(三)絶望に沈む
さっきまでうるさい場所にいたからだろうか。
静かな、静かすぎるくらいの夜道だ。
満月と満天の星がやけに眩しい。
雪はいつの間にか融けてしまって、ただただ空気が痛かった。
宴の熱が引いてきたところでようやく自宅が見えてきた。
しかし華は、ぴたりと立ち止まる。
(……なんだろう。地面が揺れるような、音がする……?)
そして来た道を振り返って、目を見張った。
「ひっ……!?」
さっきまで給仕係として忙しなく動いていた屋敷の屋根から何かが立ち昇っている。
煙ではない。半透明の、とてつもなく大きな蛇。しかも一匹ではなく、複数……。
(違う)
ゆらりゆらり。首が、たゆたうように動いている。
(ひとつの胴体から、八つの首が生えてるんだ。まさか、
朔夜の屋敷で何かが起きているのは明白だった。
(戻らなきゃっ)
そのまま一歩踏み出そうとしたところで華はすぐ足を止めた。
目の前に灰色のもやが現れ、みるみるうちに異形と化したのだ。獣と人間を無理やり混ぜ合わせたようなそれは、二本足で華に向かって近づいてくる。
ぴっ!
飛び出してきたのは一つ目の妖こと火の精霊だった。
異形目がけて体当たりをすると、ぼんっと小さな爆発が起きる。華を守ろうとしているのは明らかだった。
「ま、待って!」
次々と火の精霊が現れる。
ぴっ! ぽん。ぽん。ぽん。
(足止めしているうちに、逃げろっていうこと? でも)
見捨てる訳にはいかない。華は地面に落ちていた石を拾って、思い切り投げようと振りかぶる。
ざしゅっ!
ところが華より先に動いた人間がいた。袈裟懸けに斬られた妖はしゅわしゅわと灰色のもやへ戻っていき、霧散する。
「やめるんだ。妖に物理攻撃は効かない」
「一条、さま?」
黄金の瞳が満月よりも明るく輝く。
――それは屋敷にいる筈の一条尊だった。
「ここから動かないように」
ふたりを取り囲むように、先ほどと同じ異形がいくつも現れる。
尊は華へ指示すると、目にも止まらぬ速さで動く。次々と妖を刀で滅ぼしていく。若くして中将の地位にあるというのは伊達ではなさそうだ。
(す、すごい。強い……!)
髪を乱すことなく妖を消し去った尊に、華は、心中で拍手を送る。
尊が刀を鞘に納めた。
すぐさま夜の静寂は取り戻されたが、華は矢継ぎ早に問いかけた。
「助けてくださってありがとうございます。ですが、どうしてこんなところにいるんですか? 長の屋敷はどうなったんですか。あの大蛇の妖は一体何なんですか?」
「説明している時間はない。飛ぶぞ」
(……!)
尊の視線の先を追い、華は固まる。
今度ははっきりと耳に届く。地鳴りではないがそれに近い、鈍い音が鼓膜を震わせる。
ごおおおおおおお……
大蛇の元から、まさしく鉄砲水と呼ぶべき大量の水が押し寄せてきていた。
「ひっ……」
本能で理解する。あれに呑まれたら生きてはいられない。
華の背筋が凍る。足が動かない。呼吸の仕方を、思い出せない。
尊は冷静だった。
二拝ののち、声を轟かせる。
「
それから二拍手、一拝。
ぶわぁっ! 風がまるで布のように華を包み込み抱きかかえると、宙へ浮かせた。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
そのまま勢いよく、夜空へ――
集落が一望できるくらいの高さまで昇ったところで、ぴたりと体が止まる。
「……!」
眼下に広がる光景に、華は、両手で口を覆った。
ざぷんっ、……。波が大きくうねって、音を立てた。
水に飲み込まれていく、集落。
人々の暮らし。畑も、屋敷も、何もかも。
暗闇ではっきりと見えなくても分かる。分かって、しまう。
……すべてが沈んでいく。水の底に。
「父様! 母様! 倫! ……朔夜!!」
叫ぶと同時に涙が溢れていた。
寒さからか恐怖からなのか、震えが止まらない。
目に見えない何かにしがみつきながら華は声を張り上げた。
「教えてください。一体、何が起きたっていうんですか。家族は、集落の皆はっ」
