第40話
「包丁? な、なんで……」
全く想定などしていなかった。
〝どうして刺さっているのか〟という至極単純な疑問が口から出ただけだ。だから鳴河のその返答はやはり想定外だった。
「串田さんが悪いんです」
「? どういう、ことだよ」
「今まで私を虐げてきた串田さんが悪いんです。だから〝刺しました〟」
はっきりと口にする鳴河。
俺は鳴河に和包丁で脇腹を刺されたらしい。
指先に触れる液体。言うまでもなくそれは、己の体から流れ出る鮮血。止めどなく溢れているのか、柄を握っている俺の左手はすぐに血だらけになった。
瞬く間に全身の力が抜けていき、両ひざが地につく。
「そ、それは、赦してしてくれたんじゃなかったのかよ」
「あのときは確かに赦すと言いました。でもそんな簡単な話じゃないです。だって映研に入ってからずっとですよ? 串田さんが私に理不尽に強く当たってきたのは。だから赦したのは間違ってたというのがずっとあって、でもちゃんと謝ってくれて、今後は態度を改めてくれればそれでいいかなっていうのもあって」
意識が遠のき、あわや失神という寸前に痛みによって覚醒する。
そんな状態でも鳴河の言葉はしっかりと耳に入ってきていた。
「でも、やっぱり串田さんの本質は変わっていなかったみたいです。……なんで私のスマホを投げたんですか」
「な、なんでって……」
その問いに脈絡はあるのだろうか。
確かに俺は鳴河のスマートフォンを投げた。でもそれは着信音が鳴り続けるスマートフォンで樽井をミスリードするためだった。一言一句絞り出すように、鳴河に伝えると彼女は云った。
「結果的にあの行動が正解だったかもしれません。でも私はスマホを投げていいとは言っていません。なのに勝手に投げました。そしてそのあともう一度、会長に対して投げました。あれもいいとは言っていません。そもそもあのとき、串田さんは自分のスマートフォンと私のスマートフォンを持ち替えて投げました。自分のを投げれたのに私のを投げつけたんです」
鳴河はどうして今、そんな話をするのだろうか。
俺のしたことは、そこまで腹の立つ行為だったのだろうか。
包丁を脇腹に刺すほどに殺意が芽生える暴挙だったのだろうか。
……いや。これは立場の違いだ。鳴河から見ればやっぱり俺は最低な奴なんだと思う。外見的な女らしさを目にして態度を変えて、過去の行いをなかったことにしてなどと口にするクソ野郎なんだと思う。
刺されて当然なんだ。
だからお前はもう――。
「結局、串田さんの本質は変わっていないんです。私なんてどうでもいい女だと思っているんです。だから私は――」
「逃げろ」
「え?」
「は、早くここから逃げろ。走れるだろ。……お、お前だけでもなんとか」
「あ……」
「は、早く行けってっ。時間がもったいないだろ」
「そう、ですけど、でも、串田さんが……」
鳴河の言葉に戸惑いと焦りが垣間見える。そこには俺を刺したさきまでの彼女との一貫性がない。鳴河のことが分からなくなった俺だが、それ以上に思いを巡らす余裕はなかった。
痛みを感じなくなった。
初秋だというのに凍えそうなほどに寒い。
多分これが命の灯が消えていく過程なんだと、なんとなく思った。
すると死を悟った俺の口から、歯の浮くようなセリフが滑りだした。
「俺はもういい。鳴河さえ助かってくれれば」
「ごめんなさいっ」
鳴河が謝る。
「なる、かわ?」
「私、今ここで串田さんを殺せば、あの二人の殺人鬼のどちらかの仕業にできると思って……。そしたら気づいたときにはもう刺していて。なんで私こんなひどいこと……っ。ごめんなさい、私、本当に――ごめんなさいっ」
確かな感情の込められた言葉だった。
それがあまりにも意外で、どう返したものかと朦朧とする意識の中で思案していたからなのかもしれない。
鳴河の後ろから近づく人間に気づいたときには遅かった。
鳴河の首から上が消えた。
すぐそばでトンッという音が聞こえた。
それが鳴河の頭が地面に落ちた音であるのは明らかだった。
鳴河の体が前方へ倒れ込み、彼女の首から噴き出る体液が俺の顔や体にかかる。冷たくて温かくて強烈な血の臭いが鼻腔を刺激した。
「もう、止めましょうよ」
右手に鳴河の首を刎ね飛ばしたマチェットを、左手に老婆の殺人鬼の頭部を持つ樽井k会長を俺は見上げる。
「もう、充分ですって。これ以上、一体何を撮ろうっていうんですか」
樽井会長の体には数本の包丁が突き刺さっていて、一本は心臓の位置にあった。どうして死んでいるのに立っていられるのか不思議に思った。
「会長、お願いします。もう撮影を止めてください」
そうすれば全てはなかったことになる。
城戸の死。
鮫島さんの死。
綾野の死。
天王寺の死。
高柳の死。
警官の死。
殺人鬼の死。
鳴河の死。
樽井会長の死。
そして俺の死も。
何もかもが虚構で、騙された俺が怒って、みんなが笑って、現実ではハッピーエンド。
だからお願いだ。
「はい、カットって言ってください。会長」
「ごめんなさいね、串田君」
糸の切れたマリオネットのように樽井会長の体が頽れる。
意識の途切れる寸前、永遠の暗黒が訪れる直前、俺の視界に〝何か〟が入る。
お前は――何故――。
落ちているライトに照らされるそいつの口が、俺の求めていた言葉を呟くような気がした。
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