戯に興ずる。その間にあんたの用意を片付けておいてほしい。だから児戯が終わり次第、俺を救ってくれ。……何? 奴の斥候が紛れ込んでいる? 情報に感謝する。〝奴〟め、俺を見くびるなよっ!」


 殺人鬼は三度、壁を叩くと、廊下へと出ていく。

 マスクを探しに行くのだろう。そのマスクの在りかに対して明確な答えを提示できなかった俺は、なんのペナルティもないことにほっと胸を撫で下ろす。しかし脅威が去ったわけではない。殺人鬼は俺とゲームをする気なのだ。〈表現ゲーム〉という名のゲームを。


 想定外な展開だが、本気なのか冗談なのかも分からない。それは殺人鬼が戻ってきてから分かることだ。


 一人となった俺は、力任せの拘束具外しにもう一度チャレンジする。しかし拘束具は与えられた使命を忠実に全うするかのように、肉体を決して解放することはなかった。


 大きく嘆息する。

 ふと、視界に入る城戸の脚部。タイプではなかったが、綺麗だなと何度も視線に捉えていた健康的な美脚。その足が今にも動き出しそうだが、死体が蘇ることなど決してない。理不尽に殺された城戸はその死の間際、一体何を思ったのだろうか。もちろん知る由もないが、魂となった彼女は今頃〝こんな廃キャンプ場に来なければ良かった〟と悔恨の念を抱いているのは確かだろう。


 本当に――、


「こんなところに来なければ良かった」


 思わず口に出してしまったそのタイミングで、殺人鬼が戻ってくる。聞かれて困る内容でもないが、耳に届いていただろうかと殺人鬼の面持ちを確認しようとした俺は、ひゅっと息を飲む。

 殺人鬼はその顔に着用していたのだ。化粧マスクを。


「あった。さて始めるか」


 殺人鬼はそれだけを言うと、〈ウェバーの亡霊〉役の高柳が座っていた椅子に腰を下ろす。そして手にぶら下げていた大きな物体を、横のミニテーブルにドンと置いた。


 頼りない夕日の陽光が浮かび上がらせる造形。それは透明度を欠いたスタンドミラー越しではあるが、高柳の頭部にしか見えなかった。限界まで見開いた両目と食いしばった歯が、柔和な表情の彼からは想像もつかない断末魔の形相を形成していて、俺はあらん限りの悲鳴を上げた。


「こいつは〝奴〟の斥候だ。……魔人である〝奴〟は目立つ。だから人間にそっくりなこいつを俺の元に送って来たんだ。死んだふりをしていたようだがしかしっ!」


 殺人鬼は声を荒げると、机を力任せに叩く。すると高柳の頭部がカタカタと揺れて少しずれたところで動きを止めた。その滑稽さが怖気を増幅させて胃の内容物が逆流する。俺は咄嗟に目を逸らすと、せり上がってきたそれを必死に飲み込んだ。


「斥候がいると分かれば大した問題じゃない。全員首を斬ればいいだけのことだ。まあ、最初に斬ったこいつがいきなりビンゴだったんだがな。あとで熨斗のしを付けて〝奴〟に送り返してやる。くくく」


 完全にいかれている。精神に異常をきたして自分にしか認識できない何かを創りだしているのだ。


 妄想性障害の範疇には収まらないあまりにも異質な狂人。そんな男が今から俺に〈表現ゲーム〉をさせるという。ミニテーブルに置いてあったのを手に取ったのか、問題を作るにあたって参考にした〈決まり文句辞典〉を眺めている殺人鬼。どうやら本気でゲームを行うらしい。


〈表現ゲーム〉は台本があるからこそ成り立つゲームである。

 というのも、ルールの一つである【洗練された文章であること】が審判者の判断に委ねられてしまうからだ。Aという人間が洗練されているとジャッジしても、Bという人間には稚拙だと断じられることだってある。つまり判断基準があいまいな中でモニターの向こうの〈審判者〉がまともに判断できるのかという、そこがとにかく重要なのだ。


 そもそも〈審判者〉役は一体誰がやるというのだ。元々の台本では、もう一台のパソコンを使って鳴河が〈審判者〉役として文字を打ち込んでいたのだが、TAKE2である殺人鬼版では当然、〈審判者〉役などいない。百歩譲って判断のあいまいさを許容するとしても、〈審判者〉がいなければそもそもゲームが成り立たないではないか。


 まさか、自分で出題するであろう決まり文句の正しい意味さえ理解できるか疑わしいこの殺人鬼が、合否判定を下すとでもいうのだろうか。


 あり得ないと首を振ったそのとき、頭上から機械音が聞こえた。何事かと焦ったが、電動丸鋸の稼働音だということを思い出す。殺人鬼がスイッチを押したらしい。同時に連動した小型の置時計も秒の単位を進ませるが、すぐに止まった。


「そうか。あれが五分後にお前の頭を真っ二つにするのか。だがあれは――」


 矢庭に席を立つ殺人鬼。すると持っていたマチェットで電動丸鋸の刃を何度も斬りつけた。当然、ポリエチレンシートでできている刃はズタズタになり、その破片が頭上に落ちてくる。すると殺人鬼の顔が再び俺の横へと迫った。


「偽物だろ? 俺をみくびるなよ。あれの代わりはこれだ」


 口から漂う臭気がマチェットに吹きかかる。五分経ったらその鋭利で凶悪な刃物で俺の頭を真っ二つにするということなのだろう。予測していた成り行きだが、現実に言い放たれたことにより俺は委縮して肌を粟立たせた。


「よーし、始めるぞ。遅きに失する」


 意味の分からない文言だと思った。しかし刃の壊れた電動丸鋸と時計が再び動き出したことから、出し抜けに〈表現ゲーム〉が始まったのだと理解した。〈遅きに失する〉は提示された決まり文句だったのだ。


「そんなっ、いきなり――!」


 錯乱しそうになる頭でも分かるのは、従うほかないということ。そして五分以内に文章を作成し合格の判断をしてもらわなければ、死ぬということだ。合否の判断を誰がするかなど気にしてる余裕はない。まずは是が非でも文章を作り上げなければならない。


 その矢先、出鼻を挫くような状況を知って俺は戦慄する。天王寺が奥に移動させたパソコンがそのままだったのだ。さすがに殺人鬼に向かって声を荒げていた。


「パソコンに手が届かないっ。パソコンをもっとこっちに寄せてくれっ!」

「あ? ペナルティ一分だぞ」


 殺人鬼がマチェットでパソコンを俺のほうへ動かした。残り時間はペナルティもあってか四分を切っている。


〈モジノラクエンの呪い〉


 それは本当にあったのだ。あの不気味なノイズがこの最悪な事態を喚込んだのだ。だからと言ってこんなところで死ぬつもりは毛頭ない。俺は汗ばんだ手を開くとキーボードに指を置いた。

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