35 死線


 ダンジョン開発庁から突如として発表された「避難指示」によって、地下一層は混乱に陥った。


 1日に訪れる観光客はじつに13万人。観光業従事者などを含めればその人数はさらにふくれあがり、避難といっても簡単にできるものではない。しかも、避難しなくてはならない理由が明確にされておらず、「本当に避難の必要があるの?」と指示に従わない者ばかりだったのだ。


 だが、Rの脅威は確実に迫っている。


 それはまず、家畜スライムの凶暴化という形で現れた。


 それまで懐いていたスライムが次々に人間を襲い始めたのである。


「うわあああっ!」

「きゃあああっ!」


 あちこちで悲鳴があがる。


 人体に無害なように調整されており、酸性などは持たないから、即死ということはない。だが、体内に取り込まれてしまえば、身動きは取れなくなる。つまり――避難はできなくなるのだ。


 次に現れた異常は、気温の上昇だ。


 平時は16~18度くらいに保たれている一層の気温が、突如30度近くまで上昇した。


 この段階になると、ようやくほとんどの人々が「何かやばい」ということに気づき、我先にと出口に走り始めた。いくら広いダンジョンとはいえ、出入り口が複数あるとはいえ――13万人以上の人々が殺到すれば、当然パニックになる。所轄である南大沢警察署だけで抑えることはできず、観光客を引率するガイドたちに避難誘導を任せることになってしまった。





 椎原彩那の大きな声が、一層に響き渡る。


「親御さんは、お子さんの手を絶対にはなさないでくださーい!!」


 ツアー客30名の先頭を切って、ガイドの旗を振りながら、彩那は出口へ走った。すでに泣きだしている子供もいる。スライムの粘液で体中べちょべちょの親もいる。ともすればパニックに陥りそうな親子たちを、彩那はどうにか落ち着かせていた。


 彩那が今日引率しているのは、藤沢市から来た小学四年生と保護者の一団だ。夏休みの自由研究に「ダンジョンに生息する植物」を選んだとのことで、彩那は親身になって子供たちの相談にのり、宿題の手伝いをした。子供が好きな彼女は、小学校の先生になろうと思っていた時期もある。子供のほうでも、ちょっと幼い部分のある美人のお姉さんによくなついた。充実した時間を、彩那は過ごしたのである。


 だが、その1日の終わりにこんな事態が起きようとは――。


(いったい、何が起きてるの?)


 4月に入社して5ヶ月目、まだまだガイドとして経験の浅い彩那だが、ただならぬことが起きているのはよくわかった。大学時代はダンジョン部に所属し、七層まで踏破した経験もある。しかし、こんな風にスライムが暴れたり、気温が急激に変化したことは一度もなかった。


(まさか、これが藍川主任の言っていた、DBPの影響?)


 背中を冷たい汗が流れ落ちる。


 欲に目が眩んだ人間がダンジョンを荒らしたせいで「R」の逆鱗に触れてしまったというのだろうか?


 しかし、だからといって、11層に棲むRが、遙か上層である1層にこれほどの影響を及ぼせるものだろうか?


「みなさん、私にしっかりついてきてください!」


 彩那たちが向かった南七番出口には、避難民の長い長い列ができていた。みな、一様に不安げな表情を浮かべている。今はまだギリギリ秩序を保っているが、何かのきっかけでパニックになれば、将棋倒しが起きるかもしれない。


「おねえちゃん、こわいよう」


 おさげ髪の女の子が泣きべそをかいて、彩那にすがりついてきた。彼女の親は仕事でツアーに来られなかったため、ひとりぼっちだ。


「大丈夫よ。大丈夫だからね」

「なにか、グォーッて音がするよ。下のほうから」


 女の子に言われて、彩那は初めて気づいた。


 確かに足元、つまり二層の方から、何か低い音がする。


 低い地鳴りのような音。


 そう、まるで巨大な生き物の唸り声のような――。


「だ、大丈夫だから」


 震える声で彩那は繰り返した。


「二層にはね、アンドロメダの鎖っていうすごいシステムがあるの。どんなモンスターでも、その鎖に縛られて動けなくなっちゃうんだから」

「ほんと?」

「本当ですとも」


 恐怖を押し殺して、彩那は微笑んでみせる。


 その時だった。


 地面が激しく揺れ出した。まともに立っていられないほどの縦揺れだ。地割れができて、足を取られそうになる。上からも砂ぼこりや石が落ちてくる。彩那は女の子をしゃがませて覆い被さり、落ちてくる石からかばった。


 誰かの悲鳴が聞こえた。


「うわあああああああああ!! も、モンスターだっ!」


 声の方を振り返ると、蜘蛛型のモンスターがモサモサと足を動かしながらこちらに向かってくるところだった。五層の湖に棲息するアクア・スパイダー、それが群れをなしてこっちに向かってくる。


「ひぃぃっ」

「逃げろおっ!」


 悲鳴と怒号が交錯する。それまで列を作っていた人々が、順番を無視して出口に向かって一目散に駆けだした。


 彩那も、よほど逃げ出したかった。


 蜘蛛は大の苦手なのだ。


 だが、ギリギリのところで踏みとどまった。それはプロ意識の為せる技だった。新人だとかベテランとかは関係ない、どれほどの覚悟を持ってこの仕事をしているのかということだ。


「絶対顔あげちゃ駄目よ!」


 女の子を抱きかかえたまま、彩那は右に転がった。後ろから怒濤の勢いで人波が押し寄せる。何人かが転倒して、その人波に飲まれていく。彩那は転がりながらも人波から外れることで、下敷きになるのを回避したのだ。


