第35話
「なんだよ? なんで引っ張る?」
「ドア、開いてます」
「ドア?」
「はい。それと中に人が見えます」
パトカーとの距離は大体、六、七〇メートル。目視で確認できるほど俺の視力は高くはなかった。
「いや、良く見えない。ドアが開いていて人がいるんだろ? なら今から出てくるんじゃないのか」
「ではそれを待ちませんか」
「待つ理由なんかない。後ろから婆さんだって来てるかもしれないんだぞ」
それもあるが、俺は早く暖炉で暖まりたかったのだ。暖まってしまえば殺人鬼という名の冷気も全く怖くはない。しかし一歩足を踏み出したところで、鳴河に服の裾を更に強く引っ張られた。
膝が折れ、こけそうになる。
「おまえ……っ」
「様子を見ましょう。お願いします」
鳴河がこくりと頭を下げる。感情を表情や言葉で表せないならせめて仕草で、なのだろうか。鳴河が、怒られたわけでもないのに俺に頭を下げるのは初めてだった。
「分かったよ。降りてきたら行くからな」
「はい。ではフラッシュライトを消してください」
後輩の命令に従うと俺は様子見を始める。
二分経過。警官が車から降りてくる気配がない。おかしいなと思いつつ更に待つこと三分。やはり警官が俺の期待に応えることはなかった。
いよいよもってこれは何か変だと思った俺は、地面から手頃な石を拾う。「どうするんですか、その石」と聞く鳴河に「確かめるんだよ」と答えた俺は、パトカーに向けてその石を投げた。器物破壊罪が過ったが、とにかく確かめたかったのだ。
ボディのどこかに当たったのか、ガンッという大きな音が響く。普通だったら何があったのだろうかと、中の警官が出てきそうなものだ。なのにそうはならなかった。
「変です。中にいる人、全く動いていません。石が当たった瞬間から全くです」
ああ、これはもう。やはり――。
嫌な予感が当たったと確信した刹那。
パトカーのほうから物音が聞こえ、すぐに今度はバンッという、車のドアを閉めるような音が聞こえた。
最初の物音がドアを開ける音ならば、誰かが車から降りてきたに違いない。だが運転席に動きはない。ならば助手席かと思ったが、赤色灯に照らされるはずの人影はなく、どうやら音の発生源がパトカーではないことが分かった。
俺はそこでようやく気付く。この駐車場にはパトカーのほかに少なくとも二台の車が止まっていることを。
一台は高柳のミニバン。もう一台は樽井会長のSUVだ。キーは各々が持っているはずで、高柳はもうこの世にはいない。やはり樽井会長なのだろうか。
いや、俺の知らない車から降りてきた知らない誰かの可能性だってあるのだ。
突如白い光が浮かび上がる。ライトだ。
そのライトに照らされるパトカー。うっすらと車内の闇が払われるが、よく見えない。が、徐々にパトカーに近づいていくライトが車内を確認するように照射したとき、俺は息を飲んだ。
光沢を帯びた赤が見えた。その赤は運転席に座る警官の胸から上を染め上げていて、ウインドガラスにも飛沫のように塗られていた。
警官の顔はだらしなく口を開いた状態で上に向けられていて、その様は一切、生気を感じさせない。死んでいるとしか思えなかった。
ライトの光が車内から消え、ボンネットのほうへ回り込んでいく。運転席側に来た謎の人物が地面を照らすと、そこにはもう一人の警官が横たわっていた。うつ伏せ状態のその背中とアスファルトにも赤い血のようなものが広がっていて、運転席の警官同様、すでに事切れていると思われた。
暖炉の火が消えてしまった。
「なんてこった。マジかよ。……マジかよ」
「逃げましょう」
「あ、ああ。でもどこにだよ」
「引き返すしかありません」
「引き返したら婆さんと鉢合わせるかもしれないぞ」
「キャンプ場のほうに向かわずにどこか別のところで一旦身を潜めましょう。そのあとタイミングを見計らってもう一度警察に電話しましょう」
「くそ、そうするしかないか。……よし」
俺は後ろに下がる。
かかとが石か何かに引っ掛かり、尻餅をつく。たいした音は発生していないが、この静けさの中では、三寸五分の鈴の音くらいに響いたかもしれない。
硬直したまま恐る恐るパトカーのほうへ目を遣る。
ライトの光がこちらへ向けられていた。
やばい――っ。
「慌てないでください。ライトの光はここまで届きません。このままでいましょう」
鳴河に言われて、俺は素直に従う。
三秒、五秒、一〇秒とライトの光を向け続けられて――やがて俺達から逸れた。
「……大丈夫だったようだな。悪いな。大事なところでこけちまって」
「気にしないでください。私もキャンプ場の入口で転んで機材の入ったボストンバッグを地面にぶつけましたから。だから気にしないでください」
「……」
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。よし行こう」
鳴河の手を借りながらゆっくりと立ち上がる俺。謎の人物の動向を追いながらだったが、一瞬、ライトの光に照らされるカラフルな色が視界に入り、既視感を覚えた矢先――。
謎の人物が、もう一方の手に持つスマートフォンだろうか……を操作し始めたのが微かに見えた。
なんだ? どこに掛けようとしているんだ?
一体、どこに……。
鳴河のスマートフォンが鳴りだした。
謎の人物の顔が浮かび上がる。
面積の三分の一を赤く染めた化粧マスクが装着されていた。
その化粧マスクの男が再び、こちらにライトを向けた。
その光がどんどん強くなる。俺達に向かって走ってきているのだ。
「逃げるぞ、鳴河っ!」
俺は鳴河を手を取り、暗闇の中を走り出す。
真っ暗でまともに走れたものではない。しかしフラッシュライトを付けることはできない。そもそも付ける余裕だってない。とにかく走るしかなかった。
「ごめんなさい。私――」
「気にするな、俺も同じ過ち犯した」
「音、消さないと」
「いや、待て。そのスマホを貸せ」
俺は鳴河からスマートフォンを受け取ると、着信を告げ続けるその端末を左方へと投げた。
「あ」
「ごめん。あとで拾う」
音が後方に流れていく。
俺は鳴河に静かに歩くようにと伝えると、彼女は意図を理解したのか、「はい」と答えた。
後ろから聞こえていた足音が消える。
俺達はライトの光の範囲外から更に十数メートル離れたところで屈むと、謎の人物の動向を注視する。
謎の人物は俺の目論見通り、着信音の鳴っているスマートフォンのところにいた。してやられたと気づいたのだろう、謎の人物は俺達を探すかの用に四方にライトの光を向け始めた。
謎の人物――いや、もう誰かは分かっている。
あれは……。
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