(二)選んでいいんだ
§
それからまた、ほんの少しだけ時が過ぎた。
自在車の助けを借りなくても華は歩けるようになった。
とはいえ、一条家の屋敷から外には出ていない。
そもそも屋敷自体がとても広いのだ。華の滞在している洋館と、尊の生活している屋敷、それから広大な庭で構成されている。
洋館と庭の往復だけで、今の華には十分すぎるくらいだった。
ある日のこと。
庭に備えつけの長いすで借りた本を読んでいた華は、木漏れ日の煌めきに気づいた。
顔を上げて目を細める。梢が、静かに揺れていた。
(いつまで、ここにいていいんだろう)
天涯孤独となってしまった。やりたいことも、もう叶わない。
火の精霊も、帝都に来てから一切姿を見かけなくなった。
(というか、どうして一条さまはわたしを保護してくれているんだろう)
いや、なんとなく予想はついている。
もしかしたら、朔夜は華の命をも狙っているかもしれないのだ。
人命確保の上で、朔夜が持っている神の玉鋼を手に入れる。
恐らく、一条尊の目的はそこにある。
誰かがゆっくりと華に近づいてきた。
「今、少しいいだろうか? 君に紹介したい人がいる」
声が聞こえて目を開けると、尊が近づいてきていた。
彼の隣には、同じくらい背の高い女性が洋装で立っていた。
腰まで伸びた眩しいほどの金髪。前髪から覗く黄金の瞳からは意志の強さが伺える。唇のかたちも体つきも、どことなく妖艶だ。
一言でまとめるならば、強烈な美女。
「初めまして。土御門くずはと申します」
落ち着いた声と雰囲気で、くずはが微笑みかけた。
慌てて華は読みかけの本を長いすに置き、立ち上がる。
「ひ、火宮華と申します。お初にお目にかかります」
「ふふ。そんなに緊張しなくてもいいのよ?」
くずはは華の目の前に立つと、目線を合わせるように少し屈んだ。
「話は尊から聞いているわ。なるほどね。思った以上に可愛らしいお嬢さんじゃないの」
「えっ?」
華は驚いて、尊とくずはを交互に見遣った。
しかし尊は特に言葉を挟まない。
「ここでの生活はなにかと不便でしょう。よかったら、今から一緒に出かけないかしら」
くずはは愉快げに片目を瞑ってみせた。
「……今から、ですか?」
§
集落から出たことのなかった華にとって、そもそも、帝都というのは想像の世界でしかなかったのだ。整備された地面も、路面電車も、煉瓦造りの建物も、まるで異国のように感じられた。
華とくずはは人力車に乗ってそんな街並みを颯爽と進んで行く。
「あの。これから、どちらへ向かうのでしょうか」
華はおずおずと問いかけた。窓の外の景色も気になるが、行き先も気になるのだ。
「百貨店という大型商店へ。華さんの服を買いに行くのよ」
「ふ、服? わたし、無一文の上に、一条家の居候なんですが」
「心配は要らないわ。あたしが全額払うから」
「いえ、ですが、縁もゆかりもない人間に、何故」
何故? と、くずはは華の言葉を繰り返した。
「一条家にずっといても、息が詰まるだけでしょう。それに、尊は貴女を保護しているつもりだろうけれど、年頃の乙女の心の機微をまったく理解していない……ッ!」
初対面の印象とは真逆の苛烈さで、くずははぐっと右の拳を握りしめる。
「つ、土御門、さま?」
「くずはと呼んでちょうだい」
(ど、どういうこと!?)
華にとっては青天の霹靂。まったく意味が分からない。
ただただ、勢いに圧倒されるだけ。
どうやらくずはという女性は、外見だけでなく中身も強烈らしい。
「買い物はあたしの我儘だから気にしないで。こうやって一緒に出かけられるような妹がほしかっただけなの。お姉ちゃんってこんな感じなのかしらね。ふふっ」
人力車がちょうど停車する。
到着したのは百貨店前。立派な彫刻の獣が扉の前に座している。
庶民ならこの獣の姿だけでおじけついて逃げ出してしまいそうだ。事実、華の足はすくんでいた。
重厚な扉が開かれると、一気に鮮やかな色彩が華の視界に飛び込んでくる。
「すごい……」
店内には着物や袴を着た人間よりも、洋装に身を包んだ人間の方が多い。
己のみすぼらしさが途端に恥ずかしくなってきて華は俯いた。
すかさず、くずはが華の手を取る。
「くずはさま?」
「貴女に似合うワンピースを選んで、眺めのいい食堂で美味しい物を食べるわよ。本当は観劇もできたらよかったんだけど、また今度にしましょう」
くずはが黄金の瞳をきらきらと輝かせた。
……そしてその言葉通り、百貨店の婦人服売り場にて、華はくずはの着せ替え人形と化したのだった。
「淡い緑色もいいし、紺色も捨てがたい!」
「あら、大人っぽく見える葡萄色もいいわね」
「それとも、模様が主体の方がいいかしら」
次々と洋服をあてがわれて、華はされるがまま顔をこわばらせていた。
(い、一体、何が起きているというの)
すると新たな一着を手にくずはが尋ねてきた。
「華さんはどれがいい?」
いきなりの質問。華はきょとんとした。
店員が用意した色とりどりのワンピースが、硝子の台の上に並べられている。
「どれが、……」
そのとき、華は気づいてしまった。
(自分がどうしたいか訊かれたことって、今までなかった)
はっとして顔を上げる。
(選んでいいの?)
百貨店へ足を踏み入れてから散々おじけづいていたはずなのに、急に、どのワンピースもすてきなものに見えてきたのだ。
(……選んでいいんだ、わたし)
これまで服はすべて母親のおさがりだった。今は一条家で借りている。
だけど、今は、自分のものを選んでいいのだ。自分だけのものを。途端に、胸が弾み出す。
「これがいいです!」
指差したのは白襟の形が特徴的な桜色のワンピース。
それは、尊と共に眺めた染井吉野と同じ色をしていた。
くずはが満足げに頷いた。
「うん、いいわね。似合ってる。じゃあ、それに合わせた帽子と靴、ハンドバッグも見繕ってもらおうかしら。日傘もおまけしちゃいましょう」
「え?」
「帰ったとき、尊がびっくりするような、とびきりかわいい恰好になるのよ」
「え? え?」
……そこからさらに数時間が経過して、華は、あれよあれよという間に流行の装いとなった。
「すてき! じゃあ、上に行きましょうか」
「は、はい。って、これは」
「エレベーターよ。これで上がるの」
通路の途中にある不思議な箱に乗り込むと、くずはが内扉を閉めた。
くずはが取っ手を動かすと、ぶぉんという音がして、箱が上昇した。
(ひ、ひいいいい! 上がってる!!)
「きゃあああ!」
「大丈夫よ、安心なさい」
半泣きになる華を、くずはは微笑ましく、もとい、愉快げに見守っていた。
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