(三)空の亀裂
朔夜が、いかにも楽しそうに両手を広げた。
「へぇ。赤の他人を気遣うなんて、中将殿は見かけによらずお優しいんだね。でも、華にとって、どちらの言葉が重みがあると思う?」
「共に過ごした時間の長さは関係ない」
朔夜の挑発には乗らず、尊は静かに言い切る。
「貴様こそ彼女を侮っているのではないか。彼女の強さに目を向けたことはあるか?」
尊の言葉に、華ははっと顔をあげた。
(……わたしの、強さ?)
己が弱いか強いかどうかは、分からない。
しかし。
ここまで戻ってこられたのは、紛れもなく尊のおかげだ。
ぐっと拳を強く握る。
決意してしまえば早かった。華は翡翠の腕輪に左手で触れる。
「お願いします。力を貸してください、くずはさん!」
翡翠は華の叫びに呼応するかのように淡い光を放ち――勢いよく翡翠色の蝶が生まれる。
ぶわぁっ!
立ち上がった華は、朔夜をきつく睨みつけた。
当然のように朔夜は怯むことなく、ぺろりと舌を出す。
「面白い。僕に歯向かうつもりか。借り物の力で僕を止められるとでも?」
華の周りで、蝶のかたちをした光たちがひらりと舞う。
「止められるなんて思っていない」
「だろうね。君は、あの狭い村で、僕に守られて生きてきた。一生僕に勝つことはできない」
言葉は見えない鎖となって、華の手足を絡め取ろうとするようだった。
……しかし、華は想像のなかでそれらを断ち切る。
(勝つつもりなんてない)
あんなに恐ろしかったというのに、苦しかったというのに。
華はまっすぐに、
「勝てるとも思ってない。だけど、それはあなたが持っているべきではない」
ざっ! 華の宣言と同時に尊が地面を蹴った。
尊の振り上げた刀をひらりと躱す朔夜。
その左手を中心に、蝶が群れをなす。
「へぇ? 式神で玉鋼を奪おうとでも? 即席にしては面白い攻撃方法だ」
なおも朔夜は余裕。右手で蝶を振り払う。蝶が光の粒となって弾ける――
「!」
初めて朔夜の表情に驚きが浮かぶ。
大量の蝶に隠れていたのは華自身だったのだ。
どんっ! 華による渾身の体当たり。
ふたりは地面に勢いよく倒れ込む。仰向けになった朔夜の左手が緩む。
華は、その瞬間を見逃さなかった。
両手を伸ばして玉鋼を奪い抱え込むとそのまま前方に転がって、岩にぶつかりうずくまる。
(……痛……ッ)
華は衝撃に顔をしかめた。
全身がじんじんと痛みを訴えている。しかし、玉鋼は抱きしめて離さない。手にはぬるりとした血の感触。鼻に届くのはむせ返るような血のにおい。
泣きそうだし吐きそうだ。
それでも。
絶対に死んでも離さないという覚悟を全身に行き渡らせて、奥歯を噛みしめる。
「よくやった、華」
尊が、転がった華と、ゆっくり立ち上がり玉鋼を取り戻そうとする朔夜の間に立つ。
「賀茂朔夜。貴様はここで終わりだ。後は帝都にて、然るべき処罰を与えよう」
「やれるものならやってごらんよ」
朔夜が短刀を構える。驚きはいつの間にか収めてしまったようで、再び笑みを浮かべていた。
「いざ!」
それは稲妻同士のぶつかり合い。
華は目で追うのがやっとだったが、とにかく、尊と朔夜の実力は伯仲していた。
(お願い。勝って、一条さま。朔夜を止めて……!)
