32 おっさんと、少女の涙


 英二はひとりで、氷芽の病室を訪ねた。


 彼女にはVIP用の個室が用意されていた。ここの院長は月島雪也の大学の後輩で、「先輩には特別世話になったから」とのこと。雪也氏がどれだけ慕われていたかわかる話だが、もしかしたら、こういった「特別扱い」も、娘にとっては無条件で喜べないことなのかもしれない。


 病室のドアをノックした。どうぞ、という声がする。思ったより落ち着いた声だ。ただ「張り」みたいなものは感じられない。いつもクールさのなかに強い「芯」をもっている彼女らしくない声だ。


「よう」

「……うん」


 それが二人の挨拶だった。


 氷芽はパジャマ姿で窓辺に立ち、長い黒髪を窓から吹き込む風にあそばせていた。

 夏の陽射しにきらきらと絹のような光沢を持つ髪が輝く。

 本当に、息を呑むほど美しい少女。

 だが、今、その花はしおれかけている。


 見舞いに持ってきた飲み物をテーブルに置いて、英二は少女と立ったまま向かい合った。


「頬、叩いて悪かったな」


 英二が言うと、青白い頬に苦笑のようなものが浮かんだ。


「ううん。ああでもしないと私、きっと殺されてた。それか、私があの男を殺してたかもしれない。だから……」


 感謝してるよ、と氷芽は言った。


「あのさ、藍川さん。ひとつ教えて」

「うん」

「藍川さんは……『英雄』なの?」


 ためらいがちに、その問いは発せられた。


「あんな、信じられないほどの力を持っていて、周りからもなんだか一目置かれていて。英雄・桧山舞衣の姪っ子の未衣にもすごく尊敬されていて――20年前に『ラストダンジョン』をクリアした英雄、そのひとりなんじゃないかって。そうなの?」


 氷芽の瞳には切実なものが浮かんでいた。


 観光ガイドのおじさんさ――。


 問われるたびにそう答えていた英二である。彼は自分の功績をひけらかすことを嫌っている。むしろ隠したいと思っている。それは彼の性格的なこともあるが、何より「“彼女”を救えなかった」という深い自責の念が、自分が英雄などと呼ばれることを許さないのだ。


 だが、今回は違う。


 父の死を背負う少女に、正面から向き合う必要がある。


「ダンジョンマスターを倒し、ラストダンジョンを開放した英雄。そう呼ばれていたことはある。だが、俺は嫌だ。嫌だった。英雄なんて呼ばれる資格は、俺にはない。たったひとり、自分の好きな女の子さえ、守れなかったんだから。だから――英雄であることを旧友に押しつけて、こうしてサラリーマンをやっている。ダンジョンにも、二度と潜らないつもりでいた」


 氷芽の瞳に、ふっと和やかなものが浮かんだ。


「ありがとう。教えてくれて。だから言いたくなかったんだね」

「すまない。隠していて」


 氷芽は首を振る。


「私、冒険者なんてみんな同じだと思ってた。地位だの名誉だののために、危険を顧みずダンジョンに潜って。失敗したら死んじゃって、成功したらあの切崎みたいに増長して。英雄なんて呼ばれて、いい気になって。……でも、そっか。藍川さんみたいな冒険者もいるんだ。そういう大人も、いるんだね」


 氷芽は、はあっ、と大きくため息を吐き出した。


 溜めていたものを吐き出すように、言った。


「私。実はあの人のこと、そんな好きじゃなかった。ううん。正直……嫌いだった」


 英二は黙って彼女の顔を見つめた。


 あの人、が誰を指しているのか、問い返すまでもない。


「あの人は、いつも家にいなかった。『蒼氷の賢者』だの『レンジャーの中のレンジャー』だのおだてられて。ママがもうダンジョンに潜るのはやめてって言っても、俺の力を必要としてくれる人がいるって、やめなかった。だから私は、いつも広いマンションにママと二人きり。いつ帰るのかもわからない、無事に帰ってくるのかもわからない、そんな人を私とママはずうっと待ち続けた。お盆も、クリスマスも、お正月も、お雛様も、入学式も卒業式も――」


 氷芽のまなざしは窓の外に向けられていた。


 そこにはいない、もうどこにもいない『あの人』に話しかけるかのように。


「冒険者っていう人種がそもそも私にはわかんなかった。どうしてわざわざ危険に飛び込みようなことをするんだろうって。ダンジョンにはたくさんの資源が眠っているのかもしれないけど、お金稼ぎなら地上でだってできるでしょ? どうして危険なダンジョンじゃなきゃ駄目なんだろうって。小学校の時もそうだった。クラスの男子から『おまえのおとうさん、英雄なんだって?』とか『すごい』とか『うらやましい』とか。男の子って、ダンジョン大好きだよね。だから私は思ったんだ。中学からは女子校に行こうって。英雄の娘だっていうのは、隠し通そうって」


