(二)玉鋼の隠し場所
§
翌朝。
まだ暗いうちから華は美代と合流して、山の上の神社へと向かった。
整備されていないも同然の獣道のような山道だ。
頂上が見える頃には、華の額には汗が滲んでいた。
「み、美代さん、すごいですね。ちゃんとした山ですよ、ここ」
「運動にはちょうどいいんです。ほら、もう着きますよ」
肩で息をする華を見て、美代がくすりと笑みを零した。
美代が上方を指差す。
華が美代の指の先へ顔を向けると、赤い鳥居が視界に入ってきた。
やがて、鳥居をくぐったところで、美代が遠くを指差す。
「見てください」
華は瞬きを繰り返した。
視界の下半分で、重たそうに藍色の水が揺れている。
くっきりと分かれた上半分は淡い青。その境界に、白く淡い光が覗いている。
(まさか……)
華は息を呑んだ。
「もしかして、あれって、海ですか」
「そうですよ。華さん、海を見るのは初めてですか? 今に水平線から太陽が昇ってきますよ」
美代の言葉通りだった。
白く淡い光を放つのは太陽。
昼間とは異なる静かな輝きを放っている。白と黄色と橙であいまいな層をつくるまるい光。さらに、陸地へとまるで道を作るように光を伸ばしてくる。
太陽が徐々に空へと上がってくるにつれて、空も、海も、きらきらと煌めきながら明るくなっていく。
「すごい……」
「きれいですよね」
ふたりの顔を、眩い光が包む。
空気が凛と澄んでいるのは、ここが神社だからという理由だけではない。
深呼吸をすると、体の隅々まで浄められるようだ。
「毎朝、この景色を見ると。今日も一日頑張ろうって思えるんです」
行きましょうか、と美代が華を促した。
すると本殿前には先客がいた。
(まさか)
華は、息を呑んだ。
先に声を発したのは美代だ。
「あなた。帰ってきてたの?」
喜びと愛おしさを込めた問いかけだった。
ゆっくりと、その人物が、振り返る。
(朔夜……!)
間違いようがなかった。
予想通り、美代の夫とは、華の目の前で行方をくらました朔夜だったのだ。
華の記憶では珍しい着物姿。それでもすらりと背筋を伸ばして立っている姿は見間違いようがなかった。
その顔の右半分は、火傷を負っている。
火傷。尊が放った光によるものだ。
さらには、右目には、眼帯。
(……ほんとうに、朔夜なのね)
ぎゅ、と華は拳を握りしめた。
まだ苦しい。だけど今はこの足で、この自分で立ち向かわねばならない。
「ただいま、美代」
美代は小走りで朔夜の元へ駆け寄った。
ふわりと朔夜が美代の髪を撫でる。
「さっき戻ってきたところなんだ。ちょうど美代のお詣りする時間と被るかなと思ったら、正解だった」
朔夜が美代に向かって微笑んだ。
それから、ゆっくりと、華へ視線を向けた。
「そちらの方は?」
(……っ。本当に、記憶が……)
華は胸が詰まり、言葉が出てこなかった。
美代は昂揚しているのか、一気にまくしたてる。
「聞いてちょうだい、あなた。あなたの過去を知っている方たちと偶然知り合えたの。彼女は華さんと言って、かつて、幼なじみだったそうよ」
「なんだって?」
朔夜が目を見開いた。
「本当なんですか? 僕の、過去を」
「は、はい……」
華はなんとか声を振り絞る。
すると朔夜は美代の肩を左手で抱き寄せて声を上げた。
「教えてください。僕の本当の名前が何で、どこから来たのか」
「あなたの、本当の、名前は」
震えながらも華が答えようとしたとき。
「――華!」
この場にいない筈の、尊の声が華の耳に届いた。
同時に微笑んだ、朔夜が。
「すごいや、華。こんなところまで僕を追いかけてきたなんて」
愉悦に歪む表情。
その右手には見覚えのある短刀。鞘から抜かれた刀身がぎらりと光る。
「……あなた?」
美代がゆっくりと朔夜へ顔を向ける。
朔夜と美代の視線が合った瞬間、短刀は美代の腹へと振り下ろされていた。
