(二)思い入れなんてひとつも
「……はぁ」
華は大きな溜め息を吐き出した。
今さらながら、朔夜は本当に、華個人に対する興味がないのだと痛感する。
「朔夜。訊いてもいい?」
「もちろん。君が言葉を発せる最後の時間だからね。元婚約者のよしみで、何でも答えるよ」
「……。須佐村には何の未練もなかったの? 自分を育ててくれた家族への愛情は? ゆくゆくはあの集落を背負っていこうって考えたことは、なかったの」
華は、朔夜をまっすぐに見つめる。
朔夜は曇りのない瞳で答えた。
「うーん。前にも言ったかどうかは忘れたけれど、思い入れなんてひとつもないんだよね。逆に聞きたいんだけど、華はそんなに故郷に対する想いがあるのかい? 女だという理由だけで君の夢を否定する空間だ。女というだけで宴会の手伝いに呼ばれ、下賤な会話で尊厳を傷つけられる。やりたいことがあるというのに、親から勝手に将来を決められる。本当はあの場所を捨てて、どこか遠いところへ行きたかったんじゃないかい?」
すらすらと流れる川のように朔夜が語る。
「なくなってしまったから尊く感じているだけだ。今もあの場所にいたら、君は故郷のことを心底嫌いだったと思うよ」
「……」
細く強く、心を絡め取ろうとする言葉だ。
川というよりは蜘蛛の糸なのかもしれない。
「だからといって、わたしは、あの場所を滅ぼしたいと思ったことはない。あなたのしたことを決して許しはしない」
その糸が、ぷちんと、切れた。
ぴし、ぴしぴし。
華と朔夜の間。何もない空間にひびが入る。
朔夜が、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「あーあ。神剣と華を閉じ込めるための、とっておきの結界だったのに」
がちゃり。ドアノブが回る。
自然な動作で扉を開けて入ってきたのは、尊だった。
「結界は破ったのは中将殿かい?」
「正確には違う。華自身の意志が貴様を拒絶した結果だ」
尊は、『八重垣』を佩いていた。
つまり華と朔夜がたった今までいた空間こそが幻だったということだ。
「なるほど。巧妙に結界を張っていたのは僕だけじゃなかったんだね」
朔夜が、本物の『八重垣』と奥に飾られた神剣と見比べて、息を吐き出した。
それから短刀を構えた。切っ先は、尊へ向けられている。
「そのせいで寝不足みたいだけど大丈夫? きれいな顔が台無しだよ」
「貴様こそ拘置所の冷たい床で眠るのは慣れなかっただろう」
尊もまた、『八重垣』を抜き放った。
ぎらりと輝きを放つ刀身は、この場の何よりも清浄。
「貴様は危険だ。私の権限により、この場で常闇へ封印する。死ではない永遠の眠りにつくといい」
「へぇ。やってみてごらん」
一閃。
目にも止まらぬ速さでふたりは交錯した。
執務室だった筈の室内はいつしか武道場のような場所に変わっていた。
「隻眼でその速さ。やるな」
「お褒めに預かり光栄だよ」
散る火花、響く剣戟。
華には部屋の隅でふたりを見守ることしかできない。ぎゅっ、と両手を組む。
(勝って。一条さま……!)
ぐっとしゃがんだ朔夜が反動で飛び上がった。そのまま壁を蹴って、上方から尊へと襲い掛かる。
短刀を投擲。
軽く躱した尊へ向かって朔夜は己の口を思い切り開けた。
くぱぁ、と。よだれと共に異形が飛び出してくる。全身のいぼのある、蛙のような見た目をしている
「毒蛙の妖だよ。どうだい、可愛いだろう」
「……体の一部を捨てたか」
尊が印を結ぶ。
「
現れたのは屈強な大男の姿を模した存在。さながら金剛像のようだ。
(これが、一条さまの、異能。すごい……)
華は初めて目にした。これまで尊が使役していた存在を。
何故異能を持たない華が認識できたのか。異能の圧縮された空間だからか、それとも、吉備津彦に注がれた力が、あまりにも強大だったからか。
吉備津彦は蛙の妖を大きな手で握り潰す。
同時に、尊は朔夜の喉元へ『八重垣』の切っ先を突きつけていた。
「これで終わりだ」
「まだまだ」
朔夜がにっと笑う。
右腕を尊へと向けると、一本の傷口から鷹が飛び出してきた。
「!?」
虚を突かれる尊。ただ、そのひと薙ぎで鷹は霧散する。
同時に、華は視界が大きく揺らぐのを感じた。
「きゃっ!!」
再び華は朔夜に囚われていた。
「彼女の命が惜しければ神剣を寄越すんだ」
「だめです、一条さま!」
不意に、華の脳裏に声が響いた。
『お前だけが幸せになれると思っているのか』
(そうだ)
ようやく華は気づいた。
あれは誰の声でもない、ということに。
(……あれは、自分自身の、ものだ)
ぐっ、と華は拳を握りしめた。
(そうだ。わたしだけが生き延びた理由は)
一瞬前まで尊と朔夜の闘いに緊張していたが、己でもびっくりするくらいに、呼吸は落ち着いていた。
「ばかね、朔夜。女の命なんて吹けば飛んでしまうような軽い物でしょうに」
「よく分かってるじゃないか」
耳にかかる吐息が不愉快で華は眉を顰めた。
「あなたに言われたくないわ。でも、だからこそ」
(わたしの中に流れる血にそれほどの意味があるというのなら!)
華は短刀を握る朔夜の手に己の手を重ねると、思い切り――己に突き立てた。
どす、という音の後、腹部に鈍い痛みが走って、たまらずその場に倒れる。
「……華?」
「華っ!」
顔をしかめずにはいられなかった。
……じわじわと、痛みが熱を訴えてくる。
熱いのに冷や汗が止まらない。体に力が入らない。震えが、止まらない。
視界に入る赤色は、誰でもない自分のものだ。
精霊たちが慌てて華に近づいてきた。
(お願い。わたしの命と引き換えに、朔夜を止めて)
『懸けるものが大きければ大きいほど対価もまた大きくなるから、注意してね』
そんなくずはの言葉に、賭けることにしたのだ。
ぽわ、と何かが視界のどこかで光った。
翡翠の腕輪に血がついたのだと気づいた途端、みどり色の光は次第に大きくなっていく――
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