 藍川さんと同じだね、と氷芽は微笑した。


「それなのにさ、入学式の日、たまたま席が隣になったポニーテールの子が言うんだよ。『ダンジョンに興味ない?』って。ここでもダンジョンかって、嫌になった。だから『興味ない』って冷たくあしらった。だけど、その子は何度も何度も笑顔で話しかけてきて――気がついたら、友達になってた」

「あいつらしいな」


 きらきらした陽光のように跳ねまわる亜麻色のポニーテールが目に浮かぶ。


「『ダンジョン部を作ろう』って誘われた時、私は断らなかった。どうしてだろうね。今までそんなつもり、まったくなかったのに。自分でもよくわからないけれど――もしかしたら、確かめたかったのかもしれない。あの人が見ていた世界がどんなところなのか、私やママを放っておくほど魅力的な世界なのか、確かめたかったんだろうね」


 長い吐息が、形の良い唇から吐き出された。


「あの人がね、一度だけ私に言ったことがあるんだ。『お前はダンジョンの魔性に取り憑かれるな』って。その言葉の意味、今は少しだけわかる。迷惑系のダンジョン配信者や、あの切崎って男を見ていて、思う。ダンジョンには人を歪ませる何かがあるのかもしれないって。――ねえ、藍川さん」


 氷芽の声に切実な響きが混じる。


「私も、いつかあんな風になるのかな。あの切崎が言ってたみたいに。仲間はパーツにすぎないって。生き延びるための道具にすぎないって、そんな風に思うようになるの? 大切な友達のことを、未衣のことを、そんな風に思う日が来るの?」

「いいや」


 短く英二は否定した。


「お前はあいつとは違う。お前のお父さんもだ。あの人は――月島雪也はそんな人じゃない。ダンジョンを遊び場にするような輩じゃない。いつだって真摯に未知を追い求め、未踏に挑んでいた人だ」

「あの人のこと、知ってるの?」

「20年前、一度だけ会ったことがある。俺たちのひとつ先輩で、誰からも尊敬されていた。本物の冒険者っていうのは、こういう人なんだって思った。本物の『英雄』だった――」


 氷芽は悲しそうに笑った。


「尊敬されなくていい。英雄なんかじゃなくていい。ただ、生きてて欲しかった」


 それは、頷くまでもないことだった。


「ごめん」


 うつむきながら、声を絞り出すように氷芽は言った。


「ごめん、藍川さん。ちょっとだけ、胸、貸して欲しい」

「俺で良ければ」


 軽く腕を広げると、そこに氷芽が飛び込んできた。


 英二の背中にその細腕を回して、顔をシャツの胸に埋めた。



「……パパ……」



 やがて、涙に濡れた声が聞こえてきた。



 パパ。



 パパ。どうして死んじゃったの……。





 後のことは未衣に託して、英二は病院を後にした。


 あのふたりなら、きっと立ち直れる。


 まだしばらく時間が必要だろう。だけど、きっと立ち直る。ひとりじゃないから。ふたりだから。すぐにまた前を向いて歩き出す。英二はそう確信している。


 しかし――。


 年端もいかない少女たちが真剣に悩み、あがいているというのに、大人たちときたらどうだろう? 自分たちの歩く道を疑いもしない。ダンジョン開発を錦の御旗に、ひたすらひたすら、利益を追求することしか考えていない。


 英二とて、そうだ。


 今から会社にまた戻って、残っている仕事を片付けなくてはならない。日々の仕事に追われ、雑務に追われて、この世界がいったいどこへ進んでいるのか、どこへ進もうとしているかなんて、見ないふりをし続けている。


「……まったく、大人ってやつは……」


 夏の陽射しを振り仰ぎ、ため息をついた、その時である。


 背広のポケットで着信音が鳴り響いた。


 表示されていた名前は、来栖比呂。


『英二、いまどこだ? まだ会社か?』


 緊迫感のある声に、英二はスマホを握りなおした。


「いや、出先だ。会社に戻るところだが」

『現在地を送れるか? 社用車をそこまで回すから。今すぐ』

「――おい。何があった?」


 問い返すと、一呼吸おいて、衝撃のニュースが語られた。


「ダンジョンリゾートの我間代表が、殺された」

「――――」

「殺ったのは、切崎だ。それだけじゃない。やつは『対象R』を……」


 ほとんど叫ぶような声が、スマホ越しに響く。


「ダンジョンで――いや、東京でやばいことが起きようとしている。今すぐダンジョンまで行ってくれ! 至急だ! 英二!!」

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