(三)組紐の記憶

 次にふたりが訪れたのは、ひさしから紹介された文房具屋だった。

 先ほどよりも店内は明るい。インクと紙のにおいが程よく入り混じったふしぎな空間だ。


「いらっしゃいませ。何をお探しで?」

「万年筆を見せてもらえるだろうか」


 眼鏡をかけた店主は尊を値踏みして、ガラスケースの上に幾つかの箱を並べた。


「こちらなんていかがでしょうか」

「そうだな……」


(一条さま!? 朔夜を探しているのでは?)


 突然の展開。華は呆気に取られていた。


「奥様はどう思われますか?」

「へっ」


 店主に話題を振られて、華は己を指差した。

 そしてようやく気づく。

 先ほどの男が尊のことを『旦那』と呼んでいたのは、ふたりを夫婦だと認識していたからだということにも。


(……!)


 華の頬がかーっと紅く染まる。


(な、な、なんで)


 眉目秀麗な尊と華では決して釣り合わない。

 というかそもそも華は一条家の居候である。否定しようと口を開いたところで、ちらりと尊が華へ視線を向けた。


(そんな。話を合わせろってこと……?)


「そ、う、ですね」


 冷や汗が華の背中を伝う。心臓はばくばくと破裂しそうな勢いだ。


「こここ、これでしょうか」


 そもそもこんな筆記具は初めて見たのだ。使い方さえ分からない。

 華が恐る恐る真ん中の商品を指差すと、尊は頷いて、店主へ商品を包むように促した。


「ところでこの町で家を借りようとしたら、どの辺りがいいだろうか」

「旦那みたいな高貴なお方には丘の上がお勧めですね。それ以外はどこも似たり寄ったりです」

「そんなことはないだろう。この町の賑やかさは嫌いじゃない」


 ううむ、と店主が腕を組む。


「止めておいた方がいいのは川沿いです」

「そうか。礼を言う」


 店を出たところで、華は尊を見上げた。


「あのっ、一条さま」


(妻扱いされてしまったことを謝らなきゃ)


「川沿いに向かうぞ」


 ところが尊は、先ほど店主に反対された地名を口にした。


「恐らく我々の探し人はそこにいる」

「……!」

「占いではこの町にいるとしか出なかった。後は片っ端から歩いて探すしかない」


 敢えて聞き出した答えなのだと、ようやく華は理解する。

 尊が店主から引き出したかったのは、住みやすい場所ではない。喧騒から離れて暮らさなければならない人間が、どこにいるのか、だ。


「はい。どこへでもお供します!」




   §




 川へ近づくにつれて、どんどん、においが変わってきた。


(わたしの知ってる川とは違う……)


 華に浮かび上がってきたのは、ほんの少しの違和感。

 故郷の川は山から流れてくる雄大で美しい川だった。今、華の視界に入る川は幅も狭く澱んでいる。生き物がいるようには思えない。


 子どもの泣く声があちらこちらから聞こえてくる。

 視界に入る色数も減ってきた。

 地面に座ったまま動かない人間もいる。総じてござを敷いていて、割れた器を己の前に置いていた。

 彼らは物乞いであり、貨幣を求めているのだと華が気づくのに時間はかからなかった。


「あまり私から離れないように」


 華は小さく頷いた。

 その視線の先、うずくまって動けずにいる女性が視界に入った。


「どうしたんでしょう、あの人……」


 しかし誰も彼女に近づこうとしない。

 華は意を決して、女性に向かって走り出す。


「は!?」


 離れないようにと言われたそばから真逆の行動をとった華に尊が驚く気配がしたが、気にしない。

 女性へ近づくと、華は少し屈んで顔を覗き込んだ。 


「あの、大丈夫ですか?」

「……」

  

 女性の額には汗が滲んでいた。

 じっと目を瞑って、眉根を寄せている。

 華がさらに視線を落とすと、女性のお腹は膨らんでいた。


(お腹に赤ちゃんがいるんだ!)


 女性が動けない理由に気づいた華は、母親が倫を妊娠していたときのことを思い出す。


(とにかく、絶対安静。下手に歩かせちゃいけないよね)