 人波の後ろからは、蜘蛛が追いかけてくる。


 気持ちの悪いたくさんの足を動かしながら、赤い目をぎょろつかせながら、迫り来る。


「お姉ちゃんの後ろに隠れてて!」


 横転しているキッチンカーののぼりを手に取り、剣代わりに構えた。モンスターとの戦闘は大学以来になる。蜘蛛は弱いモンスターだが、多勢に無勢、いったいどれだけ持ちこたえられるだろう? だが、ここで彩那が戦わなければ、子供は確実に助からない。


「こ、これでも、大学時代は剣士(ソードファイター)だったんだから!」


 のぼりを振り上げて蜘蛛の赤い眼めがけて打ち下ろした。だが、その一撃は無駄に終わる。別の蜘蛛の足によってなぎ払われ、のぼりはあっけなく彩那の手から離れていった。強い。雑魚モンスターのはずなのに、彩那が大学時代に戦った個体の何倍も、その蜘蛛は強かった。あきらかに、おかしい。ダンジョンはおかしくなってしまった。


(これが、主任がずっと心配されていたことだったのね)

(もっと、ちゃんと、話を聞いておけば良かった)

(私だけでなく、ダンジョンにかかわるすべての人々が、ちゃんと耳を傾けていたら)


 その後悔が頭をよぎったとき、鋭いかぎ爪が彩那の脇腹に食い込んだ。


「はやく! にげてぇっ!」


 突進してきた大きな蜘蛛に押し倒され、激痛に苛まれながらも、彩那は子供の心配をした。蜘蛛が自分を捕食しているあいだに、逃げてくれればと思う。


「お、おねえちゃん……」

「いいから、早く、ぅ」


 女の子は泣きべそをかきながらも、どうにか立ち上がり――ふらふらと出口へ向かって走り出した。一匹の蜘蛛が追いかけようとしたので、彩那はその脚をむんずと掴んだ。棘が手のひらに食い込んでまたも激痛が走ったが、彩那は離さなかった。


(お願い、生き延びてね)


 意識が遠のいていく。


 もう、体は痛みを伝えなくなっていた。


 ろくに親孝行もできなかった故郷の両親に申し訳なく思う。


 でも、ダンジョンの観光ガイドが、ダンジョンで死ねるのは、ある意味幸せかもしれない――。



 その時である。



『藍川英二の名を賭して命じる――出でよ、氷狼(フェンリル)』



 氷の形をした狼が次々と召喚され、蜘蛛たちに襲いかかっていく。その姿は、北欧神話にその威容を謳われる氷の狼そのものであった。


 その力は圧倒的である。


 凍てつく牙はいとも容易く蜘蛛たちの四肢を噛み裂いて、たちまち、彩那に群がっていた蜘蛛たちを全滅させてしまった。


(……夢?)


 それはまさに、夢としか思えない光景であった。


 ゲームやアニメなどではお馴染みの神獣、北欧神話のフェンリル。それが自分の目の前に現われて、助けてくれるなんて。死の間際にこんな幻を見るなんて、自分はそこまでゲーム好きではなかったつもりなのだけれど……。


 だが、それは夢でも幻でもなかった。


 力強い腕に、彩那は抱きかかえらている。


「大丈夫か、椎原」


 無精髭の生えた顔が、目の前にあった。


「しゅ、主任? どうして?」

「すまない。かなり急いだんだが」


 詫びの言葉を口にしつつ、英二は回復魔法を唱えた。彩那の傷口が温かな光に包まれて、傷がみるみる塞がっていく。


「そ、そうだ! あの子は? あの子を助けないと!」

「心配はいらない。あの女の子なら――ほら」


 岩壁に寄りかかるように、女の子が眠っていた。英二に保護されたのだろう。服は砂まみれだけれど、傷ひとつなさそうだ。


「よ、よかった、無事だったのね。……よかった」

「おっと」


 安心して気が抜けたのか、また倒れそうになった彩那を英二は支えた。


「申し訳ありません、主任」

「いいから、眠っていろ」

「私たちが、もっと、ちゃんと話を聞いていれば、こんな事態は避けられたかもしれないのに」


 英二は首を振り、彩那の肩を優しく叩いた。


「椎原」

「……はい」

「俺は、お前と同じ職場にいることを、誇りに思う」


 もう駄目だった。


 彩那の胸に熱いものがこみ上げ、後から後からこみあげ、瞳には涙があふれて――それらは嗚咽となって唇から溢れだした。


「ううううううう。こわかった。こわかったです。こわかったよおおお。うえええん。えええええん」


 子供のようにしゃくりあげながら、英二の胸で、彼女は泣き続けるのだった。





 彩那の涙を受け止めながら――。


 英二は、事態が最悪の状況へと推移していることを悟っていた。


 間に合わなかった。


 すでに地響きはやんでいる。気温の上昇は止まっている。だが、モンスターの出現は止まらない。地割れから、あるいは下層へと続く通路から、後から後から湧き出して、地上へ向かって侵攻を始めている。


 それらが意味するところは、ひとつしかない。





 同時刻。


 西新宿ニチダン本社ビル・最上階大ホール。


 ダンジョン有識者たちが詰める「臨時対策本部」に、オペレーターの悲痛な声が響き渡った。



「対象R、地上に出現!」

「八王子が、火の海ですッ!」

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