何回か刀を交えた後、距離を取り、軽やかに言い放ったのは朔夜だった。
「しぶといね。しつこい男は嫌われるよ?」
朔夜が青空を指差すと、不自然な亀裂が入った。
それはまるで氷が割れるようなひびの入り方に見えた。
「形勢を変えさせてもらおうかな」
ぴし、ぴしぴし。亀裂は広がっていき、ごぅっ、とぬるい風が吹いた。
朔夜の背後に現れたのは、華がもう二度と見たくないと願っていた妖――八岐大蛇。
(あれは……そんな……)
泰然とうねる八つの首は、獲物を探しているようだった。
華は全身を固まらせた。
すべてを失った日のことを思い出す。繰り返し夢に見る、永遠に失われてしまった日。その元凶。八岐大蛇は、故郷を犠牲にして召喚された……。
息が苦しくなっていく。
「まずは玉鋼を取り戻さないとね」
朔夜の視線が、華に向かう。
華は身動きが取れないまま。瞬きすら、できない。
(……喰われる……!)
華は両目をかたく瞑った。
「華!」
誰よりも早く動いたのは尊だった。
華へ向かってくる八岐大蛇の首の一つへ斬りつけ、勢いよくその上に飛び乗り、刺す。ぶしゅっ、と蒸気のような何かが噴き出る。
驚いた首は尊を振り落とそうと激しく動いた。
そして別の首が尊へと迫り――
ぱくり。
飲み込んで、しまった。尊の、体を。
後には、何も、残らなかった。
「……一条、さま……?」
(嘘、でしょ)
玉鋼を抱きしめたまま、華は、ゆっくりと起き上がった。
(八岐大蛇が、一条さま、まで)
「ははっ。これで君を守る人間は誰もいないね」
朔夜が両手を大きく広げながら華へと近寄ってくる。
向かい合うと、血にまみれた左手を、すっと差し伸べた。
「玉鋼を返してもらおうか。もう、君に鍛えてもらうつもりはないからね」
華は、息を呑む。
ちらりと背後を確認した。ここから転がり落ちれば、確実に自分の命はないだろうが、玉鋼も守れるだろう。
「変な気は起こさない方がいいよ。君が落ちて死んでも、僕は玉鋼をのんびりと取りに行くだけだから。あぁ、そのときは、君の臓器を持ち帰るのも悪くないな。火宮の血を禁術に活かすのも面白そうだ」
万事休す。
華は玉鋼を抱きしめて身を縮こまらせた。
(……?)
しかし、朔夜の凶刃が振り下ろされることはなかった。
華は顔を上げる。
突然、八岐大蛇の動きが激しくなったのだ。長い首のひとつが猛然と朔夜へと向かっていく。
「何故だ。僕はお前の主だぞ。まさか……中で一条尊が暴れてでもいるのか? やめろ、やめるんだ!」
ぱくり。
抵抗も虚しく、朔夜は八岐大蛇に飲み込まれてしまう。
一瞬の出来事だった。さらに八岐大蛇は華の眼前に迫ってくる。
巨大で強大な妖の双眸に華が映り込む。
華は震えたまま、それを見つめた。
……きらり。
翡翠の腕輪が八岐大蛇の鼻先で光った。
すると巨大な妖は、興味を失ったようにするすると引いていく。
(くずはさんが、守って、くれた?)
代わりに狙われたのはこと切れた美代だった。
「ま、待って! やめて!」
ぱくり。美代を飲み込んだ八岐大蛇は大人しくなると、そのまま空中に浮かび――亀裂へと戻っていった。
……ぱきぱきっ。
乾いた音が耳に届いた次の瞬間、空の亀裂は消え失せていた……。
また、と華の唇が動くが音にはならない。
朝陽を浴びて、自分が、血まみれになっていることに気づく。
ぽた。一滴の涙では、血は洗い流せない。
「うぅっ……」
嗚咽が漏れる。とめどなく溢れる涙。
鼻水をすすりながら、歯を食いしばる。
(また生き延びてしまった。わたしだけ。どうして。なんで)
胸が苦しい。全身が鈍い痛みを訴えている。だというのに、針を刺したような痛みもある。考えがまとまらない。どうして、どうしてという感情が内にこだまする。
(何もできなかった)
「玉鋼を手に入れたのね。上出来よ」
「……くずはさん……?」
華は、ゆっくりと顔を上げた。
いつの間にか
「問題ないわ。尊は簡単にやられたりしないもの」
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