(四)気づきたくなかった
§
「そんな、お客さんにやらせる訳にはいきません」
「これくらい平気です。美代さんはゆっくりしててください」
慌てる美代を、華は笑顔で制した。
華が今何をしているかというと、夏用布団を押し入れから引っ張り出してきて、塀に干しているのだ。
要は、家事。
「母は弟を産んだとき、産後の肥立ちが悪くて、二年ほど入院生活を余儀なくされました。無理は禁物です」
「すみません。本当に、助かります」
美代はすまなさそうに、縁側に腰かけた。
ぱんっ、ぱんっ、と華は布団の埃をはたく。
尊は尊で、食料品などの買い出しに行っている。
華としては彼に雑用をさせるのも申し訳なかったが、下町の調査込みで出かけてくると言われてしまったのだ。
「ところで、出稼ぎって言ってましたけど、旦那さんのお仕事って?」
旦那さん、と口にすると、何故だか華の胸はちくりと痛んだ。
「私にもよく分からないんです。賃金労働は、斡旋先もたくさんあるので」
「そうでしたか……」
「華さん?」
「あ、いえ、何でもないです」
「華さんの旦那さんも、すごくお優しいですよね」
「ごほっ」
思いがけない言葉に華は咳き込んでしまう。
(ま、また言われてしまった……)
申し訳なさで胸がいっぱいになるが、敢えて言葉は飲み込んだ。
「戻ったぞ」
「お、お帰りなさい」
華が美代へ視線を向けると、にこにこと微笑んでいた。
(否定してもかえって怪しまれるだけだし……今回は勘弁してもらおう……)
「台所を借りても?」
華はその言葉に目を見開いた。
なんと、尊自ら、昼食を作るつもりらしい。
「い、いけません。怪我をしては」
「私を何だと思っている」
尊がじっと華を見つめてきた。
「……当主さま、です」
「先に言っておくが、料理くらいできる。遠征時には必然的に食事の準備もしなければならないしな」
(どうしよう。ここで反論したり手伝うって言うのは、失礼に当たるよね……)
華が固まっていると、尊は溜め息を吐き出した。
「彼女と話をして、少しでも情報を引き出してくれ。辛いだろうが、それは君にしかできないことだ」
「……はい」
§
「出稼ぎに行くと、毎回、行った先のお土産を買ってきてくれるんですよ。この前は、こしあんのおまんじゅうでした。久しぶりに甘いものを食べました」
美代の表情が綻ぶ。
華は静かに、耳を傾けていた。
(やっぱり、朔夜は朔夜だ。記憶がなくっても、優しいんだ……)
「華さん。記憶を失う前の主人は、どんな人となりだったんでしょうか」
「もしも同一人物だとしたら、美代さんの話と同じように、優しかったです」
「そうですか」
美代が、華の表情を覗き込む。
「華さんとは、どんな関係だったんですか?」
「……幼なじみでした」
婚約者だった、と説明する必要はない。
そもそも親同士が決めた許嫁だったし、そこに、恋愛感情はなかったのだ。
「失礼ですが、おふたりのご出身は?」
「山陰の方です。四方を山に囲まれた、自然豊かな場所でした」
華は青空を見上げた。
永遠に失われた原因である人間との想い出を口にしながら、もう何処にもない故郷へと想いを馳せる。
「春は桜の下で、夏は冷たい小川で。秋は木の実を拾い、冬になれば、降り積もる雪の中でよく遊んだものです。いつの間にか、こんな遠い場所に来てしまいました」
「すてきな場所だったんでしょうね」
美代が、僅かに膨らんだお腹を、とても愛おしそうに撫でる。
「羨ましいです。私は、ここ以外の景色を知りませんから」
華ははっと顔を上げた。
(わたしと……同じこと、言ってる……?)
美代にとってはここが故郷でもあり、ここ以外の場所を見たことがないのだ。
そう気づいた華は、何故だか衝撃を覚えていた。
「昼食の支度が整った」
たすき掛けで割烹着姿の尊が声をかけてきた。
これはこれで雰囲気のある装いだ。
「一条さま!」
(くずはさんが見たら笑いそう)
何となく華は、尊とくずはの関係性も察しはじめていた。
あっという間にちゃぶ台には麦飯と味噌汁と、小さな魚の干物、それから根菜の煮物が並ぶ。
わぁ、と美代が歓声を上げた。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
そして席にはつかず、ゆっくりと立ち上がると台所へと向かう。
「ぬか漬けもあるので、出しますね」
床下には立派な壺が収められていた。
代々伝わるぬか床なのだと美代が説明して、程よく浸かった大根を取り出した。
刻んだ漬物が皿に載ったところで、三人でちゃぶ台を囲む。
「いただきます」
煮物を口に運んだ華は目を見開いた。
(お、美味しい)
居候の身で、華は、尊と食事を共にしたことがない。
だからこそ本当に尊が料理もできるというのは驚きでもあった。
(一条さま、できないことなんてないんじゃ……)
黙々と華が箸を進める一方で、尊が、美代へ話を振る。
「畑もあるのだろう?」
「あります。ですが、そこまで手伝ってもらうのは、帰って申し訳ないです」
ぽりぽりとぬか漬けの咀嚼をしていた華だったが、再び、尊を見つめた。
「何か言いたげだな」
「……農作業もできるのですか」
「子どもの頃は、当主たるもの農民と同じ目線を知れ、と田畑へ送り出されたものだ」
(本当に何でもできる御方なんだな……わたしは一条さまのことを何も知らないや……)
食事をする尊を眺めながら、華は、自らの内に戸惑いが生じるのを感じていた。
(どうして?)