「美代さん!!!!!」
上がる血しぶき。美代の体がゆっくりと崩れ落ちる。
返り血を浴びながら、朔夜は光を消したような眼差しで美代を見下ろした。血にまみれた左手には何かを持っている。
華は反射的に地面を蹴った。
「待て、行くな」
華の肩を掴んだのは尊だった。
どさり。美代が地面に倒れて、小刻みに震える。
「ふぅ。せっかく、玉鋼の隠し場所にいいと思ったのにな」
たった今、己の妻を斬りつけたとは思えない気軽さで、朔夜が呟いた。
その意味を理解した華はその場にへたり込んだ。
「……まさか、そんな……」
「うん。誰も女の
朔夜の左手。
ぬらぬらと血まみれになっているそれは、赤子ではなく、玉鋼だったのだ。
「それにしても天下の想軍は無能揃いで感心するよ。君たちはまた、守れなかった」
……ぱき。
何かがひび割れたような音が響く。
華が空を見上げると、硝子のひびのような割れ目が空に生じていた。
「ここの神社は一帯を守る結界でもあるんだ。そこに血が流れるというのがどういうことかは、中将殿なら分かるだろう?」
血だまりの中で痙攣していた美代は、いつの間にかぴくりとも動かなくなっていた。
(美代さん……! 助けられなかった……)
華は唇を噛む。
どうしようもないということがどうしようもないくらいに分かってしまった。
だけど気を失ったりここから逃げるようなことはしたくない。
(ようやく分かった。わたしの知っている朔夜はどこにも存在しなかった。穏やかさを装って、偽って。すべての元凶こそ、朔夜なんだ……!)
華は。
情けなさとふがいなさ、自分の愚かさで胸が潰されそうだった。
信じてもいいのではないかと思っていた自分を殴りたかった。
「ああ」
苦虫を嚙み潰したような表情でいるのは、尊だ。
瞳の色は黄金。いつでも異能を使える状態になっている。
「だからこそ出来うる限りの対策をしておいた」
「……へぇ?」
ざざざっという音がして、尊の周りには白い人形が無数に現れ浮かぶ。式神符だ。
「結界を張った。貴様がここから動けないように」
尊が華を振り返らずに告げる。
確かに華は球状の何かに覆われていた。
(あの日と、同じだ)
朔夜からは騙され。
尊には守られ。
何もできない自分を痛感する。
「
攻撃の火蓋を切ったのは尊だ。
何もない空間に刀が生まれる。輪郭に白くて眩しい光を帯びていた。まるで日の出のときの太陽のような眩しさ。
虚空を薙ぐと、光の矢が放たれる。
「無駄だよ」
朔夜が短刀の血を振り払うと、空中でそれらは球体へと変わる。
球体は向かってくる光に当たって爆発する。
「ははっ、すごいね! 玉鋼を隠しておいた女の血にこんなにも攻撃力があるとは。何事も試してみるのが大事だというのがよく分かる」
「朔夜!」
華はありったけの声を振り絞った。
どうしても震えてしまう。己のふがいなさに負けそうになる。
だけど、尋ねなければならない。それは同時に、尊の時間稼ぎにもなるかもしれないから。
「あ、あなたは、いつからそうだったの」
ぴたりと朔夜が動きを止める。華へ体を向けて、首をわずかに傾けた。
「いつから、だって?」
華のよく知る表情で。
穏やかで人当たりのいい微笑みを浮かべて、朔夜は続けた。
「華。君や皆が知らなかっただけで、僕は最初からこうなんだよ」
朔夜の右目が黄金に輝く。
「そしてこの女を殺したのは、――君が鍛えた刀だ」
「!」
ごぅ、と風が吹いた。
(わたしの鍛えた刀が、美代さんを)
華は冷や汗が全身から噴き出すのを感じていた。
かたかたと、指先が小刻みに震える。
(ころした)
「引っ張られてはいけない」
言葉を失っている華に、尊が声をかけた。
はっと華は我に返る。
「君は悪くない。元凶は、目の前の男だ」
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