 すると、ようやく女性がゆっくりと瞼を開いた。

 華を認識して、震えながら道の右側を指差す。


「……す、すみません。うちは、すぐそこなので」

「手伝います」


 なんとか立ち上がった女性。

 よろめいたところを華は支えて、そのまま、歩幅を合わせた。


「ありがとうございます……」

「困ったときはお互い様ですよ」


 同じように連なる長屋のひとつが、女性の住居らしい。

 扉を引いて、すぐ、玄関に腰かけた。


「お邪魔してもよければ、奥から何か取ってきます」

「……お言葉に甘えていいですか?」

「もちろん!」


 華は女性の指示を受けて湯呑みに水を入れて運んだ。

 水を飲んだところで、ようやく女性は落ち着いたようだ。


「本当に助かりました。普段はこんなにひどくないんですけど……」

「無理はしないでくださいね?」

「ありがとうございます。私は美代みよといいます。もしよかったら、上がっていきませんか? お茶菓子くらいなら用意できます」

「いえいえ、おかまいなく」


 華は去ろうと立ち上がった。

 廊下に置かれた箪笥が視界に入る。

 箪笥の上に置かれていたのは、不自然にちぎれた橙色と緑色の組紐。


(え……)


 華の視線は組紐へ釘付けになる。

 何故なら、それを見たことがあったから。

 


(朔夜にあげた短刀につけた組紐と一緒だ)


 指先がどんどん冷たくなっていく。


(まさか、でも、どうして)


 動悸がする。視界が、おかしい。声が上手く出せない。


「み、美代さん、あの組紐って……」

「これですか?」


 美代は落ち着いたようで、組み紐を手に取った。

 穏やかに微笑みを浮かべる。


「主人の大事な物なんです。ここだけの話、うちの主人はこの町に来るまでの記憶がないんです。この組紐だけが記憶を取り戻す頼りで……もしかして、何かご存じだったりしますか?」


(そ、そんなことって……)


 足元がふらついた。

 とす、と誰かが華を受け止めた。

 華がそのまま顔だけを上に向けると、それは、いつの間にか玄関の外まで来ていた尊だった。


「詳しく話を聞かせてもらおうか。私の名は一条。彼女は、華という」




   §




 華と尊は、居間に上がらせてもらい、美代と話をすることになった。

 三人は畳の上でちゃぶ台を囲む。


「あれはまだ冬の寒い日のことでした。畑仕事に向かう途中で、血まみれになって倒れていた男性を見つけて介抱しました。彼は自分の名前もどこから来たのかも覚えていませんでしたが、しっかりとこの組紐だけは握りしめていたんです……」

「その人って、少し細身で、背が高くて、顔の右側が」

「そうです!」


 華がおずおずと尋ねると、美代は、ぱぁっと表情を明るくした。


「顔の右半分が火傷でただれていました。まさか、主人のことを知る人に出会えるなんて……!」


 そして美代は涙ぐむ。

 一方、華は、後頭部を目に見えない何かで殴られたようだった。


(朔夜が……記憶喪失……? いや、まだ朔夜と決まった訳じゃないけれど。でも。でも、この組紐は、短刀についていたものだ……)


 何故そこまで確信があるかというと。

 その組紐を作ったのが、他ならぬ、華自身だから。

 似合うと思ったのだ、朔夜に。橙色と緑色の組み合わせが。


『よく分かったね。僕の好きな色だよ』


 ……そして、喜んでいたのだ。かつての彼は。


「つまりあなたは、孤閨こけいを守っているということか」


 尊が尋ねると、美代は深く頷いた。


「はい。出稼ぎに行っているので、戻ってくるのは数日後だと思います。もしよかったら、その間、うちに泊まっていかれませんか? 大したおもてなしはできませんが……」

「身重の女性に気を遣わせたくはないので、お気持ちだけいただこう」

「そうですか。無理強いはできませんものね」


 華が言葉を失っている間に、尊と美代の会話は進んでいく。


「少しおっちょこちょいなところもあるけれど、優しくて。気づけば大事な人になっていました」


 美代の口から語られる穏やかな人物像は、華がよく知る朔夜その人だった。


(やっぱりあのときの朔夜は何かに操られていたか取りつかれていたんだ。記憶を失って、元の朔夜の性格に戻ったんだ。きっとそうだ)


「……大丈夫、ではないか」


 その言葉に華が我に返ると、既に、美代の家から離れたところだった。


「顔が真っ青だ」

「す、すみません。あの……」

「ひとまず宿に戻ろう」


 有無を言わさない口調だった。


「……一条さま、よく気づかれましたね」


 組紐のことは華にしか分からないことのはずだ。

 華が朔夜を連想していると気づくとは、察しがよすぎた。


「君の雰囲気が尋常ではなかったからな」


 ははは、と華は力なく笑う。


「あれはわたしが朔夜に贈ったものなんです。短刀の鞘につけていました……」

「短刀?」

「十五歳のとき、一度だけ、刀を鍛えました。朔夜と、父の弟子たちの力を借りて」


 華は瞳を閉じる。


 あんなに鮮やかな火花に心を奪われたというのに、冷たい水にすべて塗りつぶされてしまった。

 まるで遠い昔のよう。

 ぼやけて、消えてしまうのではないかと思えるくらいに。

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