戸惑い。
それは、尊のことを知りたいという、未知の感情だ。
§
「父様、母様、
華が声を上げると、頬と枕がわずかに濡れていた。
(また、いつもの、夢……)
否、夢じゃない。現実に起きたことの再現だというのは分かっている。
ホテルのベッドの中で天井を見つめた。
室内はひどく静かで、自分の呼吸音と心臓の鼓動がやけに響く。
ぎゅっと目を瞑るが、一度どこかにいってしまった眠気はしばらく戻ってきそうになかった。
諦めた華は、のろのろとベッドから這い出る。
寝間着から着替えると、しんとした廊下を、足音をなるべく立てないように歩いてホテルの外へ出た。
夜空では繊月が微かに輝いている。
少しだけ散歩しようと踏み出したところで、見慣れた人影が視界に入った。
(あれは、一条さま?)
背の高さ、肩幅の広さ。間違えようがない、と華はゆっくり近づいて行く。
「――通じている様子はなさそうだ」
宿屋から少し離れた木の下で、尊は誰かと会話しているようだった。
ぽわ、と白い紙が宙に浮いている。
華が目を凝らすと、それは人の形をしていた。
(くずはさんの式神だ!)
つまり、会話の相手は、くずはということか。華は聞いてはいけないと認識して、一歩後ずさる。
かさっ。
華が何かを踏んでしまった瞬間、ばっと尊が肩越しに振り返った。
「……君か」
「も、申し訳ありません。目が覚めてしまって」
華は俯いた。
「また夢を見たのか?」
「……はい」
すると尊は咎めることなく華に近づいてきた。
「眠れないのであれば、少し歩くか。付き合おう」
「ですが、くずはさんとお話をされていたのでは」
「毎晩の業務連絡だ」
(ということは、毎晩、やり取りをしているということ)
何故だか、華の胸はちくりと痛んだ。
華と尊は並んで歩き出した。夜風が、静かにふたりの間を抜けていく。
「陰陽寮では引き続き賀茂朔夜のことを調査している。奇妙なことに、出稼ぎ先が分からない」
「ここへ戻ってこない可能性もあるということでしょうか」
「ないとは言い切れない」
そうですか、と華は呟く。
(身重の美代さんを置いてどこかへ行ってしまった? そんなことは)
何故なら、出稼ぎは今回が初めてじゃないと美代が言っていたから。
「……辛くは、ないのか」
「え?」
「婚約者だった男だ。その、色々と」
珍しく、尊が言葉を濁した。
「親同士が決めたことです。恋愛というよりは、家族のように慕っていました」
(だからこそ裏切られて辛かったし、まだ、裏切られていないかもしれないと思っている)
どうして、何故、という言葉は、永遠に届かないかもしれない。
だからこそ今は届けられる可能性を信じて、この場所にいる。
「君は、強いな」
「全然そんなことはありません。皆さんが助けてくれたおかげです」
華が尊を見上げると、繊月よりも鮮やかに、黄金の瞳が輝いていた。
(……違う。違わないけれど、違う。一条さまが、助けてくれたからだ)
どきん。今までとは違う心臓の跳ね方。
途端に華の全身が熱を帯びていく。指の先まで、急に、熱い。
(まさか、そんな)
信じたくなかった。
だけど、目を離せない。目の前に立つ男の、瞳の穏やかさから。
(あぁ。わたしは、一条さまのことを好きになっていたんだ)
絶望的な気持ちとは、まさにこのことか。
決して恋をしてはいけない相手だというのに。
唇を噛む。涙は出てこないが、情けなくて、くらくらと眩暈がした。
「……どうした?」
その声の、纏う雰囲気の穏やかさに、華は震える心をぎゅっと押さえつける。
「いえ、何でもありません」
(気づかれてはいけない)
この想いは胸に秘める。秘めなければならない。
ひそやかに、華は決意するのだった……。
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