(三)邂逅
『逃げろ! 何も持たず今すぐに!』
『死にたくなければ走れ!』
どこからか、怒声が聞こえる。
(あぁ、また、夢を見ているんだ)
華は痛みで朦朧とするなか、なんとか重たい瞼を開けようとする。
視界の後方から黒い靄がうねっているのが見えた。あれに呑まれれば生きてはいられない。妖を超えた災害が、まさに、世界へ現れようとしていた。
人々が逃げ惑っている。老若男女問わず、着の身着のままで屋敷の外へ向かって走っている。
その流れに逆走する少年少女がいた。
正確には、少年は、逆走する少女の腕を掴んで引き留めた。
『諦めるんだ。くずははもう助からない……』
『馬鹿言わないで!』
ぱしん、と少女が少年の頬をはたく。
いきなりのことに虚を突かれて、少年は黄金の瞳を丸くした。
『今回のことは私に責任がある。外に出ようって言ったのは私だもの。姉として、くずはが妖に取り込まれないように戦わなきゃいけない』
『駄目だ。俺たちの力じゃ、あの妖には太刀打ちできない』
『できない、じゃなくて、やるのよ』
少女が少年の顔を覗き込む。
『あんたは、どっちを選ぶの? 尊』
『……俺は……』
少年は俯いていたが、顔をしっかりと上げて、口を開いた。
『くずはを助けて、みどりを守る』
『その心意気よ。行きましょう』
少年は少女の手を取る。ふたりは手を繋いで、力強く走り出す――
『みんなみんな、他人のことばかりね』
今、耳にしたばかりの柔らかな声だった。
いつの間にか、周りには何もなかった。誰も、いなかった。白いと形容するのが近いのだろうか。しかし、白くはない。
そんな空間で、背中を目に見えない壁に預けたまま、華は動けずにいた。
『くずはも、尊も、……あなたも』
優しげな名前の呼び方に、華はひとつの可能性に思い至った。
「……みどり、さん……?」
ふふっ、と笑い声が耳に届く。
いつの間にか、華の前には和服姿の少女が立っていた。
夢で見たときは塗りつぶされていた顔が、きちんと見える。目鼻立ちこそくずはに似ていたが、くずはよりも柔らかな印象を受ける。
背丈が低いので、座った華との目線はほぼ同じ。
『翡翠っていう言葉の、もうひとつの読み方を知ってる?』
(えっ……?)
『答えは、かわせみ。その美しさは、鳥も宝石も同じ。そして、翡翠とは、どちらにもある色のこと』
みどりの視線が、華の手元に向けられた。
華は左腕にはまったままの翡翠の腕輪を見た。華の血がついたはずだったが、何事もなかったかのように深い光を放っていた。
『翡翠の
みどりが翡翠の腕輪を両手で包み込んだ。
森のような緑色の濃淡だった腕輪が、ゆっくりと、炎のような赤色に変わっていく……。
『私は人間としての生をとっくに終えている、くずはの力で翡翠のなかに留まり続けてきたかたちを持たない存在。今から、一度きりの式神としてあなたと契約する。これが私にできる精一杯よ』
今や、翡翠の腕輪は完全に紅色に染まってしまった。
唇が触れそうなくらいの至近距離でみどりが華を見つめる。
『教えてちょうだい。あなたの望みを、もう一度。あなたの言葉で』
脂汗をにじませながら、華は、何とか声を振り絞る。
「……さ……朔夜を止めたい……です」
そのために華は短刀で己の腹を突いたのだ。
命と引き換えにしてでも、決着をつけねばならないと思ったのだ。
ふわっ、とみどりが宙に浮く。
『契約は完了したわ』
……華はゆっくりと瞳を開けた。
視界がはっきりとしていて明るい。
痛みはどこかへ消え去っているが、全身が熱を持っていて、気怠い。
(まるで、自分の体じゃ、ないみたい)
尊も朔夜も、それぞれが驚いた表情で華を見ていた。
すっ、と華の手が印を結ぶ。
「『臨む兵、闘う者、皆陣をはり烈を作って前に在り』」
唇から紡がれるのは華では決して操れない九字だ。
みどりが華の肉体を借りて、異能を行使したのだ。
「みっ……!?」
恐らく状況を正しく理解できていたのは尊だけ。
浮かび上がる五芒星は、渾天儀のように立体的になる。
まるで錠のように、その中心に朔夜を捕らえた。
「ど、どうして華が……?」
流石の朔夜も驚いたのだろう。暴れることすらなかったが、表情がこわばっていた。
「『今よ、尊!』」
「! あ、あぁ」
二拝、二拍手、一拝。
「
祝詞が響き渡り、すべての穢れを拒絶する――
現れたのは虚無が人間のかたちをしたもの。
尊は、『八重垣』を握る手に力を込め、構える。
「さらば、賀茂朔夜」
――振り下ろされた神剣によって、朔夜は虚無へと封印される。
八重垣が鞘に納められた。
同時に尊は動いた。その場に崩れ落ちる華のために。
どさり、と華は尊の腕に受け止められる。
「……華」
尊が華の名前を呼ぶのと同時に、華は意識を失った。
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