尊が静かに首を横に振った。
「君以外恐らく生存者はいないだろう」
「……そ、そんな……」
「場所を移そう。ここでは不安定だ」
「……」
華には抵抗する気力も湧いてこなかった。
布のような風は、尊の異能だろうか。されるがままに見晴らしのいい丘の上まで連れてこられ、地面にへたりこんだ。
(さむ……)
羽織はいつの間にかどこかへいってしまった。
かたかたと体を震わせていると、尊が華の前に立った。
「申し訳ない」
尊は正座すると、深く深く頭を下げた。
「これは、我々の落ち度だ。まさかこの集落に禁術を使う者がいたとは」
顔を上げたその表情には、わずかな怒りが見て取れた。
「……きん、じゅつ……?」
「あまりに自然すぎて見破れなかったが、集落の人々は術にかかっていた。しかも、長い間」
突然のことに、華の思考は現実に追いついていなかった。
尊が淡々と言葉を紡ぐ。
「術者は我々の来訪を危ぶんだのか、最悪の異形を召喚した。それがあの八岐大蛇だ。人々は全員、あれの贄となり、……消えた」
「なん、で、わたしは」
無事なの、という問いかけは最後まで口にすることができなかった。
すると。
「さぁ、なんでだろうね?」
夜闇を切り裂くように、穏やかな声が割って入った。
反射的に尊が立ち上がり、腰元の柄に手をかける。
「朔夜!」
しかし華は
それは幼なじみであり婚約者の青年、朔夜だったのだ。
「朔夜も無事だったのね。よかった……」
「よく見るんだ」
華は尊に促されるように、朔夜の顔を見た。
「あなた、その瞳は……」
婚約者の瞳は、右だけが禍々しく黄金に染まっていた。
そして、口元が、華の知らない形に歪む。
「どうして生きてるんだよ、華。びっくりしたじゃないか」
責めるでもなく、不思議がるような表情で、朔夜は言い放った。両腕を大きく広げて高らかに。
「全員殺したつもりだったのに」
「……目的は神の玉鋼か」
尊は、華に背中を向けたまま朔夜との間に立っている。
空気がひりついている。下手に動けば、――命を落としかねない緊張感。
「ご名答。想軍なんかに神剣を持たせる訳にはいかないからね。あれは僕のものだ。僕が、華に鍛えさせるつもりだったのに。あーあ。計画が狂ってしまったよ」
「禁術に手を出して神にでもなったつもりか」
「つもりじゃなくて、なるのさ」
朔夜の右手には、鈍い光を湛えた塊があった。
(玉鋼……!)
華には見間違いようがなかった。
あんなに見たかった玉鋼が、たった今、信じられないことを言いきった朔夜の手中で輝いている。
「残念だよ、華」
「待てっ!」
尊が地面を蹴って高く跳ぶ。
空中から刀を振りかぶり、その切っ先は朔夜の鼻先をかすめる。
体制を崩した朔夜は勢いに任せてふわりと後ろへ飛び上がった。
「
逃すまいとして、尊が空いた左手に光の球を生み出す。
ぼわっと音を立て、その光は朔夜の顔の右半分を覆った。
「くっ……」
朔夜が顔を不自然に歪めた。
しかしそれだけ。
光は白煙を上げながら消えていく。朔夜が手のひらで顔の右半分を覆った。口元には笑みを浮かべたままだった。
「この僕に傷をつけるとは。流石、帝国想軍の中将殿だ」
そのまま朔夜は背中から落ちるようにして丘から姿を消す。
尊がためらうことなくその縁まで進み、眼下を確認する。
「……姿を消す術まで使えるとは」
苦虫を嚙み潰したような表情で、尊がひとりごちた。
一方で、華は未だ、信じられずにいた。
目の前で起きた、すべてのことを。
(悪い夢のなかにいるみたい)
そうだ。これは夢。
本当は皆、生きていて。
笑って。
何事も、なかったかのように。
(きっと、目が覚めたら元通り……)
瞳を閉じ意識を手放す。
まるで自分があの水の底に沈んでいくかのように。
……どさ。
誰かが華に駆け寄ってきた温もりを感じて、華は、一筋の涙を流した。
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